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山中の海  作者: 林 藤守
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泣き石(3)

 

 

 

「そういえば泣き石の事、あんたに言ったかしら」

 珈琲を三杯も飲みほしてから、まり子は言う。三時を過ぎた頃だというのに、その顔は未だに眠気を帯びている。目の下には青い隈がうっすらと浮かび、彼女の持つアンニュイな雰囲気を助長している。千尋さんが嘆くわけだ。僕が首を横に振ると、彼女はふうん、と一瞥してからまた大きな欠伸をした。

「なら今日の運転手さんに教えてあげましょう。室町の頃から伝わる、泣き石伝説を」




 泣き石伝説、まり子が語るところによるとそれは鎌倉の頃にいた四人の家族の物語らしい。彼らは津軽の国からやってきて、函館から少し離れた漁村に住みついたという。


 親子のうち、母と二人の娘は器量も気立ても良く、父は逞しい漁師であった。彼らは村人の気付かぬうちに、村の端のあばら家に住みついていた。家族を連れて移ってくるということは、何処かから追い出されたのだろう。娘や母に仄かな気品が感じられるところをみると、没落した名家のなれの果てだろうか。父は村人の知らない漁法の他、古今東西の教養を身に着けていた。彼は移り住んでくる前もずっと漁師をやっていたと自称していたがその漁はどこかたどたどしかった。漁を生業としていた者のそれには、見えなかった。



 なぜこんな辺鄙な村に住みついたのか、村人たちは当初彼らに奇異の目を向けた。挨拶すら返さずにその横を素通りすることもあったし、毎年開く夏の祭りにも彼らを招きはしなかった。

 

 家族も除け者にされることに悩んだのだろう。古い時代のことである。村八分の様な扱われ方をしていたのでは生きていくのは難しい。彼らは村人たちに効率の良い漁法を教え、荒れる川の鎮め方なども伝授した。持てる知識は全て伝え村の発展に真摯に尽くしたという。その結果、村人たちは徐々に心を許すようになった。小さい村であるため男手が増えるのが喜ばしいというのもあったらしい。五年も経つ頃には彼らは村の一員として認められるようになった。



 しかしある日、ぱたりと魚が取れなくなる。時化ているわけでもなく、いつもと変わらぬ海であるにもかかわらずだ。魚は急にその姿を見せなくなった。それは半年ほど続いた。村人たちは海草や保存していた乾物で飢えを凌いでいたが、耐え忍ぶ彼らの願いも海には届かず、ついには村の蓄えも底を尽いてしまった。残るはお上に献上する塩ばかりである。漁師たちはこれを海神の怒りだとして村の中央の神社に集まり、談合を開いた。その中でこんな話が出る。

 

 ――海峡の対岸の、津軽の国ではどうなのか。魚は獲れているのか。獲れているのだとすれば、理由はわからないが、魚は根こそぎそちらに流れていってしまったのだろう。獲れていないのだとすれば、彼らか我らのどちらかが、知らぬ間に海神様の怒りに触れるようなことをしてしまったのかもしれない。

 

 その村は津軽の国とそう遠くなかった。快晴の日には対岸の村々がうっすらと見える程近しい距離であった。彼らは村長の息子の他に、村の男衆の中でも津軽に縁のある者を数人選び向かわせた。その中には当然、先述の家族の父もいた。

 

  

 男衆が出立してから七日が経った。津軽とはどんなに多く見積もっても、往復にして三日の距離である。七日もかかるはずがない。途中で転覆してしまったのかもしれない。そんな噂が広まり、村人たちはやはり海神の怒りであった、向かわせるべきでは無かったと嘆いた。稼ぎ手たちを失ったとこれからの生活に悲観し子の首を絞めた者までいた。あの家族の女たちもまた、大いに悲しんだ。


 その八日後のことである。大きな船が函館の港に着いた。掲げられていたのは檜扇に鷲の羽、つまり蝦夷代官の安藤氏の家紋であった。

 

 

 彼らはとあるものを晒すためにやってきた。それは出立した男衆の首である。それらを乱暴に船から下ろすと、首の下から脳天までを槍に刺し高々と掲げた。腐敗しているにもかかわらず男衆の首は苦悶に満ちていた。彼らはその首を、蝦夷大乱において幕府直属の安藤家に弓引いた罪人達だといった。その中でも、あの家族の父の首は一際高く掲げられていた。彼らはこの首は、移り住んだ家族の父は、大乱の首謀者の親族であると語った。

 

 

 それを見た村人たちは激怒した。そしてまたその火の粉が降りかかることを恐れ、すぐにあばら家に押し入った。怒り狂う村人に、その怒りの理由も知らぬ母と娘らは怯えた。彼らは彼女らを口汚く罵り、殴りつけて、犯した。また犯した後に爪を剥ぎ、鼻と耳を削ぎ落とした。あばら家は火をつけて燃やされ、彼女らは山へと追いやられた。

 

 

 今も昔も山には羆が棲んでいる。近代における開拓の際に多くは狩られてしまったが、当時の山々にはまだ多くの羆がいた。彼女らは怯えながら三日三晩山を歩くも、駒ケ岳の麓にある岩のところで羆に見つかり喰われてしまった。数日の後、村人たちは彼女らの残骸を見つけ、大いに喜んだ。彼らは岩の前で細切れになった娘らの躯を更に切り刻み、大きな釘で打ち付けて山神への供物とした。また母の躯は棒に差して幕府へ献上した。それをもって村の潔白の証としたのである。

 

 

 ある日、一人の村人が馬を使って娘らの躯を打ち付けた岩の横を通った。通り過ぎてから彼は不思議なことに気付く。あの岩にこびりついていた肉片どころか、血痕までもが消え失せていたのだ。いくら雨風が洗い流そうとも、数日しか経たぬというのに、岩に染み込んだ血の跡が消えるということがあるのだろうか。

 踵を返して戻って見てみるとやはりそこにはまっさらな岩があった。娘らが喰われる前と変わらぬ出で立ちで堂々と岩は坐していた。表面には濃い萌葱色の苔が茂っている。この岩ではなかったのだろうか、彼は訝しむ。ただ打ち付けた釘がオナモミのように残っているのを見て確かにこの岩だと思い直した。彼はそれを山神が余さず供物として持ち帰ったのだと考え、手を合わせた。目を瞑って数秒ほど立つと彼はとある異変を感じた。血の臭いが濃く立ち込め始めたのだ。手負いの獣がいるのだろうか、不審に思っていると気味の悪い鳥のような声が石の上から聞こえた。

 

 驚き目を開くと岩の上に娘が二人立っているのが見えた。生気無く村人を見下ろしてはいるが、その目は血走り、憎しみがありありと見てとれた。村人はひっと呻き声をあげ腰を抜かしてへたり込んだ。それを喜んでか、娘らは獣の様な声でぎゃあぎゃあと鳴いた。嗄れた喉から、血を吐きながら。それは呪詛のような、怨嗟に満ちた声であった。彼女らに呼応するように鳥が鳴き、山犬がそれに続いた。周りの木々はその身を揺らした。まるで山の全てが鳴いているかのように四方から獣の声が響いた。


 娘らは村人に近付いてくる。村人は逃げようとするも、その足は動かない。抵抗しようにもその腕は上がらず、息の様な叫びが喉から漏れるばかりであった。そうするうちに娘たちは村人の前に立つ。一人は爪の無い手で首を絞めた。もう一人はそれを見て一際大きく鳴いた。彼女らの顔には生前の気品など映っていなかった。口元だけでにたにたと笑みを浮かべたかと思うと、血走る目は更に赤く染まり、どっと血涙が溢れ出た。血と共に流れるように耳や鼻は腐り落ちていく。首を絞めている娘が鳴いたとき、口中にはまた別の女の顔が見えた。娘らの母であった。それと目が合った時、彼の意識は暗溶した。

  

  

 随分と気を失っていたのだろう。村人が目を覚ますと陽はその身を山々に沈めようとしているところであった。あれは夢だったのか、自分の持つ罪悪感が生んだ幻だったのか。絞められた首元を触れるとちりちりと痛む。近くの沼に身を映すと首には赤黒い指の痕が残っていた。彼は馬に飛び乗り、村に戻るやいなや先ほどの出来事を皆に伝えた。

  

  

 その夜のことであった。村人たちは山から聞こえる二つの声で目を覚ました。ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ、と山を震わせるように鳴いている。聞こえてくるのはあの岩の方角である。それはゆっくりと村の方へ近付いてくる。しばらくして村に入ると、家々を覗き込むようにしながら大きく鳴いた。それが終わると、あのあばら家の辺りで朝が来るまで鳴き続けたという。

 

 彼女らの襲来が三日ほど続くと、村人の多くは気狂いになり、狐に憑かれたようになった。また女達は皆耳と鼻がひどく腫れて腐り落ちた。声は村のほとんどが死に絶えるまで続いた。生き残ったのは数人の子供だけであった。しばらくして娘らの噂は近隣にも広まる。後世になって娘らを打ちつけた岩はこう呼ばれるようになった――泣き石、と。

 

 

 

「でもね、あたし思うのよ。本当に家族の父は落人だったのかしら」 

 まり子はぽつりと呟いた。カーテンの隙間から、紅く陽が漏れている。その輪郭は風と共に揺らぐように蠢いていた。

「落人だったのなら、絶対に家族もそれを知っているはずなのよ」

 僕は、答えない。

「あの時代に生きる人の気持ちなんて想像もつかないけど――」

 ふと風が吹く度に聞こえていた風鈴の音が聞こえない事に気付く。蝉の声もどこか遠いような気すらする。窓の外に誰かが立っている。そんな妄念が僕の頭をよぎる。



「――納得できる理由がありながら、人って心から他人を恨めるものなのかしらね?」 

 まり子はちろりと横目で窓を見て、視線を戻した。一瞬だけ笑みを浮かべたかと思うと、ベッドからゆっくりと起き上がる。

「もし会えたなら聞いてみたいわ。何を思って化けて出たんでしょう、ね」

 蝉の声が一際大きく聞こえたかと思うと、それは一斉に鳴き止んだ。僕は思わず窓に目をやるが、まり子はそんなことは気にもせず、猫のように体を伸ばした。

「とりあえずあたしお風呂入ってくるから。時間もあるし、眠っておきたいならこのベッドで寝てもいいわよ」

 本の山を器用に避けながら彼女はドアまで歩いていく。僕は入れ替わるようにベッドに寝転んだ。

「ああ、それと」

 ドアノブに手をかけながら彼女は言う。



「変なことしたら、承知しないから」 

 大きく風が部屋の中を吹き抜けた。彼女はドアを閉め、一階へと降りて行った。しばらくしてから風鈴が寂しげに鳴る。蝉の声はだんだんと戻ってきた。僕は布団を被って顔も知らない親子のことを、想った。



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