1-3 日常性の破れ
朝の支度を済ませた私は、今日も自室に別れを告げる。
団地のコンクリート階段を降りて、駅へと続く坂道を歩く。
珍しく一度目のアラームで起きられたため、時間に余裕を持って家を発った。
普段は走り過ぎていく坂道を、今日は穏やかに歩いていく。
先週まで咲き誇っていた桜はすっかり花を落とし、代わりに瑞々しい緑と眩しい木漏れ日が街を彩っている。
――やがて辿り着いた、いつもの教室。
「今日は、いよいよ待ちに待った校外学習ですね」
南雲先生の少し楽しげな声に呼応するように、生徒たちの歓声が教室に響き渡る。その熱気の中で、私だけがひっそりと重い溜息を吐いていた。
校外学習。響きは穏やかだが、実態は校外演習とでも言うべき過酷なイベントだ。
学校外の施設、魔物の巣、「魔巣」や遺跡などに赴き、実際に魔物を討伐する。
しかも、あの忌まわしき実技科目の評定に組み込まれているのだ。
「みなさん、怪我のないよう楽しんでいきましょう!」
先生の明るい言葉が、力のない私の心に深く、冷たく刺さった。
*
一行はバスに乗り込み、この町の北東に位置する山、神峯山へと向かった。
ここには、古代にこの地を守るために建立されたと伝わる「神峯遺跡」がある。
バスは市街地を抜け、扇央に広がる田園地帯を走り抜けた。
遮るもののない朝の光が窓から差し込み、私はその眩しさに目を細めてカーテンを閉めた。
やがて道は細くなり、舗装がところどころひび割れた山道へと差し掛かる。
ぐらぐらと激しく揺れる車内。バス特有の揺れがますます強まり、顔色を悪くする学生の姿もちらほらと見え始めた。
小さな悲鳴や笑い声が交じる中、車両は慎重に山を登っていく。
しばらくして、私たちは神峯山八合目――神峯神殿の前に辿り着いた。
バスを降りた瞬間。あれほど賑やかだったクラスメイトたちが、示し合わせたように口を噤んだ。
風の音すらない、鼓膜が痛くなるほどの異様な静寂。その沈黙の理由は、木立を抜けた広場の中央に鎮座する『それ』を見れば明らかだった。
この国の遺跡といえば、数千年前の古代の木造建築を復元したものが全てだ。
しかし、この遺跡だけは、遠く西の国々に見られる建築様式に似ている。
白亜の列柱は、数千年の風雨を耐えてきたはずなのに、角の一つも丸まっていない。
苔も生えず、ひび割れもないその質感は、圧倒的で、不気味なほどの新しさを放っていた。
呆気にとられていた集団も、時間が経つにつれて徐々に騒がしさを取り戻していく。
ただ、学院長が前に出ると、場は再び静寂に包まれた。
「――この遺跡は古代、神の啓示によって建立され、現在は我々が安全に管理・研究している」
広場に響き渡る、学院長の仰々しく由緒正しき解説。
けれど、私はその物語のすべてが真実だとは思えなかった。
祀られている神の名前すら分からないのに、すべてを理解しているかのように語る人間の姿が、少し傲慢にすら見えた。
「――しかし、まだ未解明の部分も多く、安全を絶対に保証することはできない」
この遺跡は、まだ浅い数十階層のみが暴かれ、それより下は未知の領域だという。
どのような危険が潜んでいるか分からない暗がりへ進むのは、やはり少し怖い。
だが、私たち学生よりもずっと優秀な先生たちが引率しているのだから、私が心配することではないのだろう。
狭い通路を通るため、クラスは二つの班に分けられた。
私たちA班は南雲先生を先頭に、遺跡の内部へと足を踏み入れた。
神殿内は薄暗く、ひんやりとした空気が肌を刺す。
けれど、不思議と不快ではなかった。不快というよりはむしろ、何かが欠けているような、空虚で異様なほどの静けさがあった。
「璃星、足元が暗くて……照明、お願いできる?」
「うん、任せて」
詩織の声に応え、私は『ライト・スフィア』を展開する。こんなちっぽけで弱い魔術でも、誰かの役に立てるのは嬉しい。
それに――暗闇のせいだろうか。私の手から零れた小さな白光は、この空間ではいつもより僅かに明るく、ひどく自然に馴染んでいるように見えた。
一行は、少し歩いた先にある『古代言語研究室』へと案内された。
中は清潔で明るく、壁沿いには何万冊という魔導書や翻訳資料が堆く積まれている。
魔術史が好きな私にとっては、目を輝かせずにはいられない宝の山だ。
私は速やかに許可を取り、手近な分厚い本を開いた。
羊皮紙に記された、装飾に満ちた古代文字。そこに付箋された、現代の魔術式や神話の解釈。
実技はからきしだけど、こうして歴史の神秘に触れ、かつての魔術師たちが残した足跡を辿る時間は、たまらなく好きだ。
擦り切れた挿絵を指でそっとなぞり、物語の世界へ深く、深く沈み込んでいく――。
*
「――白川、時間です」
研究員の話を聞きながら思考に耽っていると、南雲先生に肩を叩かれた。
もう二十分も経ったというのか。
楽しい時間は、どうしてこうもあっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。名残惜しいけれど、ここでお別れらしい。
「さて、次はいよいよ最深層、第三十階層の見学です」
南雲先生の指示に従い、私たちは再び通路に出る。
――そこから延々と続く、長い長い石段を下っていく。
本来なら下層へ進むにつれて魔物の気配が濃くなるはずだけれど、不思議と一匹の魔物に出くわすこともなかった。
ただ、私たちの靴音だけが不気味に反響している。
気が遠くなるほど降りたその地は、地上の光が絶対に届くことのない奈落の底。現在知り得る最深、三十階層。地上百五十メートルの摩天楼がすっぽり収まるほどの深淵。
昔の人々は、いったい何を意図して、地の底へ向かってこれほど巨大な空間を穿ったのか。
――最深部に足を踏み入れて、数分後のことだった。
突如、足元から内臓を揺らすような、這いずるような低い地響きが轟いた。
「きゃっ!?」
「なに! 何が起こってるの!?」
集団のあちこちから、悲鳴が上がる。
遺跡が揺れている。空間が揺れている。しかし、それは自然の地震などではなかった。
空間そのものが悲鳴を上げているような、圧倒的な悪意の奔流。
事を理解する間もなく、私たちの立っていた強固な石畳が、腹の底に響く轟音と共に崩落し始める。
重力に引かれ、真っ暗な奈落へと落ちていく身体。
無数の瓦礫の中で頭に激しい衝撃を受け――私の意識は、そこで暗転した。




