場外
今学期最後のHRが終わるや否や、創の足は教室の外へ向いた。
回転するような速度を廊下に奏でれば、追随と過去の刹那刹那が背後に迫ってくる。しかし体育館に監禁した生徒に、校長も生徒指導係もあんなだけ言い聞かせた話を、教室に帰ってまでまだ話すか。
高い大人目線から見た高校生はよほど危機管理能力がないように映っている。休みを前に浮かれ切った若者に喝を。腹の底でそんな想いを抱えていないとああも粘り強くしつこくはなれない。
弱いなんて、本心では思っていないくせして。生まれたばかりの赤子を懐けるのとはわけが違う。
強くて賢くて、自分の意志で行動が選択できるくらい自意識が高い。
身体も大きく高校入試を突破するほど脳を発達させた子ども達は、決して弱くはない。
止めろと言われた夜遊びが危険な行為くらいは当然知っている。守れと注意された交通ルールは法律の成り立ちになっている。もちろんこれも高校生なら知識として頭に入っていた。
知っているから、そうしなかった行動に、破るという行為が成立する。
思春期に盛り真っ最中で忙しない脳味噌で見聞きすると、前振りみたいだと理解し、裏を返せば、大人の口車に乗ってみるのも長い目で見れば悪くないと思えてくるのだ。
間違いを犯してお叱りを受けて教訓に活かせる分くらい、時間は与えられるのだし。
大人の言葉には裏がある――そう信じている間は、心が、まだ子ども心でいる証だ。
❝やるな、やるなよ、絶対にやるなよ❞
何度ひっくり返しても表の意味しかなかった。刺さった釘をどの角度から観察しようが、結局一つの形しか見えてこないように。
――なーるーほーどー。
「豆腐に釘を打つくらい、先生方の注意は創には虚しく聞こえたのだね」
思い出し笑いならぬ思い出し渋い顔になった表情を追走しながら読んできた割に、絶妙なセンスで的を外してこられた。
遠からずもなく正解だが、正確さを外した表現。深く掘り下げようとせず相槌を打つなんて、千代紙らしくもなかった、だいたい。
釘でなく鎹と正確に掘り下げたなら、形から表裏の判断がつきそうではないか。
教室を出払い、以降は、雑多な生徒や通りすがりの教師の気分を害さなかった創達は五分が経つより少し余裕を持って更衣室に着けた。
「ちよちゃんは、ちよちゃんなんだから……すぐまたそんなこと言う」
勝手に決めつけられたのが予想以上に腹にきた創はロッカーの扉の開閉音を、小気味よさそうに嗤う千代紙に聞こえるようにした。千代紙の担力に響くには弱いため言葉を足す。
ルールを知る生徒に注意を訊く耳があるように、教師にだって伝える口がある。
九年間の義務教育は人生の半分を占める。
成人をおよそ三年後に控えた❝若男女❞にしてみれば、高校入試はまさに一世一代の大勝負だ。受験シーズンは『命を懸けた――』とか讃えるけれど、老いるまで人生を生きた者には大袈裟に聞こえる。
学生時代の勉強は人生で無駄にはならない。学ぶ方法を身に着けるには勉強するのがなにより不可欠で、だからこそ英語とか物理とか、この先の人生で役に立たない事柄を学ぶ。
「勉強のために勉強するんじゃない。これってさ、大人の勝手な理屈だよね。じゃあ若者の立場で言わせていただきますと……入試はゴールじゃなくてスタートだって言うのは。矛盾してると思いませんかい?」
道着の紐を締め、防具を小脇に抱えた腕に竹刀を持つ創を追い越した千代紙。
稽古でしばしは絡むことはできないにしたって、自分で立ち上げた話の腰を自分で折るのは、いくらなんでも乱暴であると創はそれしか思えなかった。
道場に上がる。礼は欠かさない。きっかり十五度の角度で、かちんと一礼。
「この瞬間をフィギュア化したお金で家を建てる。そこに創と二人で暮らすのが、私の夢です……」
「はいはい。いつも同じ台詞、寸分も違わないお褒めのお言葉、痛み入ります」
「意識して練習してもないってのに」
惚れ惚れする賛辞と裏腹に、促しても倣ってはくれない千代紙に肩を竦められる筋合いはないが、文句そのものは筋が通っているし的も射ていた。
進学した学校でも中学と同じ部活に創が再入部したこと自体、学生生活を送るうえでの条件反射、生体反応のようなもの。武道への敬意とか説かれても創の心には全く響かない。響くとか、感心するとか以前の問題――どれが問題なるのか、それすらピンとこない。
夏休み中の生活を注意された生徒は、ルールを破るのは危険だと理屈を元に理解する。
弛んだ生活で注意を怠る、皆無ではない欠落だから念を押せば順守くらいはしてくれるだろう。
個人差はあれど教師陣は生徒を信用の眼差して見据えていた。下に視た価値観は教育免許、現場で実績を積んできた根幹には、国に指定された資格を取得したという事実があった。
資格は実にいい。公的に認められた能力を可視化、進学にも就職活動にも活用することができ。成果に費やした努力も評価の対象として社会から扱われる。
勉強のための勉強ではない。だが『学びを覚える』という大人の主張、世間で聞けば響きのいい格言とは明らかに矛盾している。
努力とか能力とか、結局のところ――目で見えないものを人は信用していない。
千の努力を積み、そこから百の実績を打ち立てようが、他者にとって価値がなければ道に転がっている石や落ち葉と大差ない。
一つ。この一つがなによりも重要になる。満点の答案用紙。難関大学の合格通知表。国家資格の免状。世界を震撼させるような画期的な技術によって生み出された製品。などなど。
物質化した証明以外、価値とは認められない。さらに残酷な真実を明記すれば、価値と周囲に認めらせる機会は、成人にならないと巡ってこない。
命を懸け高校入試に合格し、死ぬ気で大学受験を突破しても、社会に出るとリセットされる。その後に所属した企業でどう貢献したか、どんな資格を取るかが評価の対象になるのだ。
それが解った――社会に追いやられ解らされた大人達は、まだなにも持たない子ども達を、心のどこかで見下している。
今はまだ、子どもだから。
自分と同じ一人の人間として見る優しさと、幼稚で思考の足らないと見なす侮蔑。創には二つの矛盾に整合性を取る言葉だった。
「ふむふむ。努力だけでは報われない。逆に、結果を生めばどんな努力も一瞬で報われてしまうとな」
この世界に対する創の価値観に触れた千代紙は綺麗に纏めた。正直、自分でも至れなかった結論に誰より創自身が驚きを隠せない。
他者の社会という世界を、三上創がそれほど分析しているとは。関心というものを実はあながち、馬鹿にはしていないのかもしれない。
どうやら、関心されるばかりでない。ただ崇められる存在ほど創は思ったより人の子。
それが千代紙を通してわかったのが行動の動機であると納得した。
「空木さん、今日は、空木さんはいないの?」
終業式で寝落ちした時に体験した『一回目の夏』の時点では存在すら知らなかった転入生の名を、創は先に稽古に来て、今は隅で休憩している部員に尋ねた。
「今日は姿を見ていません」
一言で済まし、部員は創に澄まし顔を振って練習風景を汗を拭いながら見つめた。ほかの部員の稽古を観察するような熱心さに水を差すのは失礼にあたる。
「あ、ちょっと」
これぞまさしく矛盾した行動。挙げた手で舌を引っ込めた創の中で過った。
創と行動を共にする千代紙の相手を避けたいと思うのは、部活に属するのであれば自然である。新三巫西高の剣道部は街の成り立ち故か中学から続役で入部したOBが主流派で方針をそのまま受け継いでいる。進学校でなかなか馴染めず逃げ場を探していた創が迷い、今も出られない理由がこれ。
中学と比べ部活動に徹底性が見られる。まあ、中学は学校全体の治安が悪かった。どれくらいかと言うと、元々の性格に火を燻らせていた千代紙が風紀の道を志すほどと言えば伝わるだろう。
そんな千代紙が学校に改革のメスを入れる足掛かりにすべく、当時の創達は目をつけられたわけだ。
改革は熾烈を極めた。よく死人が出なかったと創はそれ以上のことは言えないし、千代紙も当時の自分については少なくとも反省している。友情の始まりを穢したくないという想いがそうさせるのだとか。
改革だ改革だと引っ掻き回し八つ裂きにした性格も、今は多少とも鳴りを潜めてはいるが。
侵略者とそれを仲裁した――それぞれの名を取って“三千の乱”と双方の剣道部で呼ばれ、千代紙を天変地異の象徴、創を救いの神とする信仰の原典となった。
『鉄血ガール』の監視が進学後も続いており、剣道部による『涼風ガール』への信奉は入部後に完全無条件に発動する。外部からの進学者も、乱の凄惨さを聞かされ、日々監視に来る千代紙が去った後は清めの塩を撒き、創に救済を希った。
だがこれはむしろ、部員の方が創の存在を自覚しておきながら、わざと邪険にするとでも形容できそうな。
打ち込み合う竹刀から響いてくる闘志も創の憶えとは妙に真剣な力がある。
聖母をよそに、道場はかつて類を見ない熱気に溢れていた。
「みんなすごいやる気ね」
「全国が……近かったから」
おっと――思わず過去形を嘯いてしまった口を創は塞いだ。
持ち物は落とさない、失言も阻止できる。
腕が揃っているというのは幸せだと醒めた頭で理解しているのに、今だに現実の区別がつきづらい。
「こんな蒸し風呂、サウナ状態……私だって逃げ出したくなるわよ」
開け放った窓に吹く風を取り込むには、湿る脇を曝しても構わない。
「それは、ないと思うよ」
無防備に腕と腰を反らせた千代紙に苦言を呈す二重の意味を込め、創は後輩の不在と自分が部員の感心を集められていない、この二つには因果関係があると唱えた。
「慕われていた、っていうのも、疑わしいし」
「まーた夢の話ぃ? そこまでリアルな内容だったの」
頷こうとした創を、休憩が明けた部員は次の稽古相手に指名。面を装備し出るよう指差しで指示した。
創は面を締めた。外気に放出されていた熱が体内に返る。肉感的に圧されたかのような、生々しい感覚だ。
「夏休み前に、萎えるようなことばかり言って、ごめんなさい」
「私はいいけどさ。後輩ひとりに心を強くさせられて、創は嫌がってないの?」
別れ際の千代紙は、創がふり返らずにはいられない質問を。
唯一の理解者は自分。他のことなんて考えないでほしい。
一体、どんな顔で不貞腐れたのだろうか。
いいと明言したのが強がりで、顔も名もよく知らない後輩に嫉妬したと疎い千代紙はまるで気がつかない。
夢に登場した空木雀の性格は細部にまで作り込まれ、創の制御を外れる言動さえ振舞っていた。そこまで強く印象づけられた事実を創はどう扱うのが正解か迷った。
三上創は信仰の対象ではない。そう結論づけてひとまずいいだろう。
雀の目当ては剣道、部活動一択だった。熱心に通い、先輩方に稽古の指南を自ら申し込んでは毎日ボロボロ。
そう言われれば――今だって創が返す印象は薄い。
そんな新入部員の顔も禄に記憶せず、転入生だと確認を取ってからだろう。
恨みを晴らすには不法侵入も辞さない。内心では復讐を恐れて暑くなる日々に弱点を脳内で設定、あるいは本当に暑がりで服を脱ぐ癖があるとしても、全国大会を目前に躍起になる剣道部には、雀のような闘気に満ちた部員が求められる。
(ここに空木さんがいて、もし稽古の相手になっていたらちよちゃん、どんな顔になっていたかな)
竹刀を構える両手があろうと、創は戦意より好戦的な親友に対する邪念にしか燃えない。
素行の破綻した中学生活で自己の安全を保証したい。それだけだった。
今では学校中の注目から逃れる場として、そして千代紙と出逢う機会が最も多いという爛れた動機で神聖な場所に寄生している。無限に増殖し社の柱を腐らせる白蟻のように。
守ってくれる人ができて、それを手放したくないから辞められない。尤も夢の世界では竹刀を握る腕を失くし千代紙も去った。
闘志溢るると爽やかに濁そうが、汗を掻いたこれだけの人数が一層の運動に励み衝突しているのだ。匂うものは匂うし、それが男か女なのかも、嗅いだだけではとても区別なんてできない。人は人だ。
足蹴く通い風紀が乱れていないか偵察する千代紙がある日突然、なにもかもに嫌気が差し去ってゆかないとも限らない。
自分は他人にどう認識されているか、彼らの行動を合理的に導き出した、その結末について夏休みから始まる惨劇を予知したのだとすれば。
正夢にならないために今こそ身を入れて稽古に励むべきだと客観的に思うのが常識という場面でありながら、創は形だけ、形式だけに凝る。
少なくとも部活に真面目にやっただけでは、千代紙は夢中になってくれない。
適当に技を打って今日もやり過ごそうとした。いつも千代紙の前でしていることだ。どうせ気はつけない。
創の面に入る相手選手の一打。一方で創の竹刀は空を斬った。
「三上さんあなた、真面目に稽古する気ある? なんですか今の」
部員が転身した背後に向かって創は非難を受けた。
絶対に勝てると思っていた創は理解が追いつかない。
「いや、いやいやいやいや……!?」
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。竹刀を握る創は剣道部で無敵の勝率を誇る。たとえ真剣勝負でも女神に竹刀は振るえなかった。
スポーツマンであり、武人でもある彼らが、野に咲く花を踏み潰すなんて行為は、許さないし許されない。
剣道のルールに『時間空費』というものがある。試合で選手が故意に空白の時間を設ければ失格になるのだ。
形だけでも創が竹刀を振るえば、必ず相手に命中し有効打突を二本先取する。
他校の選手や審判に『涼風ガール』の信仰心は根づいていないため試合には欠席を強いられた創は、打ち込まれる衝撃さえ人生で初めての経験だった。
「創! ちょっとあなた、今のは一体なに!?」
練習試合に乱入した千代紙は混乱する創を支え起こした。
「全国大会を控えた大事な時期に、不真面目な子がいると部員全体の士気が下がるんです。これでは試合にも参加させられない。夏休み中は練習に来ないでくれるよう、火原井さんからも説得しておいて」
「ああわかったよ! 創は私が連れて帰って面倒を見ますから、異存はないわね!」
「あなた達の好きにしなさい」
道着をその場で脱ぎ捨てさせた創を千代紙は外に連れ出した。創がふり返れば、二人が道場を縦断しようと、剣道部は練習を続けている。
そこに信仰心など皆無。
引き止める声も現実的になさそうだから、そっと、捻る首を創は元に戻した。




