529話 白き翼、黒き翼
「……貴様」
涼介が口を開いた。
その声は低く、静かだったが、大気を震わせるほどの重圧を孕んでいた
地上で聞いていた美咲や千夏たちでさえ、その声を聞いただけで膝が折れ、ひれ伏しそうになる。
「誰の身体に傷を負わせたのか……わかっているのか?貴様の罪が理解できているのか?」
涼介の瞳から、親友に向ける温情は完全に消え失せていた。
彼が見ているのは遥斗ではない。
自分の所有物である「勇者の器」を傷つけた、不快な害虫を見ている目だ。
「……ッ」
遥斗は金縛りにあったように動けなかった。
涼介が炭化した左腕を掲げる。
すると、ボロボロと黒い炭が剥がれ落ち、その下から綺麗な肌が再生していく。
魔法による治癒ではない。
千夏の気功とも違う。
時間を巻き戻したかのような、あるいは「完全な状態」を上書きしたかのような、理外の力。
「俺を……この選ばれた身体を傷つけるなど、神に背く行為と知れ!」
涼介が両手を広げる。
再生した左腕は、以前よりも強く輝いているように見えた。
「ブレイブ・オーラ!!」
勇者のスキル『ブレイブオーラ』。
本来は、全身の魔力を限界を超えて放出し、身体能力を爆発的に底上げする強化スキルのはずだ。
これまで涼介が使用していた時は、電撃がスパークするように身体を覆っていた。
だが、今は違う。
バサァッ!!
涼介の背中から、巨大な「何か」が噴出した。
それは、純白の光で織りなされた、六対の翼。
天使の羽。
スパークする荒々しいオーラではなく、静謐で、清浄で、それでいて圧倒的な威圧感を放つ白き光が、涼介を包み込んでいく。
「……まさか……オーバーロード?」
地上で見ていたエーデルガッシュが呆然と呟く。
「いや、違う……もっと圧倒的な、上位の何かだ……」
それは、勇者というシステムが到達した、神に触れた領域。
人の形をした、絶対的な力の象徴。
「……だから……どうした……」
対する遥斗もまた、変化していた。
涼介の圧倒的な光に呼応するように、遥斗の『ドラゴンフォーム』が変質していく。
黄金だった鱗が、ドス黒く染まる。
全身を無数の黒い糸が覆い尽くし、筋肉を、骨格を、異形へと作り変えていく。
背中の翼がコウモリのように棘々しく広がり、頭部には禍々しい角が伸びる。
その姿は、黒きドラゴン。
いや、まるで地獄の底から這い上がってきた悪魔のようだった。
「オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”ッ!!」
「消え失せろ、理に背く反逆者ッ!!」
二つの力が宙を駆ける。
白き天使と、黒き悪魔。
二人がぶつかり合うたびに、空の力場が発生し、衝撃波が地上を揺らす。
剣戟の一合一合が、雷鳴のような轟音を撒き散らす。
もはや、人の戦いではない。
神話の戦いだ。
その凄まじい衝撃波で、エレナが目を覚ました。
「う……ん……」
「エレナ! 気が付いたか!」
エーデルガッシュが駆け寄る。
「ユーディ……?ここは……」
エレナはぼんやりとした視線を彷徨わせ、ハッとしたように身を起こした。
「遥斗くんは!? 遥斗くんはどうなったの!?」
自分の怪我などお構いなしに、真っ先に遥斗の心配をする。
エーデルガッシュは痛ましげに顔を歪め、無言で空を指さした。
エレナが息を呑む。
空中で激突する、光と闇。
その中心にいる黒い異形が、遥斗だと直感的に理解できた。
そして、その対極にいる圧倒的な光が勇者であることも。
「遥斗くんが勇者と……。どうして、こんなことに……」
エレナの問いに、這うようにして近づいてきたマーガスが答えた。
「……すまん。……ユグドラシルが……俺達の……力が及ばなかった」
マーガスの視線の先。
そこには、音を立てて崩れ落ちていく巨大な樹の残骸があった。
紫色の光の粒子となって崩壊していく世界の柱。
「あ……」
エレナは全てを悟った。
『暁』を、止められなかったのだ。
世界が終わる。
何より——遥斗は、母を守れなかったのだ。
「遥斗くん……」
遥斗の心を想うと、エレナの胸は張り裂けそうだった。
どれほど悔しいだろう。
どれほど悲しいだろう。
その絶望が、彼をあんな姿に変えてしまったのだ。
「助けなきゃ……私が、遥斗くんの力にならなきゃ……」
エレナは立ち上がろうとしたが、足がもつれて倒れ込んだ。
白虎は大破し、自身の体力も尽きかけている。
何より、あの上空で繰り広げられている神話級の戦いに、今の自分が割って入る隙間など、どこにもない。
届かない。
エレナは祈るように手を組んだ。
「お願いします……神様……遥斗くんを死なせないで……。どうかお願いします……無事でいて……!」
崩壊する世界の中で、少女の祈りは儚く響いた。
上空では、黒き竜が白き神に、最期まで食い下がる。
それは天に戦いを挑んだ堕天使のように。




