第十五話
朝の空は重く、低い雲が垂れ、光が薄かった。
アクレナの町の影が道の上まで伸びていた。
昨日は町の宿に泊まった。
宿は古く、扉の軋む音が夜まで残った。
部屋の壁は薄く、外を歩く人の足音がそのまま伝わってきた。
硬い寝台で熟睡とまではいかなかったが、それでも、体を横にできるだけで十分だった。
ルナール宿屋に住み慣れてしまったため、こうして他の宿屋に泊まると、改めて、おかみさんの温情が身に染みた。
夜の風が窓の隙間から入り、布を少し揺らした。
その揺れが、町の沈んだ空気と同じ重さを持っているようだった。
朝になり、役人に挨拶をして一行は町を出た。
交わした言葉は短く、役人の目の奥に疲れがあった。
厩で他の傭兵たちと合流し、荷造りを始めた。
ルーシェは手綱を握りながら、町の空気がまだ背中に貼りついているような気がした。
アクレナを発ってからしばらく馬を走らせた。
その日の夕刻、一行は街道沿いで野営をした。
翌朝。
リネアは弓を背負い直し、馬の横で空を見ていた。
その目は曇天の下でも冴えていた。
疲れが残っているはずなのに、遠くの揺れを拾うような鋭さがあった。
「今日は降りそうだべ……」
声はいつもより少し低い。
道は丘を抜け、森へ向かって伸びていた。
木々の影が濃く、昼なのに夕方のように見える。
馬の蹄が湿った土を踏むたび、音が吸われていく。
ルーシェは前を見た。
森の奥が黒く沈んでいる。
フォンティア遺跡は、そのさらに向こうだ。
しばらく走ると、
「……なんか、動いているべ」
リネアが馬上で首を傾けた。
ロウリゴが後ろから声を落とす。
「獣かな」
リネアは答えなかった。
ただ、森の影をじっと見ていた。
その横顔は、光が弱いほど輪郭がはっきりする。
ザガシトが肩を回しながら前へ出た。
曇天の下で、彼の影は大きく揺れた。
森に入ると、空気がさらに重くなった。
鳥の声が少ない。
風の音だけが枝を揺らしている。
ルーシェは胸の奥が少しざわついた。
不吉なものの気配を体が先に気づいているようだった。
やがて、森の奥に黒い塊が見えた。
光が落ちる直前の空の下で、遺跡は影のように立っていた。
レオニスが馬を止めた。
「今日は入らない。ここで野営する」
その声には、迷いのない決断があった。
焚き火の準備が始まった。
ルーシェは薪を集め、ロウリゴは火を起こす。
ザガシトは周囲の地形を見て、獣が来そうな方向を確かめていた。
リネアは焚き火から少し離れた場所に立った。
森の影を見ている。
その目は、夜の始まりを待っているようだった。
焚き火の明かりが揺れていた。
風は弱いのに、火だけが落ち着かず、細く伸びたり縮んだりしている。
ルーシェはその揺れを見ながら、森の奥の黒さを意識していた。
リネアが弓を持ったまま、森のほうへ顔を向けた。
「何か……来るべ」
声は小さかった。
けれど、焚き火の音よりもはっきり聞こえた。
レオニスがさっと立ち上がり、傭兵たちへ指示を出した。
荷馬車へ学者たちを誘導する。
ルーシェは腰の短剣の存在を確認し、闇を睨んだ。
森の影が動いた。音はほとんどない。
ただ、地面の草が一瞬だけ沈んだ。
「灰走り狼だ!」
リネアが叫ぶ。
飢えそのもののような獣が一頭、影から滑り出た。
足音が軽い。
走るというより、地面を撫でているようだった。
リネアの弓が鳴った。
矢が闇を裂き、狼の肩に刺さった。
狼は短く吠え、横へ跳ねた。
その動きに合わせるように、森の奥から影がいくつも溢れた。
八頭……いや、もっとだ。
焚き火の光の外側で、黄色い目が揺れた。
ルーシェは魔力を込めた短剣を煌めかせ、一頭に斬りかかった。
だが、素早くかわされる。
横から、もう一頭の気配。
ルーシェは後ろへ飛び、距離を取った。
――速い
二頭は挟撃すべくじりじりと距離を詰めてくる。
今にも飛びかかってきそうだ。
「複数に囲まれた場合はな、相手が重なるように自分が動くんだよ」
面倒くさそうに説明するオルヴァスを思い出した。
ルーシェは素早く位置を取り、挟撃を防ぐ。
短剣を握り直した、その時――
リネアの矢が闇を裂き、後ろにいた二頭目の頭部に突き刺さった。
短い断末魔とともに地面に倒れ伏した狼を横目に、飛びかかってきた一頭目の喉に短剣を突き刺す。
その勢いのまま頭部を切り裂いた。
血飛沫と共に灰走り狼は痙攣し、動かなくなった。
ルーシェは周囲を見回した。
焚き火の灯りは心許なく、ぼんやりと影が揺れていた。ルーシェの喉が鳴った。
だが、突然の襲撃にもかかわらず、レオニスの指示のおかげだろうか。乱戦の中でも、傭兵たちは戦えているようだった。
低い唸り声が聞こえ、ルーシェは身構えた。
その途端、甲高い鳴き声とともに、灰走り狼が地面に崩れ落ちた。
リネアがまた射抜いていた。
この暗闇で……すごい目だ。
左を見ると、灰走り狼を盾で押し返すザガシトがいた。後ろにロウリゴがいる。
素早く近づくと、ロウリゴの詠唱が聞こえた。
「唸れ、紫電の鞭よ。我が意に従い、敵を打て――
第二階位魔法 《雷鞭》」
鞭のようにしなった稲光が二頭の側面を叩いた。
灰走り狼が痺れたように足をもつれさせる。
ルーシェはその隙に踏み込み、短剣を横腹へ突き立てる。
灰走り狼が低く唸り、倒れた。
ザガシトはもう一頭に斧を振り下ろし、再び周囲を警戒する。
「一旦、リネアのそばに行こう。
まとまった方がリネアも撃ちやすいだろうし」
リネアに話しかけようとした瞬間。
「また、くる」
そう短く言ったリネアの言葉と同時に、森の影が揺れ、三頭が同時に動く。
焚き火の光が一瞬だけ細くなった。
リネアの目が、闇の揺れを追っていた。
弓弦が三度短く鳴り、三頭が走り出すより早く、矢が放たれていた。
一頭の喉、もう一頭の肩、最後の一頭の後脚へ刺さる。
さらに、もう一頭――
ルーシェは前へ出た。
影が横から跳ねる。
短剣で受けると、腕に衝撃が走った。
狼の牙が近い。
息が熱い。
ロウリゴの声が背後から落ちた。
「走れ、紫電の矢よ。敵を穿ち、彼方まで駆け抜けろ――
第二階位魔法 《雷矢》」
細い雷の矢が闇を裂き、狼の脇腹を撃ち抜いた。
狼がよろめく。
ルーシェはその首へ短剣を入れた。
残りの影が森へ散った。
黄色い目が一瞬だけ揺れ、すぐに消えた。
風が戻った。
焚き火がまた大きく揺れた。
リネアは弓を下ろし、森を見た。
その目はまだ闇を追っていた。
けれど、もう獣の揺れはなかった。
ザガシトが斧を肩に戻し、ロウリゴは額の汗を拭う。
ルーシェは息を整えながら、倒れた灰走り狼を見た。
夜が静かになった。
遺跡の影が、森の奥で黒く沈んでいた。
灰走り狼の血の匂いが、湿った土の匂いと混じっていた。
レオニスが近づいてきた。
焚き火の光が彼の肩口を照らし、影が長く伸びた。
「全員無事だな」
声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、状況を一瞬で把握した者の重さがあった。
レオニスは倒れた灰走り狼の一頭へ歩み寄り、しゃがんだ。
指で地面を軽くなぞる。
草がほとんど沈んでいない。
「……足音が極端に小さい。踏みしめる感覚が薄いんだ」
ルーシェは息を整えながら、その言葉を聞いた。
確かに、気配を感じた瞬間にはもう近かった。
走る獣のはずなのに、地面の震えがほとんどなかった。
レオニスは狼の頭部を見て、わずかに眉を寄せた。
「群れで狩る。連携が速い。危険な獣だ」
焚き火の光が灰走り狼の毛並みを照らした。
灰色の毛が、火の赤に染まって揺れた。
ルーシェはその姿を見ながら、胸の奥がまだざわついているのを感じた。
森の影は静かになったはずなのに、闇の奥がどこか動いているように思えた。
レオニスは立ち上がり、周囲を見渡した。
その目は、夜の気配を測っているようだった。
「今夜は気を抜くな。こいつらは一度で終わるとは限らん」
レオニスは森の闇から目を離さなかった。
死骸を埋め、一行は一呼吸置いた。
焚き火の揺れが落ち着きはじめ、森の奥の黒さがようやく沈んだように見えた。
ルーシェはリネアの背中を見た。
闇を追うように、彼女の瞳だけがまだわずかに動いている。
灰走り狼は、凄まじい速さだった。
だが、それ以上にリネアの弓がすごかった。
あの暗さで、どうしてあれほど正確に矢を撃てるのか。
ルーシェはリネアに歩み寄った。
「……どうやって、あんなに見えるんだ」
リネアは森から目を離さずに答えた。
「ああ、目だべ。
私は武炉だけど、目の強化が得意なんだべ」
焚き火の赤がリネアの瞳に反射し、光が細く揺れた。
その揺れは、闇よりも鋭かった。
リネアは弓を軽く持ち直した。
「目に魔力を集中させると、視界が一気に広がるんだべ。暗闇でも関係ない。草が沈んだとか、風向きが変わったとか……そういうのまで拾えるようになる」
リネアは続ける。
「もちろん、弓にも矢にも魔力は流してるさ。腕にもな。ただ、目に魔力を集中させると違うんだべ。世界が変わる」
焚き火がぱち、と弾けた。
その音よりも、リネアの声のほうが静かに響いた。
ルーシェはその横顔を見た。
焚き火の光が輪郭を薄く照らし、闇の中で目だけが生きているように見えた。
「魔法はさっぱりだけどな」
リネアはそう言うと少しだけ笑った。
相手の魔力を『視る』ために自分も目に魔力を流す必要があるとオルヴァスは言っていた。
魔力は奥が深い。
ルーシェは静かに驚いていた。
リネアは森の奥をもう一度見た。
獣の揺れはもうない。
「……まだ来るかもしれないべ。気を張っとくさ」
その声は小さかったが、焚き火の揺れよりも確かだった。
焚き火がまた細く揺れた。
森の奥の黒さが、さらに深く沈んだように見えた。




