奈緒 6
彼は東洋電機社長来生周平の次男として来生家に生まれた。そのころの日本は、高度経済成長期半ばだったが、まだまだ一般家庭の暮らしは質素だった。
自家用車を持っている家などほとんどない中で、彼の家には週に二回、ピアノの家庭教師がやってきた。
彼は三才の時からピアノを始めたが、その上達ぶりは、家庭教師が『自分よりももっと優秀な先生につけて習わせた方が良い』と言うほどのものだったらしい。
家に客が来ると、彼は決まって演奏を披露する場を与えられ、その度に客は感嘆の声をあげた。
その時の父親と母親の誇らしげな顔を見ると、彼はいつも『この次はもっと難しい曲を弾いてみせよう』と思うのだった。
彼の父は、貧しい家庭に生まれ育ったが、苦学をして大学に進み、そこで東洋電機社長の一人娘である彼の母、良枝と知り合った。
その後、彼の父は婿として来生家に入り、東洋電機を継いだ。良枝は人の良い夫を愛したが、次第に教養の浅い夫を軽蔑するようになり、我が子の教育に関しては全て彼女が取り仕切るようになった。
良家の娘として育ち、音楽にも長けた良枝は彼の才能を見出し、彼を溺愛した。
近所の子どもたちの多くが公立の保育園に通う中、彼は私立の幼稚園にスクールバスで通った。
クラスは一組から十二組まであり、一組から四組が年長、五組から八組までが年中、九組から十二組までが年小というふうに分かれていた。
子どもたちにとってこの「クラスの順位」は絶対的なもので一組はその頂点に君臨していた。
大人が考えれば一組も四組も同学年で違いはないのだが、子どもの世界では、四組の子は決して一組から三組の子に逆らうことなどできなかった。
幼稚園の屋上には飛行機の形をしたジャングルジムがあり、操縦席の位置には一人掛けの椅子が備え付けられていて、そこに座ると取り付けてある自動車のハンドルをクルクルと回すことができた。
男の子にとってタクシーやバスの運転士のようにハンドルを回すことができるこの操縦席は憧れの的で、そこにはいつも順番を待つ子どもたちの長い列ができていた。
そしてその日、彼は屋上の長い列の中にいた。
(果たして休み時間中に自分の順番はまわってくるだろうか)
そう思いながらも、彼は、操縦席の子がハンドルを回す様子を、早く飽きないものかと思いつつじっと眺めていた。
そしてやっとのことで自分の順番がまわってきたときには、もう休み時間が終わる寸前だった。
彼が急いで操縦席に座ろうとすると、誰かが横から割り込んできた。
「僕の番だぞ」
彼がそう言うとその子は、
「お前何組だよ。オレ一組だぞ」
と言い放った。
彼は呆然とした。
三組の彼にとってこれ以上決定的な言葉はなかった。
どう考えても勝ち目はない。
しかしあきらめるにはあまりにも惜しかった。
今まで待ったのだ。
しかも時間がない。
始業のチャイムは今にも鳴るかもしれない。
ここで譲ればもう自分の番はやってこないだろう。
彼はついに意を決し、横から入ってきた子を押しやって自分が座ろうとした。
「何するんだよ!」
押された子は彼の腕をつかみ、強く叩いた。
彼は痛さの余り泣き出したが、彼を叩いた子は平然と操縦席に座りハンドルを回した。
そしてしばらくするとチャイムが鳴り、みんな泣きじゃくる彼をおいて教室へと走っていってしまった。
彼は一人そこに立ちつくした。
腕の痛みは徐々に消えていったが、涙は一向に止まらない。
彼は涙を拭くことも忘れてただひたすら泣いた。
何も悪いことをしていない自分がなぜこのような目にあわなければならないのか。
彼の脳はその思考以外のすべての行為を停止させていた。
スクールバスが家の近くの停留所に着き、彼がバスから降りていくと、良枝はすぐに何かがあったのだと気づいた。
帰る道すがら彼から事情を聴いた良枝は、表情を険しくすると、すぐに彼をタクシーに乗せて幼稚園に向かった。
そして職員室に入ると良枝はただ、
「園長先生にお話があります」
と近くにいた職員に告げた。
尋常でない良枝の表情を見て、その職員は訳も聞かず、二人を応接室へ通した。
園長が入ってくると、良枝は挨拶もせずに、
「とにかくこれを見てください」
と彼の腕をとり、園長の目の前に突き出した。
「このあざを見て下さい」
そう言って、良枝は彼から聞いた事実を園長に告げた。
「誰がやったか覚えてる?」
園長が彼に聞くと、良枝は即座に、
「名前はわからないそうです。でも、一組ということはわかっていますし、顔も覚えていますから、明日、私と晃を一組につれていって下さい。この子に指を指させますので」
と言った。
良枝の有無も言わせぬ剣幕には、園長も抗いようがなかった。
翌日、彼は、母と園長と共に一組の教室に入った。
「さあ、どの子なの?いたら指を指すのよ」
良枝の指示通り、彼は机と机の間をゆっくりと歩き、一人一人の顔を確かめた。
しばらく進むと顔をそむけている子がいる。
彼はその子の前で足を止め、指を指した。
「あなたね、昨日この子の腕を叩いたの!」
良枝の厳しい声がしんとした教室に響き渡った。
その子は何も言えずうつむいていたが、園長の「いらっしゃい」と言う声に促され、席を立って教室を出た。
園長室で、「本当に君がやったのね」と優しく園長が問いかけると、その子は泣きながらうなずき、「ごめんなさい」と謝った。
この時、彼は母の強さを思い知ると同時に、『今後自分はどんな理不尽なことにも屈する必要はないのだ』と深く心に刻み込んだ。




