第九章その3 留学のために
1泊2日の修学旅行を終えて無事に帰宅した俺は、その日の内にニュージーランドへ留学したいと両親に伝えた。
ラグビーに打ち込んで、プロ選手になって活躍する。それが俺の掲げる人生の目標であることを南さんは思い出させてくれたのだ。
すぐさま電話でコーチにもその旨を伝えると、すぐに協会の方に連絡を入れると返事があった。確定は募集締め切り後の来年夏になるが、会長に掛け合えば今の内から内諾をもらえるらしい。
このまま順調にいけば、俺は中学2年から晴れてニュージーランドに渡ることができる。まさかこうもトントン拍子に話が進むなんて、逆にうまくいきすぎて不安を覚えてしまうくらいだ。
だが留学の前にひとつ、どうしても解決しておかねばならない難題があった。
「ええと、ジスイズアペン、ハーワーユー、ファインセンキュー……」
学校からまっすぐ家に帰ってすぐに机に向かう。そしてノートとドリルを開き、ブツブツと念じながら問題集を解きまくる。
留学するなら必要だろうと、急いで父さんが買いそろえてくれた英語のテキストだ。他にも来月から、英会話のスクールにも通うことをすでに決めている。
そう、ご存知の通りニュージーランドは海外。当然ながら日本語なんか通じるわけが無い。
幸いにもニュージーランドの公用語は英語なので、勉強を始めるにもまだ親しみがある。もしこれがフランス語とかスペイン語だったら「こんにちは」「ありがとう」から始めるところだったな。
しかし英語の勉強なんて、前の人生で高校卒業して以来だ。
海外旅行も韓国と台湾だけで、しかもガイドがいっしょだったのでろくに英語を話さなかった俺の英語力なんてたかが知れている。なんとなく覚えているとはいえいきなり難しいところから挑まず、中学レベルから見直していった方が良い。
何せ俺、中1の時にテストで「Yes, I do.」が正解になるところを「Yes, I bo.」とか書いたこともあるくらいだぞ。
留学までの2年間、みっちり英語を身につけないとラグビーどころか日常生活もできないほどの問題だからな。
小学校でも英語の授業はあるが、これだけでは足りないし日常会話のレベルまで達しない。文法やスペル、そして語彙力と鍛えるべきものはごまんとある。
とりあえず目標があると勉強する意欲も湧くので、英語検定を受けることにした。まずは近日中に英検4級を受けて、留学までに準2級まではクリアしておきたい。
てか準2級って大学入試レベルだよ……本当に大丈夫かな?
「太一、文中で過去形が出てる時、さらに前の時間の話をする場合はhadを入れて大過去にするんだぞ」
机の隣に立った父さんが指摘する。父さんは若い頃海外出張にも行ったようで、今でも相応の英語力を備えているので家庭教師として適任だった。
「あ、そうだった。ええと、When I arrived in the room, he had already finished cleaning it.」
まだ脳が柔らかい小学生だからか、はたまた一応は前の人生での貯金があるおかげか、かつてはあんなにひーこら言ってた英語の学習も、思ったより順調に進めることができた。
もちろんラグビーも手を抜くことは無い。いや、むしろ留学を決心してからより一層励んでいる。
練習時間は他よりハードなメニューをコーチに組んでもらった。特にタックルなどコンタクト面での練習は小学生では相手にならないので、中学生に混じってガチンコで身体をぶつけ合った。それでもやはり100キロ近い体重の俺を止めることはできず、時にはOBの高校生や大学生を呼んで相手をしてもらうこともあった。
だがそんな風にラグビーも英語もと頑張っていると、他のことにはまるで興味関心が無くなってしまう。修学旅行から早1か月、俺は家と学校と運動公園だけが生活圏になっているような日々が続いていた。
「小森、なんか疲れてね?」
休み時間、机に突っ伏す俺の背中をハルキがつんつんとつつく。
「そうかな?」
「そうだよ、前はもっとエネルギッシュなデブだったのに、今はお歳暮でもらって冷蔵庫で忘れ去られたボンレスハムみたいだぞ」
ワケ分かんねーよ。
けれどもなんか変わってしまった気がするのは事実だ。全力で続けているせいか頭がいつもラグビーと英単語でぐるぐるしていて気が休まらない。かといって気分転換なんてしていると余計に落ち着かないしですっかり疲れ切ってしまっていた。
そして俺はまだ、南さんに留学の話をしていない。というか修学旅行以降なんとなく話しづらい空気があって、わざと彼女を避けてしまっている気さえする。
「トイレ行ってくる」
俺はよっこいしょと立ち上がり、教室を出た。
用を済ませてトイレから出てきたときのことだった。
「ちょっと小森」
なんとクラスの女帝、伊藤さんがひとり廊下で待ち構えていたのだ。彼女がお供を引き連れていないなんて珍しいなと思ったが、「こっち来て」と鋭い眼光を向けられると従うしかない。
連れていかれたのは屋上に続く階段だった。3年前、通り魔を撃退した翌日に南さんからチョコを渡されたあの場所だ。
「小森、あんた最近亜希奈に冷たいんじゃない?」
威嚇するように顔を近づける伊藤さんに、俺は「そうかな?」と目を逸らす。
忘れてはいないと思うが、亜希奈とは南さんの下の名前だ。もっぱら男子だけでなく女子からも「南さん」とか「南ちゃん」と呼ばれているので忘れられがちだが、伊藤さんは女子のことをいつも下の名前で呼ぶ。
「そうよ、ずっと仲良くしてたのにここんとこよそよそしいというか、他人行儀って感じするわね。男子なんだから中途半端なことして不安がらせちゃだめよ」
図星を突かれて俺はうっと黙り込む。
なんとなく伊藤さんが女帝として君臨している理由が分かった気がする。この子は周りのことをよく見ているし、口調はこんなんだが根はお人好しだからだろう。
「あの子、平気そうに振る舞ってるけど中身は結構繊細だからね。丁寧に扱ってあげなさいよ。じゃないと私、あんたのこと許さないから」
そして責めるように付け足す。なんとなく彼女のことは怖いなとは思っていたが、その考えも改めてしまいそうだ。
「伊藤、その辺にしておけ」
だがその時、階段の下から聞こえた男子の声に俺たちは固まった。
西川君だ。ポケットに手を突っ込んでずんずんと階段を上がりながら、彼は伊藤さんに話しかける。
「小森だって色々考えてんだ。お前の言い分だけ押し付けんなよ」
「はあ、喧嘩売る気?」
学年イチのモテ男に、伊藤さんは剥き出しの歯を見せる。
そういえば前に聞いたことがある。西川君と伊藤さんは家がすぐ近所で、幼稚園に入る前からよく一緒に遊んでいたらしい。いわゆる幼馴染で、気の知れた関係なのだろう。
「それと小森、隠し事が悪いとは思わないけど、話せるようになったらきちんと話してくれよ。俺とお前は同じ金沢スクールのメンバーだからな」
西川君は俺と伊藤さんの間に割って入ると、そう言って心配そうな眼をこちらに向けた。
やっぱり彼も勘付いているのか。俺は「うん……」と弱々しく返事するしかなかった。




