1-1 名もなき日常
私が無数の光となり、空へ溶ける夢を見た。
思考が朝霧のように解け、無に落ちるような感覚。
死とはこういうものなのだ。その悟りとともに体を起こした。
悲しくはなかった。ただ、愛おしいものを全て抱きしめたような、そんな心地だった。
世界はまだ暗闇だった。こんな時間に起きるのは、レポート締切前日くらいしかない。
眼をこすりながら、おもむろに立ち上がった。フローリングの擦れる音だけが、朧げな意識に入ってくる。
あまりにも静かすぎた。
夢の余韻のせいか、曖昧な意識のせいか。この暗闇の中にいると、実体までも溶けてしまいそうで心許ない。
私は日常を求めて、手探りでリモコンを掴んだ。
深夜の静寂に、テレビの音が広がる。
安堵のため息をつきながら、私は冷たい床に座り込んだ。
『――かつて世界がまだ混沌の海であった頃、二柱の神が存在しました』
画面の向こう、深みのあるナレーターの声が、神代の物語を紡いでいる。
普段なら気にも留めないオカルトドキュメンタリー。けれど、なぜか目が離せなかった。
『善なる光の神と、悪なる闇の神。相反する二つの意思が衝突した。その余波が砕け散って星となり、生命が生まれたのです』
『ゆえに、我ら生命の本質は闘争にあり、この世は善と悪が永遠に相克する舞台であるのです――』
近代まで信じられていた、古臭い創世神話。
今の魔導科学では否定されている、ただの「物語」。
画面には、荒々しい筆致で描かれた神々の想像図が映し出されている。
光を纏う神と、闇を纏う神。
その絵は、教科書で見たどの挿絵よりも荘厳で、神を表しているはずなのに。
「違う……」
『――現代においても、この二元論を信仰する者は少なくありません。彼らは信じているのです。いつか再び神々が目覚め、決着をつける時が来ると』
「そんな顔してない……」
もっと優しくて、もっと、悲しげで。そして何より、孤独だったはずだ。
――私は今、誰の物語を語っているのだろう。
暗闇に堕ちた自分の声が、ひどく滑稽に思えた。
ただの神話だ。顔も知らない他人の作った妄想に、何を熱くなっているのか。
「……寝よう」
電源を落とすと、部屋は本来の闇を取り戻した。
テレビの光だけが、残響のように眼に漂っている。
全く関係ないはずの神話。けれど、瞼を閉じてもなお、棘のように刺さって抜けなかった。
その異物感を持て余すうちに、いつしか意識は、再び深く、深い底へと沈んでいく。
先の心地よい夢とは違う。もっと重く、抗いがたい運命に引かれるように。
*
目覚ましのけたたましい音に、私は再び現実へと引き戻された。
カーテンの隙間から、木漏れ日のようなやわらかい光が差してくる。
光の筋の中で、微小な埃がキラキラ反射しながら、溶けるように消えていく。夢の続きを見ているかのようだった。
「なんで、あれだけはっきり『違う』と思ったんだろう……」
なにか知っているようで、何故か言葉にできない。
そんな不気味な想いに身を寄せるうち、再び音に包まれた。長針は4を指し、二度目のアラームを知らせる。
現実はいつだって、時間の影に追われている。消えゆく夢の尾を掴む暇は、私には与えられていない。
鉄より重い体をベッドから剥がし、私は洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗い、寝癖のついた髪を梳く。
キッチンから、チンという間の抜けた鈴音が鳴った。
急いでオーブンを開け、まだ素手で触れないほどのパンを摘み、口へ押し込む。
水分を奪う無味乾燥なトーストが、無理やり胃へと落ちていく。その乱暴な感覚が、なぜか胸の奥を煽った。
その焦燥を掻き消すように、慌ただしく制服に袖を通した。
テレビ画面の隅では、天気予報が降水確率0%を告げている。
傘は必要ない。だけれど、なんとなく不安で、鞄の底に折り畳み傘を押し込んだ。
消灯。暗がりから目を背けるように、足早に廊下を進む。
整列された靴に足を通し、通学鞄を肩に掛ける。
扉は重たい軋み声を上げ、ようやく、孤独な部屋に別れを告げた。
団地のコンクリートを駈け降りて、駅へ続く坂道を急ぐ。
遠く海から吹き上げる風が、建物の間を縫って唸りを上げていた。
B02、B01、A06……無機質に区別された建物たちが、私を送り出すように並んでいる。
桜色の絨毯が、細やかな彩りを与えている。しかし、私にはただの背景でしかなかった。
時間は……38分。発車まで残り2分。早鐘を打つ心臓の音が、耳奥で痛く煩く鳴っている。
息を切らしながら改札へ飛び込む。
列車の甲高い音を聞きながら、ひたすら階段を駆け上がる。
人の奔流に背中を押されるようにして、閉まりかけの扉へ滑り込む。
顔見知りの他人ばかりの空間へ、ようやく辿り着いた。
車内では、魔素を帯びた中吊り広告がチカチカと明滅している。
誰も見ていないというのに、虚しく自己主張を続ける光。現代の都市ならどこにでもある、ありふれた魔力の無駄遣い。
息を整えながら窓の外へ目をやると、見慣れた景色が流れていく。
ひどく整った街の先、長閑な田園へと入り、再び無機質な街へと戻っていく。
秋津国中部の、海と山に囲まれた天流市。
誇れるような大きさも、胸を張るような歴史も、何もない。
善と悪が対立するなんて、大層なことを言っていたけれど。ここには、そんな壮大さなんてない。
潮風が吹き、人々が暮らす、退屈なほど平和な日常だけがある。
*
「学院前、学院前です。科学センター、方面へは1番線の列車にお乗り換え……」
アナウンスの声に引き戻され、私は魔術史IIの本を閉じた。
ほどなくして電車は止まり、ゆっくりと扉が開く。人の熱気と朝の涼風が混ざりあい、生ぬるい風が肌を撫でる。
私はホームへと降り立ち、また人の流れに乗って階段を駆け降りる。
改札を抜けると、一段と冷たい風が肌を襲う。潮の香りが、鼻を掠める。
そして、視界いっぱいに学院が広がった。
白銀の校舎が、朝日を受けて淡く輝き、海碧の装飾が、建物の縁を静かに縫っていく。
ここが、私の学び舎。
なぜか惹きつけられる魔術を学ぶ場。
全国でも有数と言われる、この学院に――
私は、ただ端っこの方で所属している。本当に、ただそれだけだ。
ふう、と小さく息を吐いて歩き出そうとしたとき、不意に声が降ってきた。
「よっ、璃星」
駅の柱にもたれかかっていた彼が、腕を軽く振ってみせる。
——榊原律斗。
学院の制服をきちんと着こなしているものの、その額にはうっすら汗が滲み、息も僅かに上がっている。
「律斗……あなた、寮生なのにどうして駅にいるの? まさか、また朝から山で鍛錬でもしてたの?」
「げっ、バレたか……」
バツが悪そうに頭を掻く彼の掌には、グリップの黒い汚れと、硬いマメが覗いている。
学生たちから「天才」だの「百年に一度の逸材」だのと囃し立てられる彼の実像は、そんな美辞麗句とは程遠い、ただの泥臭い努力家だ。
そんな彼が、こんな私を特別視することもなく、当たり前のように隣を歩いてくれる。
「ほら、早く行かないと遅れるぞ」
「……はいはい。努力家さんに置いていかれないようにしないとね」
彼は少し歩幅を緩め、私の遅い歩調に自然と合わせる。
彼が歩き出し、私もその後を追う。
そこに甘い空気なんて欠片もなくて、ただ純粋な関係性だけが漂っていた。
*
8時50分……私たちは教室へと辿り着いた。
今日もいつもと変わらず、始業10分前。
「おはよー」
私のひどく気の抜けた挨拶が、教室の喧騒に揉まれる。
「あっ、りせじゃん!おはよ!」
「おはよう、詩織。今日も早いね」
彼女は有栖川詩織。名門の出でありながら誰にでも優しい、私のもう一人の親友。
道端の桜、昨日のドラマ、提出期限の確認——
他愛もない会話で朝のささやかな時間を潰す。けれど、さすがは優等生の集まる天流魔術学院。
チャイムが鳴る寸前には、全員が然るべき場所で背筋を伸ばしていた。
始業の鐘が鳴り響き、新学期初めての学校が始まった。
始めに担任が号令を行う。そして……
「本日は学期始めなので、ステータスを返却しますよ」
ステータス——年三回配られる、前学期までの残酷な成績表。
学期末に配れば良いものを、以前の成績を顧みるべしと、期間を空けて配ってくる。
名簿順に名前が呼ばれていく。教室のあちこちで、歓声や安堵のため息が交差している。
どんな成績か分かっているのに、自分の番が近づくにつれ、胃の奥がじわじわと痛くなってくる。
やがて無常にも名前が呼ばれ、私は足取り重く教卓へと向かった。
先生の「もう少し頑張りなさい」という無言の視線を受け流し、逃げるように自席へと戻る。
受け取った裏返しのプリントを、薄目を開けてそっとめくる。
「知識」の項目には、SとAが美しく整列している。ここだけ見せれば、みんななんの抵抗もなしに優等生だと言ってくれる。
でも、「実技」の項目……D, Eという文字の羅列が、私を嘲笑うように踊り狂っていた。
総合成績は、知識項目のおかげで辛うじて平凡。だが、この魔術学院で、実技が平均以下の人間など「落ちこぼれ」というレッテルを貼られても仕方がない。
(私に封印されていた力があって、実はものすごく強かったりして……)
現実逃避のような妄想が過ぎるが、すぐに自嘲して掻き消した。そんな痛々しい空想に浸る暇があれば、魔力操作の練習をしたほうがマシだから。
*
新学期初日。ステータス返却のあとには、講堂で始業式をするはずだけれど……
「始業式って外でするらしいよ」
「知ってる! 5年生の闇魔術の実験が失敗して、講堂が煤だらけになったんだってね」
なんでも、制御されていたはずの魔素が、不可解にも舞台の方向へ向かって大きく暴走したらしい。結局、舞台装置に異常は見つからず、術者の魔力制御ミスとして処理されたのだとか。
そんな騒動の余波で、私たちは春の陽射しが降り注ぐ演習所へ駆り出され、校長の退屈な長話を延々と聞かされる羽目になった。
ようやく解放され、教室の喧騒へ逃げ帰ったのも束の間。
無情にも一限目のチャイムが鳴り響き、新学期の授業が幕を開けた。最初の科目は――『魔術史II』だ。
この教科は、中世から現代に至るまでの魔術の歴史を辿るもので、とても興味深い内容だが……とても眠くなる。
なんせ、教科書を読み上げるだけで、面白いお話は一切してくれないのだ。
中世の、まだ科学がそれほど進歩していなかった頃。人が理論ではなく、概念と信仰で魔術を理解していた時代。私ならもっと面白く講義できるのに。
そんな不満を抱えながら、単調な声を聞いているうちに……私の意識は、抗いがたいまどろみの底へと落ちていった。
*
また、この夢だ――
古びた聖堂のような空間。連互する首座。逍遥する光柱と、どこか懐かしい声たち――
夢を夢と理解できることは稀なのに……
どうにもこの夢だけは、その常識を逸脱してくる。
常に明晰で、いつも意味ありげに佇んでいる。
私の記憶を逆撫でするかのように。
声たちは懐かしいのに……懐かしいはずなのに……
なぜ懐かしいかも、そもそも何かも理解できない。
その言葉たちは文字にもならず、ただ白銀にほどけて消える。
まだその意味は形より上で、いまだ手は届かない――
「――白川。起きなさい」
冷たいチョークの音と先生の声で、私は現実へと引き戻された。
甘い香りも、荘厳な領域も、急速に靄となって消え去り、ただ退屈な教室だけが残された。
毎日のように私を囚える、あの謎めいた空間。あれは一体何なのだろう。
*
――次の時間は……出た、地獄の実技科目、魔術実践II。単位数はなんと4。しかも必習得科目。この単位を落とせば留年が確定する忌まわしき科目。
この科目、一年のときも40点ギリギリの落単ラインだった。もちろん、好きでそのような点数を狙っているわけではない。
そう思いながら、私は重たい足を引きずって、再び演習場へと向かう。始業式の時よりも、明らかに足取りが重い。
「実技が絶対。その残酷なまでに単純な真理が、一歩ごとに私の肩を重くする」
ただ、それは仕方ない。これから向き合うのは、自分が一番直視したくない現実。
そしてこれは、私の属性――光という名の、美しくも皮肉な才能に他ならなかった。




