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サンマからマグロへ

 わたしのなまえ。わたしは……❝ハンバーグ❞。ちょっぴり焦げてきな臭い、まっくろの。いやいや、ハンバーグはお父さんが作った晩ご飯で。


 まあ実際。私、つまり、三上創も、突きつめてしまえば、お父さんとお母さんが(つく)ったようなものか。そうか、そうだ。


 私は、三上創(みかみそう)なんだっけ。


 光芒の射す彼方を目指し創の、飲み込んだ自我の欠片はなんとも頼りない光で意識の(そら)を彷徨していた。塵となり散らばった自分自身はまだ、無数と浮かんでいる。

 丁寧に集め直している暇は実に惜しく、いつ燃え尽きるかも定かではない創にとって、片っ端から再吸収する――溺れて、藻掻きながら。それ以外に能率的な手段がなかった。


 自我が意識に丁度収まるサイズにまで膨れ上がると、泳ぐのを止め残りを引き寄せた。光を取り込むブラックホールになったようで、自分が何者か認識できるのは心地がいい。


 もしも、闇の中で、最初に自分の名前に巡り合っていなければ、たまたま残っていた夕ご飯の記憶を抱いた自分は、どこぞの誰かの作った不出来のハンバーグとして目覚めたに違いない。単なる粗挽(あらび)き肉の塊に自発呼吸なんて大層な真似できないから、目を覚ましても数分で死んでいた。


 人に戻れたこと。自意識があること。死に心から恐怖し、生を美徳に()たこと。


 果たしてどの記憶が、三上創に起きた――奇跡なのか。創に戻れた本人とてそれはわからない。もしかしたらと表層に意識を浮上させる直前に思った。


 最後に残った、残した二つの記憶(しんじつ)。確か、二つとも、記憶を失う寸前の出来事だったような。とはいえ標を二つも犠牲にしないと、深い闇の底でどこに向かって泳ぎ上がればいいかも創はわからなかった。


 なんとなく、本当になんとなく。あの二つは別に、自分には必要ない気もしたし。


 手足を果敢に掻くこと、目の前がやっと眩しく明かりに包まれたと顔が緩んできたら。


 創は吐いた。地面に吐いた胃液の中に倒れ、したくもないのに身体が勝手に。手足の関が逆転、正転とのたくっては反り返る。逆流した鼻水に声帯はまさに溺水したかのようで。


 涙が溢れた。眼球まで溺れなければ気が済まないのか。

 頭蓋骨が、脳が急激なストレスで壊疽(えそ)でも起こしたように重くなる。


 こんな苦痛を与えてくるなら、現実世界に再び浮き上がろうとせず、深海のような深層意識でいつまでも漂っていればよかった。


 痛がる力が、感覚がある。だったら後悔する余力があったって。


 待った。待っていたら、ようやく吐き気が収まった。もう少しで喉を爪で破っていた。


「そこの女子生徒、少しうるさいですよ」


 熱い涙に溶けた創の視界に、景色はせり上がってくる。


「今は全校集会中です。体調が悪いなら保健室に行きなさい」


 壇上。電球の光熱を浴びた男。埃臭そうなジャージのチャックを襟首まで締め、スピーカーと有線で繋がったマイクに鼻息を放送した、見るも無残な貧相な有り様のそれが、創の身近にいる大人で一番偉いと顔が物語っている。


「すいません。だけど……校長先生が、なんで、私の……家に」


 マイクを立てた演壇に項垂れた校長は、挨拶からやり直した後だった。生徒として、教師の不快を刺激するのは本能に逆らう罪深さと同義である。まして再統合すら未完全な自己認識では、奮い立とうとして損傷する手足に抗う論理を持とうか。


 そんな創に、不愉快はおろか、一時こそ振った興味の一瞥すら、なかったことにするなんて。


 今もって(たん)の雑音混じりの息遣いで這う創。人としてあるまじき醜態でのたうち回った所で、毛ほどの気にも留まらなかった。校長の壇上時間はさらに長くなる予感が、脈絡はある節が極端に少ない話から弦を弾くように伝わる。


 淡々と、単調な話題の繰り返し。懸命に徹し黙々と集中しないと創のように膝から(くず)れるのか、見てくれの通り、集中して話を聞き洩らさない信念に無言で燃えているのかもしれない。

 温度差の真贋を見定めるにしたって。三上創は、見離された。


 それこそが彼らの心裏である。教師、そして全校生徒――創の先輩。創の後輩。創の同級生、クラスメイト。体育館に集った全校生徒の。


 上履きの整列した床はワックスの手入れが行き届き、陰でも光沢に満ちていた。人体が生成した液体は純粋な自然物のように綺麗ではないから、精神が弱っている罪悪感も深い。


 そもそも、自分がどこにいるか、気づくのがあまりにも遅すぎたのがいけないのだ。創の家の天井は仰げる高さはないし、学校の全校生徒は収容できない。人生の教訓話を、若人に言って聞かせる壇上があっては家庭的な雰囲気が台無しだ。穏やかに暮らすこともままならない。


 前提を整理しよう。前後関係を明確にしようではないか。幸い、冷静に還れる記憶は脳味噌にぎっしりと詰まっていた。


 まず第一。あれは夜のことだった。部屋で仮眠を()っていると、仕事から帰ってきた父親とリビングで夕食を食べた。


 そういえば、と創の顔面の筋肉は、頭痛を覚えた側頭部へと引き絞られた。食卓に両親の姿は確かにあった憶えがあるというのに、泡沫と浮かぶ光景の中で創は、父にばかり話し掛けられていた。

 口数の少ない性格の父の眼差しが、テーブルに座る創の顔を舐めるように覗き。堰を切ったように、なにかに駆り立てられたように唾を飛ばしてくる父の正面顔は創に薄気味が悪かった。


 まるで魚拓のように色濃い父の残像に、だが気さくを白骨に塗り込んだかのように病的と化したそんな父が、ふるまってきた料理の味を創はどうやっても思い出せなかった。


 目を覚ましたすぐ前まで、憶えていたような気もしないでもない。融けかかった飴玉が胸に引っかかったような感覚。苦痛とまではいかないにしても、(かゆ)みとかそちらに近かった。


 夕食を家で食べたという記憶そのものが、創の夢の中で誇張された幻という可能性も捨て切れず、いよいよもどかしくなってくる。パートナーに料理を任せっきりの中年男性が台所で料理とか、その時点で空想めいた有り様ではないか。


 第二に。創が倒れていたのは、どこのなにを如何に、何度確認しようと、学校の体育館である。重要部分に穴が開き今も綻び続ける記憶より、掌でも掌握できない硬さ。この方によっぽど確信が持てた。


 グルグル巡る目先に鉄格子の嵌まった窓。放射する陽光に蒸発した熱波で箱は膨張する。


 記憶か認識か。どちらを真実か決めあぐねた創は、外に知見を広げるべく、体育館の閉じられた扉を、破壊する気でこじ開けた。創なりに強い意志で挑んだつもりが、自分を監禁する圧迫感は一息の抵抗によって、いとも容易く破壊された。


 創の手を離れた体育館の扉は、誰の手を借りる必要もなく再び閉ざされていく。どうなるか行く末から目を離さなかった創を、体育館に連れ戻そうとする者は現れず。


 無駄な時間を過ごしたことに気がついた創は、集団から完全に離脱した。


「ちよちゃんも、結局は追いかけてこなかったな……当たり前だよね」


 段差を下る。そこから渡り廊下を一直線に駆け越えていき反対側の段差を踏み上がれば、息を軽く整えている頃にはすでに、校舎一階の廊下にいるというのが建物の構造だった。


 しかし体育館との連絡の目的に作られた外廊下だけのことはある。蛇腹状の雨避けの屋根はあっても壁は向き合っていないという簡素な造りの開放的な一本道は、最早疑いの余地なく建物の外だった。


 葉擦れ。木々を揺らす蝉の鳴く音。創の鼓膜をざわめかせたそのどちらもが、なんだか若々しいようだった。


 幾ら残暑と秋の到来を感じさせる響きを持ち出しても、季節の移り目は当分先のようだ。


 火原井千代紙(ひばらいちよがみ)。拠り所を夏の始めに失ってから、創の身体は、片側に傾いだようにずっと調子が悪いのだ。


 彼女と引き裂かれた夏が、終わろうとしていた。犯し続ける過ちを世界は打ち切ることしか考えていない。


 創は自分の脚を見下ろした。前に進むことはできるこの足も、過去へは引き返せない。踵を返し元来た道を戻ったところで、結局、前に進んでいることには変わらないのだ。

 目は前に二つしかついてない。瞼のない耳さえ方向という概念を形に与えられている。世界の一部と枠組みされた創にさえ、法則からは逃れられない。


 歩きたくなかった。千代紙のいない前に、なにがあるか知りたくなんてなかった。


 たとえ歩みを止めても、腹は鳴るし満腹に肥えれば用を足す。心臓が止まり、時間を完全に感じなくなろうと、遺された肉は次第に腐っていき骨は土に還る。


 生きるも死ぬも、完全に不変などあり得ない。


 項垂れた。涙を流した。千代紙のいない創の世界が、一秒、一秒と更新されていく。


「そんな廊下の真ん中で」


 誰にも逢えないと思った校舎で創にかかる声が生まれた。


「なにをそこまで泣くことがあるの?」


 感じる気配に前のめりになる。とすれば声は少なくとも創を追いかけてきた者のではない。前後の階段で階数を越えながら先回りすれば騒がしくなる。


「ちょっと。人がこうやって心配してやってんだから、無視ってのはないでしょーよ」


 泣いているとわかっているのに無遠慮で、なんとも恩着せがましい声は調子づくように笑った。


「――そう笑うあなたは、私を無視しないの? 体育館の生徒みたいに」


 高笑いの位置で教師ではないと悟らせた女子生が、一歩足を下がらせたのが創には判る。


 感心を持って実行された行動に、当事者はなによりも過敏な反応を返してしまう。


「私とあんな連中とを一緒にするなんてね。皆は私と同じように、創を扱ってくれたの?」


 創には返す答えがなかった。


 廊下で彼女とこうして出逢うまで、他人にとって創は取るに足らない、無関心に値する存在だったのは言うまでもない。意識を割かれ倒れ伏し、目を覚ませば吐しゃ物で床一面を汚し、上履きまで濡らされても謝罪もせず体育館を飛び出したのに、誰一人の注目も得られなかった。


「皆に構ってくれなかったからって、それがなんなの。創には、この私ってかけがえのない存在がついているじゃん。私一人いるだけじゃあ不満なの?」


「そういう、君のためならなんでもって言動が嫌いだって、どうして、皆みたいに判ってくれないの!? 三上創、三上創ってもてはやすけど。こんな……どこにいても可笑しくない、ただの子どもに」


 徹底した無関心。誰の世界に参加することも、気に留められることもない。自他の境に空かれた隔たりを埋めるような優れた能力もなければ、輝くような要素が欠落している。


 そんな自分が実在する世界、それが心地よいと訴えた創に。


「そいつはまた無理難題だ……創を一人のニンゲンとして扱う、か」

「できないの? あなたが……ちよちゃんが、私の頭が創り出した妄想だから……」


 すると創の背後で賑やかな重圧が押し寄せてきた。廊下で立ち往生した時間が体感よりずっと経過していたらしく、全校集会が終わり校舎は教室に戻ろうとする生徒や教師でいっぱいだった。


 通りがかりの生徒が嘆息するように言った。


「廊下の邪魔になるな、三上」

「す、すみま――」


 ――火原井(ひばらい)


「二人とも、気をつけろ。夏休みの注意事項をプリントで配るから、早く教室に戻りなさい」


 喧騒からはけるように入室した男性教師は、教室の扉を閉めなかった。抜けていた、とは、敢えてと表現するのが正解だろう。一瞬ばかし、引き戸に触れてすぐチョークの粉が目立つ懐に潜った手首から先の挙動の方が、うっかりと創の目にはついた。


「それで。三上創さんよ」


 よそ見とずいぶん余裕な創に。


「どこの誰が、妄想だって?」


 ない混ぜに流動した廊下の騒がしさも、今やそれぞれの部屋に固まり校舎全体が清順としていた。これだと大手をふって歩くことだってできる。


 それを、まさに身体を使って見せつけてきた千代紙の存在感に、創は額の泥から泥を洗い落とすように。寝ぼけた頬を叩いてすっきりしたいかのように。


 涙を誤魔化すように、歪みそうになる顔を押さえた。

 創にこんな行動を、創自身の意志でさせる存在は。


 とはいえ、そのような小細工は千代紙には通用しない。


「だから、なにを泣いてんのさ」


 頭を伏せたままの創に、千代紙の苦笑が、足許から聞こえてきた。


「夏休みが終わって、ちよちゃんが……私の前から、いなくなっちゃったと思って」

「なにを馬鹿な。この私に、創以外に大切なものなんか、世界のどこにもないってのに」


 肩を竦め、頭をユラユラと振って振って、振って飽き飽きと千代紙は呆れ果てていた。


 どうかしていた。創も反省する。悔い改めて体調が改善したということは、不調は精神的な不安を表していたらしい。


 千代紙がいなくなる未来など、この先こないというのに。


「ほら早く、教室に入って先生の話を聴こう! だって」


 自分より背の高いはずの創を、千代紙の腕力はただ引くだけで動かした。


「明日から、夏休みなんだしさ!」


 七月。今学期最後の登校日。


 黒板に記されていた確かな日付に、まだ幽かに妄想の煙る頭で創は言った。


「あれ。今月って――九月じゃないの?」


 蝉しぐれ。どことなく初々しい調べ。


「創が迷い込んだ火原井千代紙のいない夢の世界では、夏休みは終わっていたようね。でもこうして現に私はいるもんだから、言いたいことを言ってやろう。おかえり、現実へ」


 千代紙に、両手を取られ向かい合わされた創。なにものの干渉も、受けはせず。


 本当に、どうかしていた。


タイトルのヒント

・サンマの食べ頃は?

・マグロって英語でなんだっけ?


本文をよく読んで考えてネ!

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