12.精霊の泉
次の日の朝、俺たちは急いで身支度を整え、森の回廊へ向かった。回廊の端でラヴァンは昨日と同じように歌い始めた。すると、森の空気がふわりと揺れ、シルフたちが姿を現す。
「また来たの?」「妖精猫」「妖精猫だって」「おかしいね」「おかしい」
「じゃかあしいわ、ワイに触んなや!」
ケトはシルフを嫌っているようだったが、シルフたちはケトに興味深々らしく、次々とちょっかいを出してくる。シルフたちに尻尾や耳を引っ張られて、飛びかかろうとするけれど、シルフたちはふわふわと簡単に逃げてしまう。
「妖精の癖に」「空も飛べないの」「飛べないの?」「黒い尻尾で飛べないの?」「変なの」
「精霊の泉に案内してくれ。長老衆には話を通してある」
ラヴァンはケトの騒ぎにも動じず、シルフたちに告げる。
「長老から聞いてる?」「聞いてるわ」「そうだったね」「そうだった」
「じゃあ案内するよ」
シルフたちは森の奥へ、ふわふわと移動を始めた。
「ついて来て」
シルフのあとを追って、俺たちは途切れた回廊の先へと歩き出した。
「こっちよ」「こっちこっち」「間違えないで」「間違ってないわよ」「手をつなぐ?」「つながないの?」
森の奥へ進むほど、空気は澄み、ざわめきが遠のいて、鈴の音のような水音が近づいて来た。
「着いたよ」
シルフのその一言とともに、目の前の景色がぱっと開けた。
気づけばシルフたちの姿はなく、残されたのは息をのむほど美しい景色だけだった。
精霊の泉の水面には一筋の波紋すらなく鏡のようだった。周囲の草花は季節を無視したように咲き誇っている。
泉の中央には、古い大樹の枝を編んで作られた東屋が浮かぶように建っていた。
その東屋の中にはひとりの女性が腰を下ろしていた。
髪は風に揺れ、泉の水がそのまま形を成したかのように透き通っていた。
彼女は虹色のトーガを纏い泉の水の光を受けて淡く輝いていた。
「あれが精霊王だ」
東屋の中の女性を見て、ラヴァンが言った。
「泉の周りにいるのは大精霊と精霊になる前のまだ形の定まらない精霊たちだ」
ラヴァンに言われて泉を見渡すと、数人の美しい女性が泉で水浴びをしていた。
彼女たちは大精霊と呼ばれる存在らしく、肌は淡く光を帯び、泉の水と同じ透明感を纏っている。その姿はあまりにも神々しく、俺は女性の裸を見ているという感覚にすらならなかった。
そして、そんな彼女たちの間を縫うように無数の小さな光が舞っていた。
蝶のような羽根を持ち、金色の粉を散らしながら飛び交うその姿は、まだ形を持たない幼い精霊たちなのだろう。水面に反射する光と、舞い散る金の粉が混ざり合い、泉全体が夢の中のように揺らめいて見えた。
ラヴァンは泉の中央へ伸びる橋を渡り始めた。
俺もその後に続く。
金色の粉を散しながら舞う精霊たちが興味深そうに俺たちの周りへ集まってくる。東屋の前まで進むとラヴァンは足を止めた。俺も並んで立ち、二人で精霊王の前に跪き、頭を垂れた。
「精霊王よ。この者のために泉の恵みを汲む許しを得たい」
「何のために泉の水を欲しますか?」
精霊王の声は優しい春の風のようだった。
「私の母の命を救うためです」
「泉の水は人には効きません。わかっていますか?」
「はい。それでも試してみたいのです」
俺たちの後ろでケットシーになって跪いていたケトが言った。
精霊王はしばらく俺たちを見つめ、それから穏やかに微笑んだ。
「わかりました。泉の水を分けて差し上げましょう」
俺は用意していた水瓶を鞄から取り出し、泉の端まで戻った。そっと膝をつき静かな水面へ水瓶を近づける。ゆっくりと傾けると、澄んだ泉の水が瓶の中へ流れ込んでいった。水瓶の中で泉の水が淡く煌めいた。俺は深く息を吐き、そっと立ち上がった。
泉を後にすると、ラヴァンが静かに頷いた。
「俺はもう少し残るよ。エミルもまだ心配だからな」
「そうか」
ここでラヴァンとはお別れか。
そう思った瞬間、胸の奥が急に寂しくなった。俺は帰るだけなのに、まるで自分だけが世界に取り残されたような気分になった。最後にラヴァンはケトをぎゅっと抱きしめ、思う存分モフモフしていた。ケトも「今日だけはしゃあないわ」という顔で、されるがままになっていた。ケトがようやくラヴァンから解放されて、俺の肩に戻ってくると、ラヴァンは名残惜しそうにその様子を見つめながら言った。
「フェアファングを使え、北方王国まではあっという間だ」
「え?……借りちまっていいのか?」
「ああ。フェアファングは自分で帰ってくるから心配するな」
「なんか……本当にいろいろありがとう」
「馬はそのうち取りに来い」
「いいよ。良かったらラヴァンが使ってくれ、道案内の礼の代わりだ」
ラヴァンは少しだけ目を細め、肩をすくめて笑った。
「まあ、しばらく預かっておいてやろう。気が向いたら取りに来い。お前が会いに来る楽しみを、少しは残しておきたいからな」
「わかった。必ず行くよ」
「ああ。気をつけて帰れ」
「……うん」
胸の奥の寂しさが、少しだけ温かくなった。
そして俺たちはフェアファングの背に乗った。山脈の麓にあるオルドの牧場までは、ドニエル湾を横目に見ながら森を進み、行きと同じように風を切って山脈を越えていく。夕陽が山の稜線を染め、冷たい風が頬をかすめる。腕に抱えた水瓶の重みが、行きとは違う勇気をくれた。街道を気にせず一直線にフェアファングは走る。国境のない深い森を抜け、正統王国を風のように横断し、やがて、見慣れた景色が少しずつ広がり始めた。
俺が生まれた国。まるで何十年も帰っていなかったかのように懐かしかった。たった数週間の旅なのに、何歳も歳をとったような気がした。それでもフェアファングの足取りは軽く、俺たちはまっすぐ家に向かった。そしてようやく、家の灯りが見える場所まで戻ってきた。
「フェアファング、ありがとう。気を付けて帰れよ。ああ、ラヴァンにも礼を言っておいてくれ」
俺はフェアファングの背から降り、首元をそっと撫でた。
「異界を通るから帰るのは一瞬だ。気を付ける必要はない。それから礼とは何を伝えればいい?」
フェアファングが真面目な声で言う。
「……『ありがとう』って伝えてくれればいいよ。とにかくフェアファングもありがとう」
「わかった。伝えよう。では戻る」
短い返事を残しフェアファングが身を翻した。その瞬間、もう姿は闇の中へと溶けていた。
「……レオン?」
家の玄関口から母さんの声がした。振り返ると、家の明かりを背に母さんが立っていた。
「母さん。待たせてごめん」
「レオン!」
母さんは俺に駆け寄り、そのまま強く抱きしめてくれた。
「か、母さん……」
最後に抱きしめられたのはいつだっただろう。忘れていた子供の頃の温もりが胸に広がり、照れ臭さが込み上げた。
「もうどこにも行かないから」
そっと母さんの肩を押す。
俺は持ってきた水瓶を庭に置いた。
「ほら、ちゃんと持って帰って来たよ。これできっと大丈夫だ」
そう言って、水瓶に近づき、蓋を開けると、妖精の森の匂いがふわっと立ちのぼった。
「アンナはん、泉の水飲んでみてくれへんか?」
ケトが神妙な面持ちで母に言った。
「ケトちゃん。ありがとう。レオンを守ってくれたのね」
「ワイは何もしてへん。レオンは立派にやり遂げたんや。せやから、早よ飲んでみてや」
「そうなのね。わかったわ」
母さんは水瓶の水を両手でそっと掬い、口元へ運んだ。
その瞬間、母さんの身体を淡い光がすうっと撫でていき、ゆっくりと胸元で渦を巻いた。そしてやがて静かに消えた。母さんは光の渦を眺めて微笑み、消えていくのを名残惜しそうに見つめていた。
「……どお? 母さん」
俺は母さんに声をかけた。
「気分がとても、良くなったわ。ありがとう。ケトちゃんとレオンのお陰ね」
母さんは俺たちを安心させるように笑った。精霊王の言ったように、人間には効かないかもしれないけれど、精霊の加護が母さんに与えられたような気がした。
けれど、精霊の泉の水のお陰か分からないが、その日を境に母さんはみるみる元気を取り戻していった。
俺を旅に出してよかったと、立派になったと母さんは褒めてくれた。
そして最後に、いつも優しい声で言った。
「レオンが幸せなら、母さんは幸せよ」
エルフと人だけではなく、人と人の間にもいつか必ず別れは来る。
それでも、そんなときはラヴァンの言葉を思い出そう。
一年泣き続けてもいい。それでもまた、きっと誰かを愛せるはずだと。
怖くて眠れない夜もあるけれど、今の俺はそう思えるようになった。
終
完結しました。ここまでお付き合いありがとうございました。
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