100話 巨獣の影
太陽が頭上から容赦なく照りつけるティラリス山脈近郊。両側を切り立った崖に挟まれた街道は、まるで巨人の斧で一刀両断に切り裂かれたかのような景観を作り出していた。
この狭隘な通路こそが、ドワーフの国とノヴァテラ連邦を繋ぐ唯一の生命線。
その地で、幾人かの人影が、何かを待ち構えるように佇んでいた。
陽炎が立ち昇る中、千夏が退屈そうに大きな欠伸をしながら、意図的に嫌味を込めた声を上げた。
「いったいいつまで一緒にいるんですかー?もう何日目?」
「父に皆さんの活躍を報告しないといけないんですよ。それに、こんな危険な場所に、うら若きお嬢様方を放っておくわけにはいきません」
デミットは相変わらずの穏やかな微笑みを浮かべ、優雅な仕草で答える。
アルマグラードの街を後にしてから既に10日。現地に到着して2日が経とうとしていたが、伝説の巨獣ミラージュリヴァイアスは、その姿を一向に見せる気配がなかった。
振り返れば、デミットは涼介たちが冒険者登録した翌日、既にティラリス山脈行の馬車を用意して彼らを待っていた。
まさか自身も同行するとは誰も予想していなかったが、簡易テントや上質な食料、さらには非常用の魔導具まで用意してくれていた。
その周到な準備は、明らかに単なる好意を超えた何かを感じさせた。
炎天下の中、美咲は額の汗を拭いながら、警戒を怠らない涼介に声をかけた。
「どう、何か変化あった?」
涼介は一瞬も街道から目を離さず、短く答える。
「ダメだな、特に何もない」
その声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「そもそもだ。こんな狭い街道に鯨が通れるのか?話がおかしいだろ。胡散臭いったらねぇな」
汗で濡れた鎧を軋ませながら、大輔は持論を展開する。
「でも、商人たちが襲われているのは事実なんでしょう?」美咲が首を傾げる。
「そうだな」大輔は顎に手を当てながら続ける。
「だが、もしかしたら全然違う何かかもしれねぇ」
「違う何かって?」
美咲の問いかけに、大輔は真剣な表情で答えた。
「話の辻褄が合わないんだよ。なんでいきなり幻のモンスターが暴れ出すんだ?」
彼は地面に腰を下ろしながら続ける。
「ゲームとかだとこういう時さ、盗賊団が噂を利用して暴れてたりするんだよな。実は人間の仕業って展開」
「ねえ、あれ何」
その時、さくらの静かな声が、小さく響いた。
るなの毛が逆立ち、小さな唸り声を上げる。
「なんだー?」大輔が目を細めて遠くを見る。その瞬間、全員の表情が凍りついた。
陸に巨大な魚、いや鯨、いやモンスター。
それは、まさしく伝説の巨獣、ミラージュリヴァイアスだった。
鯨を想起させる巨大な体躯は、白の鱗で覆われ、所々に深い青の模様が浮かび上がっている。小さいながらも四肢を持ち、頭部には一本の巨大な角が天を突くように聳え立っていた。体長100メートルという話は誇張どころか、過小評価かもしれない。その存在自体が、圧倒的な威圧感を放っていた。
巨獣は、まるで深海を悠々と泳ぐように街道を進んでいく。驚くべきことに、体の半分は地面に沈んでいた。しかしそれは地下に潜っている訳ではない。周囲の地面が液体のように変化し、四肢をヒレのように使って推進力を得ているのだ。さらに驚くべきことに、通過後の地面は完全に元通りになっている。
その動きは一見優雅に見えたが、実際の速度は常識を超えていた。小型タンカーのような巨体が、信じられないスピードで接近してくる。大地が震動し、空気が唸りを上げる。
「ファラウェイ・ブレイブ」のメンバーは、咄嗟に崖の上へと身を躍らせた。間一髪のところで轢死は免れたものの、彼らの直下をミラージュリヴァイアスが轟音と共に通過していく。地面が揺れ、耳をつんざくような風切り音が響き渡った。
「あ、あれは...無理じゃね?」
大輔の声が震えていた。冷や汗が額を伝い落ちる。
「そりゃみんな逃げかえってるって!あんなの倒せるわけないじゃん!」
千夏が呆れたように言うが、その声にも明らかな動揺が混じっていた。
しかし、その時——。
「フォトンスラッシュ!」
涼介の声が轟き渡った。彼の剣から放たれた光の斬撃が、閃光となって巨獣の背中を捉える。
白い鱗の表面に、かすかな傷跡が残された。ダメージは軽微に見えたが、ミラージュリヴァイアスの動きが止まった。
「バカ野郎!考えなしに撃つな!」
大輔の叫び声が響く中、涼介は既に次の攻撃を準備していた。彼の瞳には、すでにミラージュリヴァイアスしか映っていない。
「フォトンスラッシュ!」
第二の斬撃が、音速に近い速度で巨獣へと奔る。
放たれた光の斬撃は、まるで稲妻のように巨獣の鱗を傷つけた。
ぐおおおぉぉぉぉん!
轟音が谷間に響き渡り、その振動は内臓まで揺さぶるような激しさだった。
全員が反射的に耳を押さえる。その音は、単なる鳴き声ではなく、怒りと憎悪が混ざり合った咆哮だった。
ミラージュリヴァイアスは、その巨体を信じられないほど器用にくねらせ、狭い街道内で完全に向きを変えた。白い鱗が陽光に照らされ、まばゆい輝きを放つ。
体の大きさに不釣り合いな程小さな目で、涼介を睨みつける。その瞳には、明確な殺意が宿っていた。
巨獣が大きく口を開け、空気を吸い込み始める。その様子に大輔の表情が一変する。
「ヤバイぞ!俺の後ろに!ドラゴンズ・イージス!」
彼は盾に竜の力を込め、黄色に輝くオーラの壁を形成した。
その直後、ミラージュリヴァイアスの「ソニックロア」が炸裂する。膨大な魔力と一体化した咆哮が、破壊の衝撃となって襲いかかってきた。
「地の精霊よ!我が名に従いて顕現せよ!コントロール・オブ・ガイア!」
美咲の詠唱が響き渡る。地面が隆起し、巨大な岩のゴーレムが立ち上がった。それは大輔の前に立ちはだかり、衝撃波の盾となる。
「なっ」
しかし、岩のゴーレムは一瞬で粉々に粉砕された。そのまま衝撃波はドラゴンズ・イージスに直撃し、大輔との壮絶な力比べが始まる。
「ぐっっつあぁぁぁ、すまんもたねー」
大輔の声が絞り出されるように漏れる。額から大粒の汗が流れ落ち、歯を食いしばる。しかし、オーラの壁は粉々に砕け散った。
その瞬間、千夏が風のように飛び出した。
「振来覇!」
彼女の足が地面を強く打ち、その衝撃が体全体を駆け上がる。気の力と融合した振動は、両手から解き放たれ、弱まりつつあったソニックロアと激突。二つの力が相殺され、一瞬にして消滅した。
「い、今のは肝を冷やしましたね」
デミットは腰が抜けたように地面に座り込んでいた。その優雅な態度は、完全に消え失せていた。
しかし、涼介だけは違った。彼は仁王立ちのまま、ミラージュリヴァイアスと対峙している。その瞳には、恐れの色は微塵も見えない。むしろ、戦意の炎が燃え盛っていた。
山々に囲まれた狭い街道で、人と巨獣の一騎打ちが始まろうとしていた。