536話 抜け殻
アマテラスの視線に、千夏が獣のように噛みつく。
「何が無駄なのよ!邪魔しないで!涼介は死なない!あたしが死なせない!」
アマテラスは危害を加えるつもりはないようだった。
彼はただ、エレナの名誉を守るためだけに、自身の見解を口にした。
「落ち着け。……もしもの話だ。もし腕が切り落とされたとして、その『傷口』と、切り落とされた『腕』に同時にポーションをかけたらどうなると思う?」
「はぁ!? 何言ってんのよ! 意味わかんない!馬鹿にしてんの!禅問答なんか要らねーんだよ!」
千夏は苛立ちを露わにして叫ぶ。
だが、横で聞いていたハルカは、ハッとしたように顔を上げ、理解したようだった。
そして、信じられないものを見る目で、今なお巨大化を続けている「あの女」を見上げた 。
まさか、そんな馬鹿なことが、と。
「っざけんな!結論を言えってのよ!涼介を戻す方法を教えろ!何か知ってんだろ!」
千夏がせかす。
「……結論はこうだ。腕を斬られた『本体』には新たな腕が生える。だが、切り落とされた『腕』から、本体が復活することはない」
「だから何なのよ!涼介は腕なんかじゃ……」
千夏がそこまで言いかけた時、美咲も理解できてしまった。
背筋が凍るような、おぞましい真実に。
「……まさか」
美咲は、足元の涼介と、空に浮かぶ巨大な女を交互に見た。
「涼介君の心臓は……生きてる。あの女こそが、涼介君の『心臓』であり……『本体』だというの?」
ポーションは本体を修復するもの。
心臓が本体として独立し、あの女へと変貌した今、ここに転がっている高橋涼介という肉体は、もはや本体から切り捨てられた「残骸」——つまり「切り落とされた腕」と同じ扱いなのだ。
「だから……回復しない」
美咲が絶望と共に呟く。
千夏がやっていることは、切り落とされた腕が壊死しないように、必死で栄養を送っているだけ。
涼介の魂や意識はここにあるのに、世界は彼を「本体」とは認識していないのだ。
それでも涼介は、ここにいる。
喋ることはできないが。
その瞳から涙がこぼれ落ちていた。
彼の視線の先には、物言わぬ遥斗の遺体があった。
悔しそうな、悲しそうな、そしてどうしようもない後悔に満ちた瞳。
美咲はすべてを悟った。
涼介はこの世界に来た時から、いや、勇者に選ばれたその瞬間から、魂に何かが巣食っていたのだ。
本人が気づかないうちに、精神も、肉体も、少しずつ侵食され、入れ替わっていた。
そして「高橋涼介」という人間の本質——可能性や未来、生命力といったものは、あの心臓とともに持ち去られてしまった。
ここに残っているのは、搾りかす。
本体から捨てられた抜け殻。
でも、それこそが、美咲がよく知る、寂しがり屋で強がりで……誰よりも優しい「高橋涼介」だった。
勇者というシステムそのものが、あの邪悪な女神の魂を育てるための苗床であり、依代だったのだ。
最初から仕組まれた、逃げ場のない罠。
気が付いた時には、もう何もかもが手遅れだった。
空を見上げれば、女はすでに人の形を留めていなかった。
巨大化は止まらず、それはまさしく神——女神と呼ぶにふさわしい威容を誇っていた。
あまりに巨大で、あまりに荘厳で、そしてあまりに冒涜的。
存在するだけでも、あり得ないほどの質量とエネルギーを感じる。
まるで、一つの世界がそこに形を成したかのよう。
いや、実際にそうなのだ。
彼女は「イド」を通じて、崩壊する世界をエネルギーとして吸収し、自身の存在として再構築している。
世界そのものと言っていい。
ズズズズズズズ……!
大地が悲鳴を上げ、砕けていく。
世界が崩壊を続ければ続けるほど、それは女神の糧となり、より巨大に、より力強く顕現していく。
そして、そのたびに、女神の背後に開いた「イド」の扉も巨大に。
イドの中は、まさに混沌の海だった。
赤黒い泥のような暗闇の中から、声が聞こえる。
——アァァァァァ……ララララ……アァァァァ……
歌だ。
讃美歌のようであり、呪詛のようでもある。
神の生誕を祝う歌。
しかし、人にとっては耳を塞ぎたくなるような、精神を逆撫でする不協和音。
この世の音ではない。
地獄の底から響く、数億の亡者のうめき声。
「……こいつは」
マーガスが耳を押さえて呻いた。
彼は知っていた、この不快な音を。
彼の持っていたオリハルコンの剣から、ずっと流れ込んできていた「声」そのものだ。
「嘘だろ……あんなのだったのかよ……」
しかし、地獄は音だけではなかった。
ぬちゃり。
イドの闇の中から、異形のモノたちが這い出してくる。
背中に翼を持ち、白い衣を纏っていることから、かろうじて「天使」のような意匠は見て取れる。
だが、その実態は悪夢のコラージュだ。
顔がいくつも重なり合っているモノ。
目玉から無数の手が生えているモノ。
内臓が体外に露出しながら活動しているモノ。
天使というよりは、出来損ないの肉塊、あるいは亡者の群れ。
それらが、一匹、また一匹と、イドから這い出し、空間を埋め尽くしていく。
ァァァァァァァ……!
異形の天使たちの産声が響き渡る。
それは、すべての終わりを告げるファンファーレ。
勇者は砕け、主人公は消え、世界は神に喰われる。
地獄の軍勢が溢れ出すこの時。
希望など、どこにもなかった……




