535話 涙のポーション
世界が軋む音がする。
それは物理的な大地の崩壊音であり、同時に、そこにいた者たちの理性が砕け散る音でもあった。
誰もが、うめき声しか上げられない。
目の前で起きた出来事が、あまりにも常軌を逸していたからだ。
人の身体から、心臓が勝手に飛び出し、それが女の形をしたものへと変貌する。
地獄の蓋が開いてしまったようなその光景に、もはや誰も現実感を抱くことなどできなかった 。
思考停止。
恐怖による麻痺。
しかし、その中で千夏だけは違った。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!涼介ぇぇぇぇぇッ!!」
千夏は絶叫を上げながら、倒れ伏した涼介のもとへと転がるように走った。
遅れて、美咲も弾かれたように駆け出す 。
「涼介!涼介!涼介!涼介!しっかりして!」
千夏が涼介を抱き起そうとして、その手がぬらりと赤い液体に濡れた。
涼介は胸から大量の血を噴き出しながら倒れていた。
痙攣するように手足がピクピクと動いているが、もはや悲鳴を上げる力さえ残っていないようだ 。
「ひっ……!」
その傷口を見て、美咲は血の気が引いた。
胸の中央に、ぽっかりと風穴が開いている。
肋骨は外側に向かってへし折られ、肉が花弁のように裂けている。
そして何より——そこにあるべき臓器、心臓が、ない 。
それは、誰がどう見ても取り返しのつかない傷。
死を直感させる、虚無の穴。
普通なら即死していてもおかしくない。
意識が辛うじて保たれているのは、涼介のレベルと精神力が並外れているからに過ぎない。
だが、それも時間の問題。
「死なせない……死なせないッ!」
千夏は迷わず、傷口に手を突っ込んだ。
ビクンッ!
涼介の身体が大きく跳ねる。
千夏の手首まで埋まるほどの深い穴から、さらにどす黒い血が噴き出す。
「気環生掌ッ!!」
千夏が叫ぶ。
彼女の全身から黄金色のオーラが噴出し、涼介の体内へと流し込まれていく。
自身の気を直接相手の循環器系に干渉させ、強制的に生命活動を維持させる。
ハイモンクの秘術。
無くなった心臓の代わりに、千夏が自らの気で血液を無理やり循環させている、いわば生体人工心臓。
「あ……が……はっ……」
涼介の顔に、わずかに赤みが戻る。
うつろだった瞳が焦点を結び、目の前の千夏を捉えた。
パクパクと口が動く。
「しゃべらないで!じっとしてて!今助けるから!」
千夏が必死の形相で制止する。
涼介はその言葉に素直に従い、力を抜いた。
だが、美咲には分かっていた。
こんなものは気休めに過ぎない、と。
千夏の気功術はあくまで「循環」を代行しているだけ。
根本的な解決——心臓の再生には至っていない。
千夏は同時に『ヒーリング』も行っているが、傷が塞がる気配は微塵もなかった。
彼女の治癒能力の限界を遥かに超えているのだ。
(どうしよう……どうすれば……)
美咲は震える手で杖を握りしめた。
彼女には治癒の魔法はない。
千夏で無理なら、誰も無理だ。
このままでは、千夏が力尽きた時が涼介が死ぬ時。
助ける方法は、一つしかない。
この世界で最高峰の回復アイテムを使うこと。
そして、今、それを持っているのは——。
美咲は顔を上げ、視線を巡らせた。
そこには、冷たくなった遥斗の亡骸に縋り付いて泣いている、エレナの姿があった。
(……無理よ)
美咲の理性が叫んだ。
頼めるわけがない。
涼介は、遥斗を殺した張本人だ。
その涼介を助けるために、遥斗が遺したポーションをくれだなんて。
鬼畜の所業だ。
人として、最低最悪の行為だ。
それでも。
それでも美咲には、そうするしかなかった。
それに縋るしかなかった。
(ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!)
美咲は唇を噛み切り、遥斗の元へ——いや、エレナの元へと走った。
厚かましいのは承知の上。
罵倒されるのも、殴られるのも覚悟の上で。
「エ、エレナさん……!」
美咲が声をかけると、エレナがのろりと顔を上げた。
その瞳には生気がない。
涙で濡れた顔は、感情が抜け落ちた人形のようだった。
「……お願い。ポーションを……遥斗君に使っていた、最上級の回復ポーションを、一本でいいから、分けてくれない……?」
美咲の声は震えていた。
地面に額を擦り付けんばかりに頭を下げる。
「涼介君が……死にそうなの。このままだと助からないの。だから……!」
その言葉に、呆然と突っ立っていた大輔が反応した。
「は……?美咲、お前……」
大輔は信じられないものを見る目で美咲を見た。
それはいくらなんでも酷すぎる。
死んだ遥斗を見る。
そして、向こうで血溜まりに沈んでいる涼介を見る。
二人とも、大輔にとっては大事な友人だった。
誰かが死んでいいはずがない。
涼介を助けたいという気持ちは、大輔にだってある。
だが、遥斗を殺した涼介のために、遥斗を一番愛していたエレナに「助けてくれ」とは……口が裂けても言えない。
それは人の心を踏みにじる行為だ。
エレナが無言で美咲を見つめる。
その虚ろな視線に射抜かれ、美咲は押しつぶされそうになった。
後悔の念しかない。
こんなことを頼む自分が憎い。
できることなら、自分の命を差し出して許しを請いたい。
けれど、美咲には「皆を元の世界に連れて帰る」という使命がある。
だから、死ねない。
恥も外聞も捨てて、頼むことしかできない。
「お願いします……!一生のお願いです……!」
美咲は泣きながら懇願した。
長い、長い、永遠にも感じる沈黙。
やがて、エレナが動いた。
彼女はマジックバッグの中から、数本のポーションを取り出した。
さっき遥斗に使って、無駄に終わったのと同じもの。
エレナはそれを、黙って美咲に差し出した。
「え……?」
あまりの呆気なさに、美咲は思わず声を出した。
罵られると思っていた。
拒絶されると思っていた。
「……どうして……?」
問いかける美咲に、エレナは涙をこらえ、唇を震わせながら言った。
「遥斗くんなら……きっと……きっと、そうするから」
その一言に、美咲の胸がいっぱいになった。
涙腺が決壊し、視界が歪む。
遥斗なら。
あのお人好しで、優しくて、最後まで誰かのために戦った彼なら。
たとえ自分を殺した相手でも、目の前で死にそうになっていたら手を差し伸べるだろう。
エレナは、遥斗の意思を継いだのだ。
自分の憎しみよりも、遥斗が望むであろう「優しさ」を選んだのだ。
「っ……ありがとう……!ありがとうございます……!」
美咲は何度も頭を下げ、ポーションを抱きしめた。
そして、踵を返して走り出す。
心の中で、遥斗とエレナに何度も礼を言い、そして何度も謝罪を繰り返しながら。
(ごめんね遥斗君。ありがとうエレナさん。……必ず、この恩は返すから!)
美咲は千夏のもとへ滑り込む。
「千夏!これを!」
「美咲!!」
美咲は震える手で『最上級HP回復ポーション』の蓋を開け、涼介の胸の傷口へと一気に振りかけた。
スッ……!
眩い緑色の光が涼介の身体を包み込む。
ポーションの効果が発動した証だ。
「よかった……!」
美咲と千夏は同時に安堵のため息をついた。
これで助かる。
心臓も再生し、また元気な涼介の声が聞ける。
だが。
光が収束していくにつれ、二人の表情が凍り付いた。
「……え?」
傷が、塞がっていない。
肉が盛り上がることも、心臓が再生することもない。
ただ、ポーションの液体が血液と混ざり合い、虚しく流れ落ちていくだけ。
「な、なんで!?量が足りないの!?」
美咲はもう一本、ポーションを取り出し、浴びせかけた。
しかし、反応は同じだった。
緑の光は発するが、肉体には何の変化も起きない。
まるで、壊れた人形に水をかけているかのような無意味さ。
「なんでよ!?これ最上級なんでしょ!?まさかアイツら偽物を掴ませたんじゃ……!」
千夏がヒステリックに叫び、エレナの方を睨む。
美咲も一瞬、騙されたのかと思った。
だが、すぐに首を振る。
あんな顔をしていたエレナが、そんな卑劣なことをするとは到底思えない。
「じゃあ何でよ!どうして治らないのよぉ!!」
千夏が泣き叫ぶ。
その時。
「……無駄だろうな」
静かな、しかし威厳のある声が響いた。
アマテラスだ。
彼はいつの間にか二人の背後に立ち、冷静な目で状況を見下ろしていた。




