Death,less,For the DEATH
――一目でわかった。目の見えなかった自分が、まさかこんな言葉を使う日が来るなんて。
――一目でわかった。唯の食糧に、まさかそんな感心を覚える日が来ようとは。
屋敷に充満する空気。大槌のように後頭部に重く圧し掛かる圧迫感とは裏腹に研ぎ澄まされた緊張は骨まで断つほどに鋭利であった。
不敵に嗤う少年、大粒の涙を流しながら我が子を抱く女。相手にとっては同じでありながら――なにもかもが異なる二つの〝死〟が、交わることなく反駁し合う。
膨張を続ける殺気に屋敷はきぃきぃと軋みを上げて、一息つけば破裂しそうな緊迫感だった。
相反する死の気配は、縁側から射し込んだ白銀の月明かりをも屋敷の外には逃がさず歪めた。
「久しぶりだな、こうして相まみえるのは何時ぶりか。新しい身体を得て、食欲だけでなくそっちの欲に目覚めたらしいな」
粗暴な言い分を乱暴な口調で言い切ったにも関わらず、ハープのような声帯を奏でる少年の微笑みに隠された上品さは、決して損なわれなかった。
夜空を率いて立つ少年の放つ存在感の正体。夢や幻かと見違えるほど白い肌をしておきながら、大山に匹敵する密度の気迫に空気が波を打っていた。
己の存在意義を全開放し、五上涙子を『吸血鬼殺し』は〝威嚇〟した。
眼前の姿を認めた眼球に電流が走り、涙子は顔を覆わずにはいられなかった。
初対面、それも子どもにこんなことを訊くのは、人として失礼だった。ただの子どもならいざ知らず、こんな、天使のように愛らしい子に。
だがこれは、紛れもない、五上涙子の意志に違いなかった。最初の頃は質問に対し、どうして抵抗したのか不思議で仕方ないほど。
足許からこちらに影を伸ばして佇む姿を瞳に映したその瞬間から、涙子は、縁も所縁もない少年の銘も姿も、初めから知っていた。
「また……ボクを殺そうというのですか?」
灯真を強く抱いて瞼を腫らす涙子に、ほう、と感嘆の溜め息をつく『吸血鬼殺し』がそのまま続けた。
「ついに、完全に意識を乗っ取ったか。だが……やはり不可解でならんぞ。なぜだ――なぜ自我を残している? そこの小僧を食うのに、いつまで勿体ぶる」
〝そこの小僧〟――そう『吸血鬼殺し』が指差した先を手繰っていった涙子が、それを、自身の身体で庇いながら叫んだ。
「灯真ちゃんは、ボクの大切な息子だ。食べるなんて――そんなことこのボクが、するわけないだろう!?」
灯真を濡らす涙子の涙――吸血鬼の眼が流した涙に嘘偽りは一切含まれていない。
推測を誤ったか――宿主の肉体は今だ掌握されている真っ最中なのかまでは、九月から〈始祖〉との繋がりを〝神〟によって切断された『吸血鬼殺し』は考察するのが限界である。
だが、今の彼女の発言で、これまで綿密に練りに練り込んだ計画が頓挫した。
奴は、『吸血鬼殺し』を見て〝また〟とそう呟いて、命乞いをした。廃屋を倒壊させた能力と鑑みて覚醒したのは間違いない。
その、上でだ、言った。寄生した女の息子の盾となりながら。
〝人を食べない〟と。あれだけ食欲旺盛だった、あの女が。
『第二の始祖』として目覚めた状態で、己の定義を、理を、起源を。こともあろうにかつて否定した、その相手に向かって。
彼女自身が、否と、断じたのだ。
「あなた……」
身を乗り出す涙子を手で制す『吸血鬼殺し』。
「あー、待て待て。今代案を考えている」
無論、それは涙子をどう殺すか、という意味である。初めて遭遇するケースで非常に興味をそそられるが、いい加減関心してもいられなかった。
思考する少年の機微を観察しながら、涙子はまたも不思議な感覚に囚われた。
考えに耽りたい時――〝彼〟は唇を動かす独特な癖があった。最適解が現実でどこまで通用するかは意識に内包されてははっきりとしない。
実像と虚像間の擦り合わせ、いわばデバッグある。事象が絶えず反発することで実在する現実上で、己の支配する領域が算出した行動は、どの範囲までが実現が可能か。
口にすればその範囲が赤字で明確に視認できる。出力された言語が実像に刻み込まれれば、必ずどこかで行き詰まる。息が詰まって言葉が躓いた箇所が起点であり――その部分を修正しない限り破綻は止まらない。
涙子の意識は、知らない記憶に導かれていた。
目の前にいる『吸血鬼殺し』という生き物の生態を彼女はいつの間にか憶えていた。
『吸血鬼殺し』――吸血鬼の血肉を糧に生きる生物。食物連鎖に叛逆する呪われし子ども達。少年はその最後のひとりだった。
――知っているのに知らない。わかるのにわからない。
昔、自分は確かに彼をこの目で見た。言葉を交わし関係を深め合い、最期は、彼が自分を終わらせた。
目が見えなかった自分が、彼の顔をどうして憶えているのか。
だがこれだけは涙子もはっきりとしていた。
これからあの少年に殺されるというのに、涙が出るほど怖くて苦しい結末が待っていると知っているのに。
「う、うう……ううう……!」
大丈夫、と、涙子は心から安心しきっていた。
「なにが〝大丈夫〟というのです!? 灯真ちゃんが、ボクの可愛い灯真ちゃんが死んじゃうのですよ!」
目の前で力を蓄えているのは、人の形をした絶望だった。牙も爪も持たない彼はその生涯を賭して吸血鬼を殺し、死に――死を宣告し続けた。死の運命すら喰い殺す化物を、目が見えるようになっただけで勝てるはずもなく
だというのに、身体の奥底から湧いてくる自信に、涙子は恍惚の涙を流した。
なぜかは知らないが、彼は、弱り切っている。今の自分でも余裕で勝ってしまうほど。
「母さんなら、あんな奴なんかに負けないよ!」
手を重ねて笑い掛けてきた青年を、涙子は憶えていた。
五上灯真。五上涙子の息子だった。
心に響く懐かしい声、胸を高鳴らせる笑顔。
たとえほんの一瞬でも、灯真のことも、知らない誰かの記憶と疑った。彼を恋しく想う母としての感情は、たった今生まれ、本当は愛してなんかいないと。
「よし、これでいこう」
『吸血鬼殺し』は顔を上げた。
「ねえ、灯真ちゃん。最後にひとつ教えて」
残り少ない時間を懸け、涙子は灯真に囁いた。
「もしボクが、灯真ちゃんのことを、もしね――忘れたら、嫌いになっちゃう?」
ドキドキしながら訊いた。そんな質問を我が子にする自分は、やはり母親失格なのだろうと思った。
勇気を振り絞った母の問いに、灯真は、一瞬も答えを迷わなかった。
「母さんは心配性だなぁ――母さんが僕を忘れりするわけないじゃないか!」
実の母子は考えることも同じだった。
灯真も想像した。自分のことが判らなくなった母の姿を。すると涙が湧いてきて、堪えようとしても駄目で。
不安を悟られなくなかった灯真は、わざと声を張って、母の胸に飛び込んで涙を誤魔化した。
でも、言いたかったのだ。
言葉の裏に隠れた息子の想いに母も気付く。
〝僕は、母さんを嫌ったりなんかしない〟
「……灯真ちゃん」
「なんだい、母さん?」
「愛してるって言ったら、信じてくれる?」
「母さんはどう?」
「……お母さんが灯真ちゃんを疑うわけないでしょう……!」
気持ちの整理がついた、とは言えなかった。ボウルに割った生卵をかき混ぜたみたいに相変わらず頭の中はぐちゃぐちゃと混乱し、明滅する視界に片頭痛がして消化器官は上へ下への大騒ぎ。
いつの日か、これに似た感覚を涙子は体験した事があった。最悪な気分と誰もが言うのに、涙子自身は、苦――どころか痛みに思わず笑みが零れてしまいそうになって。
「灯真ちゃん、ボクね、灯真ちゃんがお腹にいた時、つわりが気持ち悪くて、食べたら死んじゃうって思ったの」
唐突に話し出した涙子に首を傾げた灯真。
「なんだよ、そんな僕が憶えてないようなこといきなり」
「でもね……つわりって、赤ちゃんが大きくなると起こるの。へその緒から栄養をもらっているから、ボクが食べないと、赤ちゃんも元気じゃなくなるの。この痛みは、灯真ちゃんが大きく元気な子になりたい証なんだって思うと、苦しかったけど……嬉しかった!」
笑みを讃える涙子。つい昨日体験した出来事のように話す顔は、少女のように初々しかった。
「じゃあ……今度は、母さんがお腹いっぱいになるよう、僕、もっと頑張るよ!」
「あらあら、なら――もっと女の子に好かれなきゃね」
頸から血を流し乾いた瞳を剥く狼の少女が目に映った。
これ以上異性にモテるのは母としては喜ばしい限りだが、何だか複雑な気持ちの涙子だった。
闇を切り裂きながら『吸血鬼殺し』の一閃が涙子と灯真の肩から脇腹に掛けて振り下ろされる。ただの手刀は音速を凌駕し、空気抵抗すらも切断する。
『第二の始祖』は、五上涙子を掌握し続けている。これまでの状況を慎
重に精査してみるに、頭部は吸血鬼性を獲得していると見立てて間違いない。なら、頸から下はまだ人のはず。
彼が懸念すべきは、頸と胴体の境界が、どこまで吸血鬼に寄っているか。切断した箇所から再び再生されれば、新たに構築された細胞は不死となる。文字通り、この一手で、かの災厄の復活を引き起こしてしまう。
末端に人の部分――不死の力を宿していない五上涙子本来の身体を残して削れば、再生することなく〈始祖〉の魔眼を回収できる。
今回の目的は吸血鬼の捕食ではなく。
力を宿した者の抹殺だった。
「……息子を巻き添えにしようとしたのは謝る。だからって、ここまでしなくてもいいだろ」
誠意どころか心底うざそうに苦笑する『吸血鬼殺し』は。
母子から彼方離れた壁に埋め込まれていた。
上半身の端に切れ込みが入った、その途端。灯真と身体を寄せ合う涙子から影のみが分離し『吸血鬼殺し』に覆い被さった。涙子とは異なり『吸血鬼殺し』本体と影は動きが連動し、中空にいた『吸血鬼殺し』はそのまま壁と一体化した、というのが、秒を刻む間隔に起きた出来事だった。
影に潜れる吸血鬼の特性は、実体と、それに反映する領域と一体化する能力。この能力が使える〈始祖〉は、別の世界に在るもう一つの肉体に干渉できる。
そして、一体化が可能なら、分離させ、対象を襲わせる武器としても使用が可能。影が受けた衝撃、暑さや寒さ、痛み。それらは本体も影響を受ける。
領域を支配するまで、五上涙子が〈始祖〉の力に目覚めた。それが意味するのは、絶対的な力の差。
今この時をもって、『吸血鬼殺し』の命運は、尽きた。
何人も、吸血鬼の天敵も、この母子を止めることは叶わない。
「灯真ちゃん、ここで待ってて」
『吸血鬼殺し』と話を付けようとする涙子を、灯真は行かせた。
彼女が負けないのを、知っているから。
「どうして……こんなひどいことをするの……?」
壁に磔にされた少年の姿の『吸血鬼殺し』は、見ていて、とても痛ましく涙子は涙に濡れた顔を手で塞いだ。
「我をこんな目に遭わせた貴様がそれを言うかね?」
直撃を受けて後頭部が陥没したせいで、頭が上手く回らない『吸血鬼殺し』。
食い千切られた腕から流れる血は、人と同じ色合いをしていた。
「ボクはただ、灯真ちゃんと……お腹いっぱいな毎日を過ごしたいだけなのに。そんなささやかな幸せを、望んだらいけないの? ボク達は、幸せになったらいけないの!?」
「何の罪もない人を喰ってでも、幸せになりたいか?」
人喰いの怪物として生きる道を選ぶなら、涙子の言い分は正しい。餌に不自由しない捕食者が最も恵まれている。
「そうね。あなたの言う事はほぼ合っている――だから間違えている。罪を犯さない人なんていないわ! だから救うの、ボクと灯真ちゃんが!」
手を組む涙子の振る舞いは、原罪を説き人類を救済しようとする神の代行者のようだった。
同じ言葉を、理想を『吸血鬼殺し』に言ったモノがいた。人類は生まれた瞬間から罪深く、食べることで、その罪から彼らを解放していると。涙を流しながら。
そして、その不死身の怪物は、姿を変えて今、目の前にいた。
だからこそ――彼女は退治されなければならない。それが、人類と吸血鬼が何千年も掛け結んできた不変の関係性は、揺らぎはしない。これからも――いつまでも。
「……かわいそうに、あなたも罪を犯したのね。いいわ、ほら……いらっしゃい」
『吸血鬼殺し』の頭の上で口を開けた涙子から唾液が滴り少年の顔を濡らした。あれだけの人を喰っておいて、彼女の歯は白さを保っていた。
「〝敵がいるぞ。殺せ〟」
つむじをかじり取られそうになった『吸血鬼殺し』が何やら呟く声を、灯真は見た。
〝気を付けて……その方は……ひとりじゃありません〟
少年の腹がホットケーキを焼くようにぼこぼこと膨張した。皮膚が裂かれる音と共に涙子の喉を掴もうと伸びたのは、細く艶めかしい――女の腕だった。
「自分の罪は、自分で償ってみせるさ」
べたりと両手を突いて『吸血鬼殺し』の体内から召喚された女。血に濡れながらも、生糸のような金髪はその輝きを宵闇に告知する。
臓物が腹から垂れているのに気付いていない風に、少年は固定された身体の凝りをほぐそうと身をねじった。
「逃がしました」
「見ればわかる」
『吸血鬼殺し』に失態を問われた女が獲物を逃した間抜けな手を眺めた。
地面に倒れた涙子には、女の目が、開いたような気がした。
顔だけではない。鮮血にずぶ濡れで視認は難しいが、女の全身は頭髪を除く全身を包帯に包まれていた。
〝あの包帯には、気配を殺す術が込められているのです〟
また聞こえた。先ほどから涙子には女の声がしていた。
鼓膜ではなく脳を直接震わせる女の声が、涙子には――自分の声のように思えた。
「……『十字架』……」
謎の声に同調して新たな記憶が想起する。
『十字架』。『吸血鬼殺し』が使役する使い魔であり、彼が倒した〈始祖〉の一匹から手に入れた戦果。吸血鬼退治用に特化した肉体改造を施された。元・吸血鬼。
彼女の〝正体〟も、記憶は教えてくれた。
「ああ、なんてかわいそうなの……」
両手を添えて丁重に主を壁から救出する『十字架』。二人の姿に、涙子は涙が止まらなかった。
「避けられました。なぜでしょう」
「教わったんだろう。奴はお前のことも知っている。それより――おい。さっさと腹を治せ。今は身体を再生できないんだ」
千代紙を回収しながら『十字架』が言い、退避させた彼女に『吸血鬼殺し』が返す。
だがこれは好都合だ――と、『十字架』に裂かれた腹を舐められながら『吸血鬼殺し』は口角を僅かに上げた。唾液が付着した部分から細胞分裂が活発になり、傷口が完全に塞がると古い臓器が畳に落下した。
唇を切った『十字架』が自らの血を塗布し、主の傷を治癒させた。
この一手で、涙子に止めを刺すつもりでいた。『吸血鬼殺し』にとって奇襲は当初の予定であり、切り札だった。
少年は見た。宙に浮いた涙子の身体が重力に逆らって後方に飛んでいくのを。
原因は――『吸血鬼殺し』が涙子の足許に視線を落とす。修道女の姿を模った影が彼女に張り付いて、こちらを見つめていた。
「そこにいたか」
生物には本来、一つの人格に存在の定義が異なる二つの肉体を持っており吸血鬼は感覚を共有することができる。だが五上涙子の現在の状態は、異なる肉体に異なる人格が同居している。
どちらにしても、時間がないのは変わらなかった。影の中に潜む『第二の始祖』が攻撃を避けようとする、その度に人の肉のままの涙子は消耗する。その時が来れば、張り詰めていた緊張の糸は、一瞬の間を置いて、切れるであろう。
「削るぞ。弱り切ったこの身でどこまでいけるか試したい」
「主命――受諾。こちらが壊れるより俊く、壊します」
先に動いたのは『十字架』だった。構えた姿勢から天井に跳躍し三次元を駆使して攻撃を仕掛けようとした。
すると、突然涙子が苦しみ出し目許を押さえた。呻きながらも、開けた片側の眼で、天井に取り憑いた包帯姿の女を捉える。
昔はなかった肉が歳を積むごとについてきて、ダイエットしようにもなかなか続かなくて。そんな涙子に、細く若々しい『十字架』の身体がとても羨ましいものに見えた。
『十字架』も『十字架』で、攻撃に備える。光線が直線にしか飛ばないということを知っていれば、天井にいても避けられた。
「共有された記憶の参照を終了。回避した後、攻撃を――」
『吸血鬼殺し』から共有した記憶を頼りに行動の変更を掛けた『十字架』だった。だが、読みはまんまと外れた。
魔眼が顕現させたのは撃滅する光の矢ではなく、敵を絡め取る綱だった。
花弁を付けた轍が『十字架』の肢体を地面に引き摺り落とし、支柱に当てて充分に弱らせてから放り捨てた。
「母さん!」
灯真が叫んだ後ろで『十字架』が仰向けに伸びていた。あと数ミリずれていれば、灯真の耳を掠めるだけでは済まなかっただろう。
「灯真ちゃあん……ごめんなさぁあい……」
歌舞伎の毛振りのように頭を振ったせいで、三半規管を乱した涙子はふらふらと灯真に謝った。
「ちがう! うしろ!」
『吸血鬼殺し』の鋼拳を指差した灯真が叫ぶが、涙子がそれに気付く素振りはない。
万事休すと思われたその時、千鳥足の涙子の周囲から茨が出現し、四方八方から貫かれた『吸血鬼殺し』が拳を振り上げた状態のまま動きを封じられた。
「ア……ガァ……!?」
剣山が『吸血鬼殺し』の命を吸うと、生命力を得た茨はますます太さを増して獲物を苦しめた。
「――すごい、すごいよ母さん!!」
ようやっと意識を取り戻した涙子は、興奮する灯真に背後を見て、ぎょっとした。
「灯真ちゃん……お母さん、なんだかやる気がわいてきちゃった!」
「がんばれ母さん!! そんな奴やっつけちゃえ!!」
争いごとや喧嘩は嫌いだが。
息子に応援されるのは、こそばゆくも、嬉しかった。
「! 灯真ちゃん!」
「主の拘束を解いてください。あなたに人の心がおありなら」
灯真の頸に刃を添えながら『十字架』が言った。
屋敷に放置されていただろう――『十字架』が握るそれは、日本刀だった。刀身は折れているが、月の光を反射させるあたり切れ味は損なわれていない。涙子に骨董品の目利きはないが、仮に損なわれていても、折れた切っ先で、灯真の喉を果物を切るように簡単に裂けるのは判った。
「どうしよう、灯真ちゃんが……!」
下手な動きを一回でも見せたなら、灯真は死ぬ。
〝何を恐れているのです〟
「だって、灯真ちゃんが!」
〝ああ、恐れないで。あなたには、我が子を救う力があるのです。自分を信じて、ただ、あの子の無事を願うだけでいいの〟
咽び泣く声に導かれるまま、涙子は、両手を広げると、刃物を握った『十字架』が泡を噴いて苦しみ出した。七転八倒しバネ仕掛けのように暴れ回る。
畳に反映する『十字架』の影が、『十字架』自身を攻撃していた。
阿鼻叫喚の地獄絵図。灯真は座敷の隅に隠れるように膝を抱えた。
頸の血管に伝わる冷たい感触。
縛り付ける邪魔な茨を全て嚙み砕いて脱出した『吸血鬼殺し』の執念は、ついに涙子に届いた。
「いたい! はなして!」
と、泣きながら口では言いつつ、痛みはほぼなかった。出血する血が錯覚させた幻覚だった。
抵抗する涙子の背に憑いた『吸血鬼殺し』が、折れた古刀の先端を心臓に突き刺そうとした。粉砕部分を視認した吸血鬼の魔眼が、『十字架』の持つ刀の片割れであると涙子に告げた。
殺される。心臓は再生しない。
だが、刃は涙子の心臓に至らなかった。
右腕に次いで左腕、右足に左足。影に腕の影を捻られ、挽き肉になるまで破壊された手足に『吸血鬼殺し』は力を全て奪われ、屋敷の彼方まで飛ばされた。
だが、手足を捥いだだけで、彼の飢えは収まらなかった。
口に鋼を咥えた少年が芋虫のように這って、だがそれでも素早い動きで涙子に三度肉薄した。膝から上になった足に反動を付けた袈裟斬りを剣筋に沿う形で反対に避ける。
ワンステップ踏んだ涙子の背後から心臓を狙う『十字架』の刺突を、回転で生まれた遠心力に乗せた拳で軌道を反らす。背中を見せた涙子。今しがた見せた彼女の動きを参考に身を捻った『吸血鬼殺し』の横薙ぎ。殺気を感じ取った涙子が跳躍、天井の梁にしがみ付き光線を放った。死線は古刀がからがら防いだが、またも距離ができてしまった。
脂汗が頬を伝う。吸血鬼にはない代謝に、天敵である『吸血鬼殺し』は苦しめられた。
消耗が激しいのは、涙子も同じだった。慣れない動作に獣並みの条件反射。筋肉は裂け骨にも入っている。痛みがあるかは怪しいが、体力は確実に削れている。
『吸血鬼殺し』と『十字架』は、最後の挟撃に出た。
「――身体が!?」
痛みはない。なのに、指先一つ動かせない。
涙子を挟み込む二つの殺気。あれは、たとえ眼で追えても避け切れない。
「灯真ちゃん……ごめん、ここまで、みたい」
最後は、この目に、愛する息子の姿を焼きつけて逝きたかった。
「負けるなー! 負けるな母さぁああああああああああん!!」
灯真が、我が子が声を張り上げて、応援していた。
「…………うん!」
灯真のエールに、母は強い頷きで応えた。恐怖も焦りも、吹き飛んだ。
同時。涙子の影が届く全ての領域に、花園が顕れた。色彩豊か、色とりどりの花が咲き誇り屋敷を明るい光で照らした。
「――綺麗――」
母が顕現させた花園に、灯真は深い溜め息をついた。
それは――涙子の勝利を祝う花。
この時を以て――『吸血鬼殺し』の敗北は決した。
涙子と灯真の心を癒した花は、攻撃を仕掛けた敵を圧倒させ、地に平服させ屈辱にまみれさせた。
それも、そのはず。今、彼らに加わる敗北の重みは現実の質量に変換され、その質量は、地球一個分に相当した。
それでもなお、彼らは死ねず、恥辱を味わう。それこそが、彼らの受けた〝呪い〟なのだから。
「……。……っ! ――ごじょうるいこぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
怨嗟に満ちた悲鳴はいつまでも尾を引いて。
『吸血鬼殺し』とその僕は、影に沈んでいった。
筋肉が断たれ、骨も断たれ、望みも絶たれた。
『吸血鬼殺し』が漂うのは、神にも見捨てられた領域。光も熱も届かない世界のど真ん中。
『吸血鬼殺し』を閉じ込めた『第二の始祖』は、このまま彼の肉体も精神もすり潰し、吸収する。
「指示を」
共に呑まれてゆく『十字架』が命令を求める。
見誤った。
あれを――〈始祖〉と同様の危険度として扱っていれば。
「……後悔しても、勝てないか」
今の状態では、あの、二十人の〈始祖〉にも敗けてしまう自分が、どうしてあの女に、勝てると本気で思ったのだろう。
自業自得。当然の報い。
「――あなたが敗北を認めるのなら、抵抗はしません」
『十字架』は言った。極めて機械的に。諦めろ、と。
「……はっ、冗談。反撃は、やられ切った後に起こすから、絵になるんだろうが」
大敗も笑い飛ばす主。『十字架』は何の反応も見せない。
だが、彼は、決して諦めたりなんか、してやらない。
――今度は勝つぞ。
死を殺す男が、誓う。
「そのために、お前には――ここで死んでもらう」




