第9話 同窓夜会
寄宿学校の卒業生が集まる夜会は、冬の王都でも妙に華やかだった。
会場になったのは、旧南館と呼ばれる石造りの大広間。天井から下がる枝型の燭台には無数の灯がともり、磨き込まれた床へ金色の光が落ちている。壁際には卒業年ごとの紋章旗が掛けられ、寄宿学校時代の成績優秀者の名簿や、慈善寄付の一覧まで額装されていた。
つまりここは、懐かしさを語る場であると同時に、誰が今どれほど上へ行ったのかを静かに見せつける場所でもある。
「なんだか、昔より息苦しい部屋に見えます」
馬車を降りる前、私がそう言うと、向かいに座るエリシャが袖口を整えながら視線だけを寄越した。
「昔は息苦しいと感じる余裕もなかったのでは」
「その通りです」
「なら今日は、余裕のある顔で入れ」
「ずいぶん難しい注文ですね」
「簡単だ。見下げる必要はない。見上げなければいい」
その言い方が、妙に私の背筋を伸ばした。
今夜の私は、救護院の書記ではない。ヴァレントワール公爵夫人としてここへ来た。借り物の立場だとしても、借りたからには使う。あの処刑台へ続いた序列の空気を、今夜は少しでも壊すために。
会場へ入ると、空気が一度だけ止まった。
楽団の弦が細く震え、談笑していた貴婦人たちの扇が半拍遅れる。誰かが私の名を囁き、それが薄い波みたいに広がっていく。
「まあ、スカイラーさん?」
「本当に?」
「公爵夫人ですって……」
驚き、興味、値踏み、懐かしがるふり。
どの視線も昔より綺麗な衣装を着ているだけで、本質は変わらない。
私はエリシャの腕へ指を添え、会場中央へ進んだ。彼はいつも通り無駄なく歩く。その一定の歩幅が、場の空気に飲まれそうになる私の呼吸を整えてくれる。
「緊張しているか」
「少し」
「いい。震えを隠すより、歩幅を乱すな」
「公爵閣下は励ましが硬いですね」
「柔らかく言えば、君は余計に意識する」
否定できないので、私は口元だけで笑った。
ほどなくして、藤色のドレスが人の輪を割って近づいてきた。
マリベルだった。
今夜も完璧に美しい。肩へ流す金髪、控えめなのに高価だと分かる首飾り、潤んだように見える大きな目。悲しみも好意も同じ顔で作れる女は、こういう場で決して取り乱さない。
「久しぶりね、スカイラー」
親しげな呼び方に、周囲の耳がそっとこちらへ寄る。
「ご無沙汰しております、マリベル様」
「あなたが来てくださるなんて嬉しいわ。寄宿学校の頃は、こういう場は苦手だとおっしゃっていたでしょう?」
来た。
過去の私の未熟さや場違いさを、懐かしい思い出として披露する形で刺してくる。悪辣なのに、表面だけ見れば好意の会話だ。
「苦手でしたね」
私はあっさり頷いた。
「椅子の座り方一つで笑われますし、スープ皿を下げる順番を間違えると一週間は囁かれますし。失敗の覚えはたくさんあります」
先に自分で言うと、周囲の空気がわずかに揺らいだ。
マリベルの笑みが一瞬だけ薄くなる。
「でも助かりました。皆さまのおかげで、王都では失敗を隠すより先に片づけた方が早いと学べましたから」
「まあ」
「今では帳簿でも人間関係でも、こぼしたものはすぐ拾うようにしています」
何人かが小さく笑った。露骨な嘲笑ではない。張っていた糸が一本だけ緩むような笑いだ。
恥を恥として渡さず、自分の手元へ引き戻す。
一度目の人生ではできなかったことを、今度はやる。
マリベルはすぐに立て直した。
「相変わらず、言葉を面白く使うのね。そういえば、寄付金の集計でもよく夜遅くまで残っていたでしょう?」
「ええ。数字は夜の方が静かで助かります」
「寄宿学校の寄付台帳も、あなたがよく整理していたわよね」
その一言で、私の背筋に冷たいものが走った。
寄宿学校時代の寄付台帳。
救護院の金の流れだけでなく、あの学校時代から不自然な数字が積み重なっていたなら、マリベルの家はずいぶん長く同じやり方を続けていたことになる。
「整理、というほどでもありません」
私は杯を受け取りながら言った。
「ただ、同じ月に同じ額の寄付が二度載ると気になるだけです。昔から、癖みたいなものなので」
今度こそ、マリベルの睫毛が一度だけ止まった。
「数字に強い方は羨ましいわ」
「強いというより、気になってしまうだけです。たとえば寄付者名が違うのに筆跡が同じとか、寄付日は冬なのに搬入品が夏布だったとか」
周囲の空気が静まる。
私は笑って杯を傾けた。
「昔話ですよ」
それで逃げ道を一つだけ残す。エリシャのやり方を、少しだけ真似た。
マリベルは扇を開き、口元を隠した。
「スカイラー。あなた、ずいぶん変わったのね」
「死ぬほど困ると、人は少し変わります」
口にした瞬間、周囲の貴婦人の一人がぎくりとした。処刑台の記憶を知るはずもないのに、言葉の響きだけで何かを感じたのだろう。
マリベルは微笑を崩さないまま、しかしそれ以上は踏み込まなかった。
「今夜は楽しいお話だけにしておきましょう」
そう言って離れていく背中を見送りながら、私はやっと息を吐いた。
「よく耐えた」
隣でエリシャが小さく言う。
「耐えた、でしょうか」
「十分だ。あれ以上やると、相手が泣く」
「マリベル様は泣くのが得意ですから、勝負になりませんね」
そのとき、若い伯爵夫人が二人、私の前で扇を揃えるようにして声を潜めた。
「ねえ、スカイラー様。昔の学校では、本当にそんなに厳しかったの?」
「厳しいというより、見せ方の訓練でした」
「見せ方?」
「笑う角度、視線を落とすタイミング、褒められたときの驚き方。前世で少しだけ見たアイドル育成遊戯みたいだと思ったことがあります」
二人は目を丸くし、それからこらえきれないように笑った。
「まあ、面白い比喩」
「確かに、社交界は育てられた偶像みたいなものね」
ほんの短い会話だったが、その笑いは先ほどの空気とは違った。人を落とすためではない、肩の力を抜く笑いだ。
会場の奥では、卒業年ごとの名札が並ぶ壁際に人だかりができていた。私はそこへ足を向ける。額装された寄付者一覧を眺めるふりをしながら、古い年の記録へ視線を滑らせる。
やはりあった。
マリベル家名義の寄付が、三年続けて同じ額、同じ時刻に受理されている。その隣には別家名義の寄付。額がぴたりと同じ。字体も、離れて見れば似ている。
人の流れを見計らい、私はその年号を記憶した。あとで調べればいい。今夜は、ここに不自然さがあると確かめられただけで十分だ。
「顔色が悪い」
不意に、低い声がすぐ耳元に落ちた。
エリシャの声だ。
何事かと思って振り返ると、彼の視線は私ではなく、壁際の大きな姿見へ向いていた。
釣られて私も見る。
鏡の中の会場は、現実より少しだけ青白い。燭台の光が伸び、踊る人影がゆらいでいる。
その中央で、ほんの一瞬だけ景色が変わった。
血だ。
鏡の中だけで、廊下の向こうが真っ赤に染まっていた。煙が立ちのぼり、黒い煤にまみれた木札が床へ散っている。七。三。十一。見覚えのある数字。救護院の子どもたちの首に下がっていた札だった。
燃えている。
救護院が。
「っ……!」
私は思わず息を呑んだ。次の瞬間には、鏡は何事もなかったように華やかな広間を映している。
「見えたか」
エリシャの声が低くなる。
「はい……救護院が、火で」
説明はそれだけで足りたらしい。彼は即座に杯を近くの給仕へ渡し、私の手首を取った。
「行くぞ」
「今すぐです」
「今すぐだ」
会場の何人かがこちらを見たが、構っている暇はない。私は裾を持ち上げ、大広間を抜けた。
鏡の中に映った赤は、処刑台の日の血の色に似ていた。
あれが未来なら、今夜のうちに折る。
今度こそ、燃やさせない。




