奈緒 5
私は、咲ちゃんがろうそくを吹き消そうとしたとき、ドアを開けた。
三人でケーキを食べた後、咲ちゃんがインコのヒナに餌をあげたいと言い出し、彼と私はまるで赤ん坊の飲むミルクを作るときのように、粟玉を浸す湯の温度に注意を払った。
私たち三人と一羽のヒナは、満腹と安らぎとぬくもりを与えられ、それぞれにつかの間の幸福を手に入れた。
私が咲ちゃんを寝かしつけてリビングへ戻ると、彼はレコードをプレーヤーからケースに戻しているところだった。
「ねえ来生さん、約束覚えてる?」
「約束?」
「やっぱり忘れてるんだ。昨日約束したじゃない。私のいうこと聞いてくれるって」
「ああ、いや、忘れていたわけじゃない」
彼は平静を装うようにしてそう言った。
「それで、それは僕にできることだろうか?」
「うん。すごく簡単。今、来生さんがレコードをしまったところの奥にお酒の瓶があるでしょう?それね、お父さんが大事にしまっているやつなの。昔一人で飲んでるとこ見ちゃったんだ。それさ、こっそり飲んでみない?」
私がそういうと、彼はレコードを片手でつかめるだけ引き抜き、奥にある一本のボトルを取り出して、ラベルに見入っていた。
「君はこの酒がどんな酒か知っているのか?」
「よくわからないけど、ウイスキーでしょ。飲んでみたい。おいしいのかな」
「うまいに決まっている。それは飲む前からわかっていることだ」
「飲んだことあるの?」
「ない」
「なかったらわからないじゃない」
「いや、なくてもわかるさ。聞いたことがある。スコッチのシングルモルトのヴィンテージものだ」
「スコッチ?何それ?」
「スコットランドで作ったウイスキーのことをスコッチという。しかしこの酒はもう作られていない。蒸留所が閉鎖になったんだ」
「ふーん。詳しいんだね。とにかく飲んでみようよ」
「いや、これはきっと園長が何かいいことがあった時だけに飲む特別な酒だろう。だからやめておいた方がいい」
「だめだよ、約束なんだから。それに来生さんは飲みたくないの?」
「飲みたくないといえば嘘になる」
「じゃあ、いいじゃない。だって来生さん、ボランティアで働いているんでしょう?それくらいしたってばちはあたらないよ」
彼の心の中で、理性と欲望が戦っているのはすぐにわかった。そして、私の一言は、彼の理性に大きな打撃を与えたようだった。
「わかった。じゃあ一杯だけ頂くことにしよう」
私はキッチンへ行き、グラスと水と氷を持ってきた。
「君はこの酒で水割りを作ろうとしているのか?」
「うん。何で?」
「君は何もわかっていない。これはそうやって飲む酒じゃない」
そういって彼は私のグラスと自分のグラスに少量のウイスキーを注いだ。
「このまま飲むの?」
「ああ」
私はおそるおそるグラスに口を近づけた。
「うわっ、何これ。くさい。お腹痛い時にのむ薬みたい」
私のことばには耳も貸さず、彼はグラスに鼻を近づけて匂いを楽しみ、その後、ほんのわずかに琥珀色の液体を口に含んだ。
彼は恍惚とした表情でしばらくその余韻に浸っていた。
「しかたない。君の分は僕が飲もう。君はビールでも飲んでいなさい」
「本当は自分が全部飲みたいんでしょう?」
私はそういいながら冷蔵庫から缶ビールを取り出し、タブを開けた。
「来生さん、咲ちゃんすごく喜んでたよ。来生さんのプレゼント。来生さん知ってたの?」
「何を?」
「知らなかったんだ。前にね、うちにセキセイインコいたの。もう死んじゃったけど。寒い冬の日でね。もう止まり木に止まっていられなくなっちゃって下でふくらんでたんだ。それを見て咲ちゃんが、きっと寒いんだろうって、ふところに抱いてずっと一緒にいてあげたの。眠るときも。そしたら元気になってちゃんと止まれるようになったんだよ。さえずるようにもなったし。みんなびっくりしてた。奇跡だって。でもね、きっともう寿命だったんだよ。それから何日かしたら朝死んじゃってたの。咲ちゃんすごくがっかりしてね、ずっと泣いてた。そのインコも黄色いインコだったんだ。だから咲ちゃん、その子が生まれ変わったんだって、さっきそう言ってた。おじさんが連れてきてくれたって」
私がそう言うと、彼は急に黙りこんでしまった。
きっと、インコを失ったときの咲ちゃんの気持ちを考えていたのだろう。
私の声によって再び正常に動き出すことを思い出すまで、彼の周囲の時間は、自分の仕事を忘れてしまったかのように静止していた。
「でもさ、来生さんて謎だよね。だって、だいたい四十過ぎた男の人がこんなところで住み込みでボランティアしてるなんてあり得ない」
私は、その場に不釣り合いな明るさでそう言った。
「それをいうなら君も謎だ。君のような女性が同時に二人の男と付き合うなどあり得ない」
まさかそんなことを、その場で彼から言われるとは思ってもいなかった。
「何でそんなこと言うの?」
「日によって君を送ってくる車が違う」
「見てたの?」
「見ていたわけじゃない。偶然目に入ってしまったんだ」
「君のような女性が、ってどういう意味?」
「君は二人の男を手玉に取るようなタイプじゃない」
「来生さん、私のことなんか何も知らないじゃない。それなのにどうしてそんなことが言えるの?」
「わからない。ただ君を見てそう感じるだけだ。何か根拠があるわけじゃない」
なぜ腹が立たないのか不思議だった。
きっと、彼が何も取り繕おうとしなかったからだろう。
だからこそ、彼の言葉は不思議なほど私の心にすんなりと入ってきたのだ。
「二股なんてかけていないよ。付き合った時期がずれているだけ。先に付き合ったのは同じ病院で働いている人。真面目だしすごく優しい。だけど地味でお金もない。でももうその人とは付き合っていないの。遅くなった時に時々車で送ってもらってるだけ。もう一人の人はピアニスト。前に耳の不自由な子どもたちにも音楽の楽しさを知ってもらおうっていうイベントがあってね、その時に知り合ったの。結城恭一っていう人。知ってる?」
結城さんは、その時、世界から注目され始めた新進気鋭のピアニストだった。
彼は、CDの発売だけでなくボランティア活動などにも積極的で、テレビや雑誌への露出度も大きかった。
「ああ、テレビで見たことがある。優秀なピアニストだ」
「今ね、その人と付き合っているの。乗っている車も連れて行ってくれるお店も何もかも私が今まで生きてきた世界とは違う世界に住んでいる人」
「そして彼は君をそっちの世界へ連れて行ってくれる」
私は彼の目を見てうなずいた。
「君が好きになるのは相手の魂そのものではなく、その人間に付随する地位や名誉や金もひっくるめた集合体という訳だ」
「そんなの当たり前でしょう。仕事とか社会的な力とかそういうのもその人の魅力の一部じゃない。それを切り離して男の人を好きになることなんてできないよ」
「別にそれが悪いと言っている訳じゃない。ただ魂そのものだけを好きになる人間もいる。だが事実から判断すればどうやら君はそういう人間ではないらしい」
つまりその時、彼は、私のことを、金目当てに男を選ぶような女だと言ったのだ。
突きつめて考えればそうなのかもしれないが、彼から言われると、何かたまらない気持ちになった。
「だったら教えて。どうしたら幸せになれる?私が相手を心から愛したら相手も私を心から愛してくれる?人の気持ちや魂みたいな目に見えないものに自分の人生かけて大丈夫なの?だって人は最後には自分の娘だって捨てちゃうんだよ。私捨てられたもん。お母さんのこと大好きだったのに。捨てられた。お母さん、私より男の人との生活をとったの。私邪魔だったんだよ・・・存在が・・・迷惑・・・」
たたみかけるようにそこまで言うとその先はもう声にならなかった。
私は彼に泣き顔を見られたくなくて、ずっと下を向いていた。
目からぽたぽたと落ちる涙に蛍光灯の光が反射して時々きらっと光った。
「僕に幸せを語る資格はない。自分自身が幸せをつかめなかったのに、人に語れる訳がない」
彼がそう言うと、私は席を立ってキッチンのタオルで顔を拭い、ケーキの入れてあった箱からろうそくを拾った。
そして食器棚から小さな皿を一枚取り出し、ろうそくに火をつけると、皿にろうを数滴たらしてそこにろうそくを立てた。
私は部屋の灯りを消すと、再び彼の前に座ってその皿をテーブルのまん中に置いた。
「こうすればひどい顔見られずに済むでしょう。ろうそく火って綺麗だね。さっき来生さんと咲ちゃん、ろうそくの灯りの中で踊っていたでしょう。すごく綺麗だった。見とれちゃった。感動して知らないうちに涙がいっぱい出てた。ねえ来生さん、私にもいつか子どもができたら、私はその子をいっぱい愛せるかな?男の人よりその子を大切に思うことできるかな?」
私の中で男を愛するということは、無意識のうちにタブー化されていたのかもしれない。
本気で男を愛する悦びを知れば、いつか自分も母親と同じ過ちを繰り返すのではないか。
母親の血を受け継いだ自分は母親と同じように子どもより男を選んでしまうのではないか。
私が知らぬ間にそういう強迫観念にとりつかれているとしたら、男に対する愛などというものは最初から持たない方がいいと考えるようになるのも自然なことかもしれない。
「夫への愛と子どもへの愛は比べるべきものじゃない。そしてそのどちらか一方を選択しなければならないということもない。母親と父親が愛し合っていて、その両親に愛されている子どもたちがいて、それが一つの家族になる。君はなぜそれを望まない?君だったら普通に手に入れられることだ」
「だって、私はお母さんの子だもん。血は争えないよ。それに小さい頃愛情をかけてもらえずに育った子は、大人になっても人をうまく愛せないっていうし。でも来生さんこそどうして今一人でいるの?来生さんみたいに優しい人がどうして奥さんと別れることになっちゃったの?娘さんもいたんでしょう?」
思い切って私がそう聞くと、彼はしばらく黙っていたが、その後、ぼそっと言った。
私は、今でもその時の彼の声が忘れられない。
「僕の心には悪魔が棲んでいる」
「悪魔?どういう意味?」
「傲慢な専制君主のような悪魔がここにいるんだ」
そう言って彼は自分の胸を人差し指で指した。
「来生さんが傲慢っていうこと?」
「人と対立した時に譲るということができない」
「そんな風には見えないけど。それが原因で別れちゃったの?」
「その性格が原因で、小さい頃、僕にはずっと友達ができなかった。みんなから嫌われていた。しかし、それがわかっていながら僕にはその悪魔を追い払うことができなかった。どうしてもできなかったんだ。だがある時、神がやってきて自分の心に潜む悪魔と対峙する機会を与えてくれた。つまり、僕は、リセットボタンを手に入れた」
「リセットボタン?どいうこと?わからない」
「君にそれを理解させるには僕の幼い頃の話をしなければならない」
「話して。聞きたい」
彼は、少し俯いたまま、ゆっくりと語り始めた。




