第九章その1 修学旅行のバスにて
南関東に住む人間にとって、北関東は案外行く機会が少ない。栃木県の日光は同じ関東圏であっても、行ったことが無いという子が過半数だった。
今日は修学旅行出発の朝。小学校の校庭に集まった子供たちはみんな大きなリュックや肩かけカバンを持って、楽しみを抑えきれずにもう友達同士で写真を撮ったり観光ガイドブックを取り出して読んだりしていた。
「おいおい太一、修学旅行だってんのに何だよそんなシケた面しやがって」
他の子よりも一回り以上でかいバッグを肩にかけながら、ハルキがいつものように声をかけてくる。なぜか頭の上には某超有名テーマパークのマスコットの耳を模した被り物が乗っかっていた。
当然、背後からずんずんと先生が近づいてくるがハルキはまるで気付かない。
「お前は浮かれ過ぎだ。何だこの荷物は?」
そう言って先生はハルキのバッグを奪う。中から出てきたのはゲーム機、トランプ、花札、ボードゲーム等々、家中からかき集めたおもちゃだった。シュノーケルマスクと浮き輪なんて何に使うんだよ。
「ハルキ、これは没収だ」
「ああ先生! 教え子の楽しみを奪うなんて、ひどい!」
バッグを持って職員室に戻る先生を追って、ハルキも校舎へと消えていく。
代わって声をかけてきたのは南さんだ。
「小森君、本当になんか元気ないよ。どうしたの?」
声の調子から本気で心配してくれているようだ。俺、そんなに元気なく見えるかな?
俺は「うん平気だよ、ありがとう」と返すものの、彼女は釈然としない様子だった。だが今訊いても無駄だと判断したのか、彼女はすんなりと引き下がる。
「何か悩みあったら言ってね、いくらでも相談に乗るから」
そんなの絶対言えないよ。特に南さんには。
まさかニュージーランド留学なんて、微塵も考えてもいなかったのに。
ニュージーランドといえば世界最強のナショナルチーム、オールブラックスを擁するラグビー大国だ。
人口は500万ほどと神奈川県よりも少ないが、ラグビーの競技人口は15万以上、なんと国民の3%以上がラグビーをプレーしているのだ。この数字は日本国内でサッカーと野球の競技人口割合を足したものさえも上回ると言われている。
コーチの話によれば、うまくいけば中学2年から高校卒業までの最長5年間、ラグビーの本場ニュージーランドでラグビーの練習を積みながら勉強することができるという。現地で高校卒業資格を得れば、日本の大学に進学することも可能だ。
日本では中学世代は競技人口や安全面を考慮して、12人制のジュニアラグビーが主に浸透している。ここではまだ身体の出来上がっていない中学生でもプレーできるよう、コンタクトなどのルールが簡略化されている。
しかし国際的には大人と同じ15人制が、ジュニア世代でも実施されている。中学時代は日本で12人制ラグビーに打ち込んでいると、国際的な15人制のルールに親しめないというデメリットがあるのだ。
俺は大柄で身体も強いので、15人制にも対応できるだろうというのがコーチの判断だった。特に日本はバックスなら世界でも活躍できるものの、フォワードは体格の良い海外出身の選手に頼りがちなために俺のような大柄な選手は貴重だった。
また学費や渡航費も協会が補助してくれる。日本ラグビー発展のため、中学の内から有望な選手を一流の環境に置きたいというのが狙いだ。
将来ラグビーで食べていきたい身としては願ってもない話だ。
「でもなぁ」
横浜を発ったバスの中、俺は車窓をぼうっと眺める。ちょうど東京のど真ん中だ、向こうにスカイツリーが見える。お、浅草名物金色のウンコビルも見えるぞ。
できるならやっぱり、仲間たちと日本でラグビーを続けたい。高校で花園に行って、大学で国立競技場に立って、家族や友人に祝福されるようなラグビー街道を突き進みたい。
そして何よりも、南さんとの約束。
彼女はラグビー部のマネージャーになることを夢見て中学受験に挑んでいる。いつか彼女の所属するラグビー部に俺が後から入るというのが、いつだったか交わした約束だ。
もしニュージーランドに行ったら、それが叶わなくなるかもしれない。
ちなみに留学に関して、うちの家族は前向きだ。母さんは「いいじゃない、行ってきなさい!」と喜んでいたし、父さんも「お前の人生にとってプラスになるのなら、行かないという選択は無い」と諭してくれた。
この話は俺とコーチ、両親以外は誰も知らない。当然西川君も浜崎も、上級生でさえも。
「みんなノッてるかー?」
いつの間にやらハルキがマイクを持って前に立っていた。お調子者の登場にクラスメイトは沸き立つ。
「はい、校長先生のモノマネしまーす。エェー、本日は晴天なりエェー本校の6年2組のエェー小森君がエェー相撲の世界大会でエェー優勝しましたエェー」
爆笑するクラスのみんな。ネタにされてるがいつものことなので、とりあえず「ははっ」と笑っておく。
「ちょっと小森、あんたいじられてるよ?」
そう言って俺の背中をつつくのは斜め後ろに座っていた同級生の女子、伊藤さんだった。キリっとした目つきの美人顔で、後ろでスポーティーに束ねたポニーテールがチャームポイントだ。
「お、伊藤ってば小森を庇っちゃって。なんだよ小森のこと気になるのか?」
ハルキによるマイクパフォーマンス。まったくすぐこういう茶々入れるんだから。
「は、あんた何言ってんの?」
だが伊藤さんは露骨に嫌そうな顔をハルキに向けた。そして彼女が顔を歪めた途端、クラスの女子も8割が同じ顔になった。
「ハルキ、あんたデリカシーなさすぎ」
「そうよ、くだらないこと言ってんじゃないわよ!」
まるで堰を切ったように、女性陣は一斉にハルキに非難を浴びせ始める。それもそのはず、伊藤さんはうちのクラスで最も発言力のある女子、いわゆる女帝である。そして同時にハルキとは犬猿の仲だ。
「何だよ何だよ、お前らみたいなのに好かれても小森も迷惑だよ。なあ小森?」
「俺に振るなバカ」
俺は視線すら合わせず突っ込んだ。
並の男子ならば彼女が恐ろしいので反論なんて絶対に口にできないのだが、ハルキだけは伊藤さんを恐れない――と言うか何も考えていない。
なおも女性陣からの大ブーイングに晒されるハルキに、男子たちは溜息を吐いて呆れる。
騒然とするバスの中、俺はちらりと最後尾の南さんに視線を向けた。
彼女はハルキと女子たちの舌戦を苦笑いを浮かべて見守っていた。だがすぐに俺の視線に気付いたのか、ちらりとこちらに顔を向けてきたので、俺は慌てて窓の外に視線を戻した。




