38 帰り道
古文の授業を終えて教室に戻った後も、月夜の問題が頭の中を渦巻いていたために授業に集中できず、結局、惰性で午後の時間を潰してしまった。
せめて授業中だけは忘れようと心掛けても、心中穏やかでなかった俺。
事あるごとに月夜の心配そうな顔を思い出す。その度に何とかしてやれないものかと悩み続け、気が付いたら放課後が訪れてしまっていたという間抜け振り。
しかも、それだけ考えても妙案が浮かんだこともなく、無為に時間を過ごしたという結果だけが、心に重く圧し掛かっていた。
しかし、悩んだ時間が全くの無駄という訳でもない。
俺のことを好きだと言ってくれた少女の為に、放課後の時間を使う決断ができただけよしとしよう。それが、俺の出来る微力ながらの手助け。
家に帰る帰路を少しばかり寄り道することなど、わけないことだ。
つまり何かというと――
「まさか、天馬がボクの下校に付き合ってくれるなんて……。やっぱり一人で抱え込まずに頼ってよかったよ。うん、やっぱりどの雲にも銀の裏地がついているものだね」
「一人で帰らせるのも危ないからな。誘拐や連れ去りは帰宅途中に発生することが多いらしいし、せめて家に付くまでは護衛……というか、お供として同伴するよ」
「ふふ。心配性だね。でもそこが天馬のいいところでもあるよ」
「またそうやって……」
歯の浮くような台詞にそっぽを向くと、向いた方向に回って来るので非常に鬱陶しい、また、非常にあざとい。視界に入り込んだ月夜の琥珀色で見つめられ、再び明後日の方向を向く。
――そう、俺の出した答えは、月夜の帰路に付き添うということ。
これだけでも、ストーカーに対する相当な予防策にはなるだろう。
少なくとも、月夜のストレスが僅かでも和らいでくれるなら、それだけでもやる甲斐はあると判断した。この程度、男の甲斐性を見せるなら安い物だろう。
そうやって、いつも帰路で見る街中とは違う風景と、いつもはいない同伴者との会話を楽しみつつ、月夜の借りているマンションへと急いでいた。
「……ところで、「どの雲にも銀の裏地がついている」ってどういう意味?」
「外国のことわざの一つだよ。どんな不幸にも何かしら良い面がある、という意味だよ」
「へー。博識だな。不幸中の幸いみたいなものか」
「うん、そう! ちょっとニュアンスは違うけどさ」
ちょっとした豆知識を披露する月夜。
その後もしょっちゅうこちらを振り返って、嬉しそうに話を振って来る。
あまりにも前方不注意なので、「前を見ないと危ないぞ」と注意しても、浮かれているのかあまり忠告の効果がない。
しょうがないので俺が月夜の目となって通行人や障害物に気を配る。――もちろん、月夜を見ている不審な影がないかもチェックする。
ここら辺はシャッターの閉まった店ばかりが並ぶ商店街のようで、まったく人気がなく、少々不気味な感じの場所だ。赤く輝く夕陽の光が建物の隙間から差し込んで、光と影のコントラストが幻想的な情景を生み出している。
なんだかノスタルジックな気分にさせられる不思議な場所だ。
……というか、この交差点。何処かで見た気が……?
「――そうか、ここって、あの時の」
脳裏に瞬く映像。それらが目の前の風景と合致する。迫り来るトラックと、表情の乏しい小麦色の少女。轢かれて潰れたアイスに、渡された花柄の傘。
あの時も、今日のように夕陽が綺麗な時間帯だった。
無意識の内に立ち止っていた俺。数歩先に進んでいた月夜も引き返してきて横に並ぶ。こちらの視線を目で追った月夜は「ああ、そういうことか」と呟く。
「そうだよ。天馬が前方不注意でトラックに轢かれそうになった場所。ボクの家はここら辺だから、あの時は偶然にも会えたのだと思う」
「え? もう自宅に近いのか?」
「目と鼻の先。ここから歩いて5分。そこの曲がり角を進んでしばらくのところ」
道路の反対側を指さす月夜。目的地はすぐそこらしい。
「そっかそっか。ここが月夜と初めて会った場所か。……最近の事なのに、なぜか懐かしい気分になるよ。そういや、あの時はもっと愛想のない感じの冷たい態度だったよな。今は見るたびにニコニコしているけど」
「あはは……。それを指摘されるのは恥ずかしいかも。あの頃はまだ思い出せていない時期だったからなー……」
月夜は頭に手をやって恥ずかしそうに視線を逸らす。
そのまま歩き出したために、俺も付いていって一緒に交差点を渡る。
「まだ思い出せてない時期、って、どういう意味だ?」
「ん―。それは……核心を突く質問だね。答えてもいいのだけど、さてどうしよっかなー」
言葉を濁した曖昧な返事。声の端々から隠し事の気配が漂う。
ミステリアスな雰囲気を漂わせて思わせぶりな台詞を吐く。追及するといつもこうしてはぐらかされる。月夜のあまり褒められない癖だ。
俺は聞かれたくないと思っていることは聞かない主義なので、しつこく追求することはなかったのだが、流石に誤魔化されるのも煩わしくなってきた。
せっかく二人っきりという状況。少し踏み込んでみるか。強く嫌がるなら話題を変えてもいいしな。物は試しだ。
「隠すと余計気になるだろ。教えてくれよ。誰にも言わないから」
「……天馬がそこまで言うなら、うん、いいよ。ボクのプライベートな話をしてあげてもいい」
「え? いいのか!?」
ダメ元の追及が意外にもすんなり通り、拍子抜けする俺に対して月夜は「ただし……」と言ってニヤリと笑う。
髪の隙間から覗いた片方の目が、猛禽のように俺を捉える。
「暑い中で話すもなんだし、話を聞きたいならボクの部屋に上がっていきなよ。喉乾いたでしょ? それに、お腹もすいてない? ジュースやお菓子をあげるよ?」
「月夜の、自室……に。……」
女子の部屋という未知の空間に、ごくりと喉が鳴る。
考えてみれば、同年代の異性の部屋に入ったことは一度もない。
鹿目と付き合っているのだから、一度くらい家に招かれてもいいものだが、何故か鹿目は自分の家に俺が行くのを嫌がり、結局のところ、鹿目の家が何処にあるのかすらもよくわかってない状態。
――つまり、女子の部屋とは、未だに俺にとっての未開拓のフロンティアなのだ。
月夜の自室……、き、気になる……!
カーペットやカーテンは一色で統一されていたり、ファンシーな家具とかあるのだろうか? ベッド派か布団派かも気になる……、ぬいぐるみとかもあるのか?
――そして何より、女子の部屋とは本当に甘い香りがするのかどうか、興味がある。あれは都市伝説かどうか確かめたいと思っていたところ。ちなみに天音の部屋からはほとんど何も感じなかった。まあ、妹だし。当然と言えば当然だが。
ここは是非とも招かれたい。男子高校生にってそこは聖地の一つなのだ。もちろん、この炎天下の中を歩いてきたのだから喉はカラカラだし、月夜のプライベートな話が気になるというのもあるが……。
「でもな……」
頭をよぎるのは鹿目のこと。
月夜とは女友達という関係(少なくとも今は)だが、家にお呼ばれするのは世間一般的に見ても、恋人持ちがやっていいことではない。鹿目に知られたら怒られたり悲しまれたりするのは確実。
何より、俺自身の罪悪感を割り切ることができるかどうか。
葛藤が胸の内を渦巻き、顎に手を当てて「うーん……」と唸る俺。
そうこうしているうちに、月夜が住んでいるらしいマンションが見えてくる。
古臭い商店街が合って、人気のない閑静な地区にしては、やけに真新しくて立派な5階建てマンション。周りの建物よりも背が一つ抜きんでて高く、非常に目立ってわかりやすい。
前を歩いていた月夜が振り返る。
「どうするの?」
「………………じ、じゃあ、お邪魔しようかな」
誘惑に負けた俺は溜息をついて、降参の白旗を上げた。
やっぱりさ。チャンスがあるなら、一度くらいは……いいよな?