第一話 草履取り
尾張の朝は、まだ冷たかった。
城の庭先に、ひとりの若者がいた。
背は高くない。着物も粗末だ。
だが、その手だけは止まらない。
草履を並べる。
砂を払う。
紐の結び目を、ほんのわずかに整える。
「そこまでやるか」
年嵩の侍が、半ば呆れたように言った。
「どうせすぐ汚れる」
若者は顔を上げない。
「汚れる前に、整えておくのです」
答えは静かだった。
だが、迷いはない。
草履の向き。
並び。
履いたときの足の入り。
どれも、わずかな違いだ。
だが、その“わずか”を、彼は見逃さない。
「名前は」
「日吉と申します」
侍は鼻で笑った。
「日吉、か。ずいぶんと器用だな」
若者――日吉は、ようやく顔を上げた。
その目は、どこか柔らかい。
「器用なだけでは、足りませぬ」
それだけ言って、また手元に視線を落とす。
侍は肩をすくめ、立ち去った。
やがて、城内がざわめき始める。
足音。
声。
緊張。
誰かが来る。
その時、日吉の手が止まった。
並べられた草履を見つめる。
ほんの一瞬だけ。
そして、ひとつを――わずかに前へ出した。
理由はない。
だが、そうするべきだと、思った。
やがて、足音が近づく。
空気が変わる。
現れたのは――
織田信長。
鋭い眼差し。
無駄のない動き。
庭先に並ぶ草履に、視線が落ちる。
一瞬。
信長の足が、迷わずその一足へ向かった。
日吉が、わずかに前へ出した草履だった。
「……」
信長は何も言わない。
ただ履き、歩き出す。
その背を、日吉は見ていた。
(合った)
心の中で、静かに呟く。
なぜ、その一足だったのか。
説明はできない。
だが、違えなかった。
「おい、日吉」
先ほどの侍が戻ってくる。
「今の、見たか」
日吉は頷く。
「はい」
「偶然だろうがな」
侍は笑った。
日吉は、何も言わなかった。
ただ、草履を整え続ける。
その手は、相変わらず正確だった。
まるで――
先の出来事を、最初から知っていたかのように。
庭先に、朝の光が差し込む。
何も変わらないはずの一日が、始まる。
だが、何かが、わずかに動いた。
誰にも気づかれないほど、小さく。
確かに。
後に――
この日吉が、
豊臣秀吉と呼ばれるようになる。
それが、どこから始まっていたのかを、
知る者はいない。




