Current,bullet,Be silent
一夜明けて、病院に見舞いにやってきた式折々の率直な感想は。
橘千代紙は、ピンピンしていた。
「はろー♪ お久しぶりです、橘先輩?」
「今世紀始まって以来不快な顔を見たわ」
「連れない事言わないでくださいよ。かわいい後輩がこうして、作戦虚しく敗北して傷心中なかませ犬な先輩をわざわざ拝みにやってきたんですから。駄目ですよ、人を見た目で判断しちゃ」
「今から君の入院手続きも書いてきてあげるから、そこで待ってなさい、式折々くぅん?」
ベッドから乗り出した千代紙は関節を鳴らした掌を見せ付けながら式に微笑した。
「おっかないですね。あそれと、今世紀は始まってまだ二十年しか経ってませんから、そんなに昔じゃありません」
セーラー服姿の後輩の軽口は相も変わらずだった。
「元気そうで式は安心しました」
「あらまぁいが~い! あなたにそんな感情が具わっていたなんて。それともしばらく会っていない反省中の間に覚えたのかしら」
「責めますねぇ、そういう先輩こそ、暑かった頃と比べ……眉間の皺とほうれい線が減ってずいぶんと丸くなったではありませんか」
「だぁれが婆だゴルァ!?」
丸椅子に座っていた式の胸倉を摑もうと身を乗り出すと、母親の見舞いに来ていた少女の怯えた声に、千代紙はベッドに戻るのだった。
「小さい子を泣かせちゃ駄目ですよ」
「あんたは先輩を泣かせたよ……」
しくしくと尻尾を丸める千代紙の様子に、式折々は目聡く勘付いていた。
五上涙子に負わされた傷は、橘千代紙の致命傷には一歩――一咬み届かなかった。それで、涙子が千代紙を仕留め損なったとか、千代紙がラッキーだったと双方の技量または運を総括するつもりは、式にはない。
無事で済んだ、からと言って、それはあくまで命に別条はないほどにという千代紙に対する非難の意味合いに近しかった。‶校長〟の指南を受けたとて、千代紙はまだまだ夜の世界に疎く、また首に受けた〈魅人〉の鋭牙は、呪いへの耐性がある人狼であっても、生きる望みを自棄するほど強力だった。
不覚を取って、悔しくて、泣いてしまいそうにしていた場面に、丁度、虚勢を張れる相手が訪れてきた。
だが、こうして肉体が形を保てている今の状態も千代紙には奇跡だった。等しいとかそんな余地を挟まないほど。
「あっそうだ。元気になってもらいたくて、来る途中に買ってきたんです。さあ、気の利く後輩を褒め称えてください。頭なでなでして、共に抱き合った後、濃厚に唇を交わしつつ互いの純情を奉げ合いましょう」
フルーツバスケットを膝に載せた式が訳の判らない事を、脅迫してきた。
だが、千代紙にはもっと別に問い質さなければならない案件があった。
「式くん……わざとでしょう」
「はてさて、わざととは?」
可愛げに首を傾げてみせても無駄だった。
噛み傷や擦り傷、腕部の脱臼その他諸々への外的治療は式家が所有する西区の病院で一応は受けたが、不足分の血液など、根本的な完治には人狼の回復機能が旨だった。吸血鬼と対を成すだけあって人狼は一般的な身体構造として治癒が速く、術的治療を凌ぐ回復速度の発動は、戦い事に身を置く人狼には必須であり、戦闘における部分的な変態と併せて覚えよと、千代紙は師から奨められた。
ただ、個人差のある回復時間、狼としての側面が顕著に出るのは共通だった。
「それ、葡萄だよね」
「マスカットです。旬には少し遅かったので安く入手できました。よく判りましたね」
絶賛の拍手を式は送った。
布をかけた籠から漂う芳醇な香り。この時の千代紙は鼻もよく利いていた。
因みにだが、マスカットというのは葡萄のある品種を指し、日本でマスカットと言えば「マスカット・オブ・アレキサンドリア」の事である。‶ブドウの女王〟と大層な通り名で市場に出回るこの高級果実は専ら生食用として食され、強い甘みと芳醇な香りが売りである。国内で有名な産地の一つが岡山県であり、晩夏から立冬頃までが旬とされている。
「先輩、ひょっとして葡萄はお嫌いでした? そうとは知らず、ごめんなさい」
左右の頬をマスカットでぱんぱんにしながら謝る式はまるでリスのようだった。可愛げなど――千代紙にはむしろ憎たらしい事この上なかったが。
甘い香りに誘われた入院患者、面会に来た家族にも式は房から千切った瑞々しい果実を渡して、人だかりのできた病室ではちょっとしたマスカットパーティーが催された。
「おねえさんは、食べないの?」
千代紙の剣幕にたじろいていたあの母親想いの女の子が、新鮮な咀嚼音を立てながら両手に持ったマスカットを一つ差し出してきた。美味しい葡萄は皮ごといけるのである。
「こら、おねえさん具合が悪いんだから向こうで食べましょうね」
「ごめんなさい……」
背中を丸めて母親のベッドに帰ってゆく少女に、いいのよ、と千代紙は優しい声をかけつつも、甘い物恋しさに腹が鳴った。
「なんで式を睨むんですか」
射すような視線に式が距離を空けた。
無論、幼い少女が千代紙に気を遣わせた元凶だからである。
食べられるものなら食べたかったが、千代紙は今に限って、我慢しなければならない動機があった。
マスカットは犬に有害な食べ物として挙げられる。葡萄科の植物を犬が摂取した場合、下痢に嘔吐、腎機能の低下など、種類によれば一粒で中毒症状が現れるとされており、ネットでは犬を飼っている飼い主向けに注意を喚起するページに溢れている。犬を飼った事のない千代紙はつい最近知った。
普段なら、好物を食べても千代紙に症状が出る事はない。だが昨夜の戦闘で、肉体の外傷もだが、内蔵器官にも深手を負った。
夏の終わり、ある事件が元で千代紙が転校した学校では、地図にない絶海の孤島で、人狼が人の社会で生きられる方法を授業として訓練する。
変化は最も重要な科目だった。島民の人口が人狼で過半数を占める島の食べ物は管理が行き届いているが、島の外で流通する食物は、人が食べる事を前提に作られている。変化は、外見を人に近付けるだけが利点ではない。
故に、生徒は変化の術を必死に習得しようと勉学に励む。覚えないと、ドッグフードを食べて生活する羽目になる。犬の食べ物にケチを付ける気は千代紙にはないが、自分達は人なのだから、人の食べ物を食べて生きたかった。
「あの……せめて一粒」
「いけませんよ、橘さんは今、自己治癒で身体機能では狼に寄っているんですから、食べると身体壊しますよ」
院内でも優しさで通っている看護師に直談判したが無駄に終わった。
式家の息がかかった病院職員は、千代紙の事情も当然把握して、入院食にも配慮してくれる。医学の知識もさることながら、あちら側の世界にも精通している。
ステンレスの皿に生の鹿肉がブロック型で出てきた時は、転校一日目を思い出して泣いたけれど。
「はい、お昼も残さず食べてくださいね」
「昼も鹿かよ!?」
目分量でも百を超えるグラム数あろうかという弾力のある赤身にテーブルはみしみし音を上げ、千代紙は悲鳴を上げた。
動物園の猛獣って、丁度こんな感じなのだろう、とウインクを送る女性看護師に千代紙は肩を落とした。
「私が仕留めたんですから、夜も楽しみにしててね」
同じ部屋の母親が猟銃を撃つジェスチャーをしながら得意げに言った。
「ママぱねぇっす! てか、それが入院の理由!?」
急所を狙ったと思ったら、つい油断して手負いの雄鹿に角で脇腹を刺されたらしい。
なんだか、母という単語がトラウマになりつつある千代紙だった。
「それで、目的はなに? 何のつもりで私を助けたの?」
また軽々と言い逃れるのは目に見えている。だが、いつまでもこんな場所で憔悴している余裕もまたない。
あの土壇場で式折々が助けなければ、千代紙は確実に死んでいた。
しかし、そう都合よく現れたりしないのが、式という――この街の‶相談役〟だった。
美女も嫉妬しそうな艶やかな髪をボブに切り揃えたこの、自称魔法使いの末裔を名乗る少年のセーラー服が翻るのは、決まって、向こうから接触してきた時、だけだった。
「怪我の治療を無償で、おまけに豪華な食事と温かい寝床まで用意したのに。先輩にとって、式はそんなに疑り深いですかぁ?」
「当たり前じゃない。あなたとサタン、どちらかを信じろと強要されれば――どっちも問答無用でぶっ飛ばすわ。この私を脅そうとした身の程知らずも一緒にね」
「お堅い風紀委員から脳筋の熱血漢に転職ですか。だったら悪魔の方を信用しましょうよ。選ばれなかった式が言うのも変ですが」
「私が信用する人は、この世でたった一人です。あと、私のどこが‶漢〟だって……?」
「その人恋しさに敗けた先輩が言いますか」
その点に関して、千代紙も反省した。反省の二文字でえずくくらい、反省して反省した。
痛い箇所を突かれ差した指がしおれる千代紙に、式はこう言った。
「式の提案は、橘先輩にとっても益になると存じますよ。いやね、先輩には、このままここでゆっくりしてもらって、帰ってくれると嬉しいんですが」
口端を上げる式に、軽く千代紙は嘆息した。
「どうせ、そんなことだろうと思ったわ」
「あらら、見抜いていましたか。さすが先輩、お鼻が利く」
「橘千代紙は匂いフェチじゃありません」
今後の沽券にも関わってくる誤解を訂正し、千代紙は足を組み換える式を半眼に見つめ思った。
ただ、腑に落ちないのはその動機である。
母親の保護を灯真から求められたのは見当が付く。この街でそれが可能なのは、この自称・魔法使いだけだ。
懸念すべきは、なぜ式が同意したか。夏の吸血童女や立秋の神殺し。彼がこれまで自発的に関与してきたこの街のあやしい譚は、一人の男を中心に起こされた――。
橘一誠を主軸に暗躍した以外の幕間において、調停者の行動は一貫していた。新三巫市――この街という巨大な‶箱庭〟の秩序のためならば、死者、人の願いも維持機構の歯車に組み込んだ。
「そういや、例の彼、すっかり可愛くなりましたねぇ。出逢った頃は肉ダルマだったのに。あれが本来の彼なのでしょうか。彼が着ていたあの服、先輩のJS時代のお古でしょう。タチバナさんから訊きました」
幼い頃の服装を思い返すのは中々にむずかしい。千代紙も式に密告されるまで気付かなかった。
「まああの頃は非常時でしたから、許してやってください」
「許す。あの『吸血鬼殺し』に一発喰らわせてから」
「お父様にじゃないんですか」
あんなものを渡されて、素直に着る方が悪かった。
「彼には。彼もあの女の命を狙っているわよ」
式によると、方々を捜したが発見できなかったらしい。この街の地理を知り尽くしている人間にも気配を悟らせない。交渉には応じないという彼の意思表示なのは明らかで、依頼人にどう報告すればいいかと、式は唸っていた。
「それで、御しやすい私って事か。ずいぶんとまあ、安く見られたわね」
「話が通じると式は先輩を高く評価したつもりですよ。後の事は式に任せ、先輩はここで待っていてください。果報は寝て待てとも言いますし」
「で、式くん。事態を丸く収めるために、あなたは、何人見殺しにつもり?」
薄い笑みを利かせ窺う千代紙に、指をくるくる回しながら式は計算した。
「まだきちんと見積もってはいませんけど、街の半分くらいでしょうか」
「そう、退院の手続きを済ませてくるね。入院費は、終わったら全額払うから」
橘千代紙と『吸血鬼殺し』を歯車から除外して得られる利益は一つではない。式は人狼の娘に真実を包み隠さず説いた。成果に手を伸ばす――そのための‶足場〟も。
改めて、千代紙は父の偉大さを識った。
人喰らいのバケモノか、同族か。
「あの人は前者を選択し、先輩よりも――家族よりも。あなたなら同じ選択をすると期待していたのですが」
「買い被らないでよ。だって」
こんな事を堂々と言えてしまう自分が、千代紙は情けなかった。
「橘千代紙は、橘一誠と血は繋がっていないもの」
「おやや、そういやそうでした。あなたはあの人と、親子の絆で繋がっていたんでした」
皮肉と思えば、式の減らず口も心地よい音楽だった。
「だから、私は彼女を止める。ここで育った人間として」
和やかな空気が一変、青空に重く厚い雨雲が到来する。
陽が隠れれば、五上涙子も本格的に活動を再会する。最早、一刻の猶予もなかった。
だが彼女の息子と雇用契約を結んだ以上、ベッドから出た千代紙を病室からは断固として出す訳にはいかず、やむを得ず、実力行使に出た。
「敬愛する橘先輩にこの手は使いたくなかったのですが……先輩が悪いんですよ」
呆れたように掃除の行き届いたリノリウムの床に吐き捨てた式が二回柏手を打った。
最後に、吐き捨てたような式は肩を抱き。言い訳に己の罪を他人に塗る子どものようだった。
それを合図に、入院患者、見舞いの家族、巡回中の看護師に自販機に飲み物を補充しに来た業者も。
懐から抜いた拳銃を千代紙に構えた。
「判ってると思うけど、そんな豆鉄砲で私は止められないよ。馬鹿な真似は止めて、マスカットを食べてなさい? この身体じゃあ手加減できるか自信もないし」
中腰になる千代紙の目の前には、ついさっき千代紙の身を案じた少女が、両手に収まり切らない四五口径の軍用拳銃の引き金に、果物の汁でべたべたになった指をかけていた。
少女はなにも答えない。反応は、式から許可を与えられていないからだ。
「もう一度、言います……こうなったのは先輩が悪いんですよ」
再度繰り返した式に、垣間見た幼さは消え失せ、肩を竦め不敵な笑みを浮かべる面影は、道理も人徳も弁えない――人でなしのそれだった。
今度は、千代紙の目をしっかりと見て式は言った。
式だって、このような方法で千代紙を牽制が可能だとは想定していなかった。だが、千代紙の命をどうこうできなくとも。
銃を向けた射手もまたこの街の調和を保つ歯車であり、彼ら自身の命をどうするかは式の決定次第でどうにもできた。
器用に銃を持ち変えた少女。銃口を自分の口内に突っ込むのを千代紙に見せ付けた。他の者も同様に。
「今すぐベッドに戻らないと、この人達の頭を、彼ら自身に吹っ飛ばせます。五秒、猶予を与えます。五秒が過ぎるごとに銃声が一つ鳴りますので、それまでに――」
千代紙は迅速に動いた。やはりまだ身体が完全に回復しておらず、加減したつもりだが勢い余って体勢を崩しかけた。
「命じなさい、銃を捨てるように。あなただって命は惜しいでしょう」
策略が詰まった頭蓋を千代紙は毛むくじゃらの手で掴み上げた。
「……ご、よん、さん……」
カウントダウンが淡々と始まった。
ハッタリだった。どのような裏があろうと、企みがあろうと、いくら式でも人殺しなんてできない。無感傷、無干渉を信条にする彼にこんな真似。
だから千代紙も、本気で後輩の脳味噌をぶちまけるつもりじゃなかった。後々、清掃の人にも迷惑が掛かるし。
「に、いち………………
ぜろ」
ハッタリなのは判っていたが、まさか、カウントがゼロまで下りるとは予想外で千代紙は面食らった。
面喰らって――いると。
ぱん、と、銃声が轟いた。
え、――そんな頓狂な声を呟きふり向いた千代紙を染める鮮血は、破裂した水風船のようだった。
回転した弾道に少女の咽頭はぐちゃぐちゃに裂かれ、後頭部から吐き出された血液が洗濯されて純白に香る病室のシーツを染色した。
仰向けの状態で跳ねる小さな身体。体内から魂が霧散しても生体信号はまだ微かに生きていた。
真っ赤に色付いた病室で、真っ赤な血油に染まりながら、式は目を白黒させる千代紙に問い訊ねた。
「式の覚悟、これで、伝わりましたか?」
疑問が爆ぜる。心が疑念で埋まる。
頬に飛び散った血をおもむろに拭うと、咽るような命のにおいがした。
剛毛は血に染まり、黒々と輝く爪から滴る少女の残り香。
傷を治し、命を救う病院で、あってはならない事が起こった。
「あなたがこの子を殺したのよ」
「お前がこの女の子を殺したんだ」
「先輩が、なんの罪もない少女を殺したんです」
誰も彼もが口々に千代紙を呪った。
もしも、事情を知らない者が惨状を見たら、同じように叫んだ事であろう。
この病室でバケモノなのは、千代紙、ただ一人であった。
早く街に向かわねば、五上涙子はまたも数え切れないニンゲンで腹を満たす。
ここを離れれば、ここにいる人達が自ら命を絶つ。
――どちらも、罪のない善良な人達だった。
なら、いっそ式を殺して、命令を中止させる。
冗談じゃない。千代紙は壁を殴り付けた。
式折々は、人だ。殺せば、人殺しになる。
もしそうなれば――あの人にどんな顔で会っていたか、忘れてしまう。
どうする事もできず硬直する千代紙の耳元で。
「ご、よん、さん、に」
カウントダウンは再会した。
時系列前後します。次回は『吸血鬼殺し』と涙子との戦いに戻ります。前後編に分けるかもしれません。




