第2話 速さと順番
消えた地名を集めている、あのまとめアカウント。その持ち主を、志賀はまだ、姓でしか知らなかった。
芹沢。いつか画面の隅で読んだ、その二文字だけ。下の名も、年も、素性も知らない。淡々と事実を並べる手つきだけが、記憶に残っていた。志賀はスマホで、そのアカウントの過去の投稿を遡っていた。消えた地名を集める、まとめアカウントだった。
柳瀬。宮前南三丁目。橋本町。
志賀の知っている地名が、そこに並んでいた。手書きの地名と正式地名が食い違う場所。投稿主はそれを一つずつ拾い集めていた。写真を添え、日付を添え、短い一文を添えて。誰かに訴えるのではなかった。ただ記録していた。志賀が整合室でやっていることと、逆向きの手つきで。
志賀はそのアカウントに連絡を取ることにした。
迷いはあった。私的な喪失を、赤の他人と共有する。志賀の性分ではなかった。だが、一人ではもう確かめきれなかった。壁の白さ。錆の半年。番地の欠け。志賀の記憶だけが、時間の合わないものを覚えていた。同じものを覚えている人間が、他にもいる。このアカウントの主は、その一人かもしれなかった。
志賀は短い文を送った。
志賀と申します。市の統合記録整合室で、記録の突き合わせをしている者です。あなたの集めた地名の、いくつかを、私も歩いた。話を聞かせてもらえないか。
返事は、その日の夜に来た。
会う場所に指定されたのは、駅前のチェーンのカフェだった。
志賀は約束の時刻より早く着いた。奥の席に一人、若い人物が座っていた。ノートパソコンを開いている。画面を覗き込むように、前かがみで何かを打ち込んでいた。志賀が近づくと、その人物は顔を上げた。
「志賀さん、ですか」
志賀はうなずいた。相手は立ち上がりかけてやめ、向かいの席を手で示した。
「芹沢です。芹沢つぐみ」
志賀は腰を下ろした。
芹沢つぐみは、思っていたよりずっと若かった。二十代の前半に見えた。淡々と事実を並べる手つき、という志賀の記憶とは、違った。目が忙しかった。志賀の顔を見て、パソコンの画面を見て、また志賀を見た。会えたことが嬉しくてたまらない、という顔だった。
「あの、いきなりで、すみません」芹沢は早口だった。「連絡もらったとき、正直びっくりして。あのアカウント、ほとんど反応ないんです。地名が消えたとか、番地が飛んでるとか、そういうの、みんな勘違いか、地図の更新ミスだって思うんで。だから、歩いた、って書いてくれた人、初めてで。しかも、整合室の人。記録を直す側の人が、歩いたって」
「歩いた」志賀は言った。「柳瀬を。宮前南三丁目、と台帳が呼ぶ、あの川沿いを」
芹沢の指が止まった。
芹沢は志賀を見た。それまでの、嬉しそうな目とは違う、確かめる目だった。
「柳瀬、って言いましたね」芹沢は言った。「今。正式地名じゃなくて。柳瀬、って」
「そう呼ばれていた、と聞いた。地図にその名でラベルを打とうとすると、補正されて戻る」
「戻ります」芹沢は身を乗り出した。「打っても打っても戻る。あたし、何回もやりました。柳瀬って打って、保存して、次に見たら、宮前南三丁目に戻ってて。ミスじゃないんです。あれ、意志があるみたいに戻す。志賀さんも、やったんですね。同じこと」
志賀はうなずいた。
芹沢の顔に、安堵と興奮が同時に浮かんだ。自分の見ているものを、同じように見ている人間が、目の前にいる。その事実が芹沢を早口にさせていた。志賀にはその気持ちが少しわかった。言う相手がいなかった。志賀もずっと、そうだった。
「見てほしいものが、あるんです」
芹沢はパソコンの画面を、志賀の方へ向けた。
地図が表示されていた。市街地の地図。その上に、点がいくつも打ってあった。赤い点。青い点。色が分かれていた。芹沢はその点を指で指した。
「消えた地名とか、飛んだ番地とか、あたしが集めたやつ、全部この地図に打ってあるんです」芹沢は言った。「赤が、もう完全に消えたやつ。地図からも台帳からも消えて、正式地名に上書きされたやつ。青が、まだ途中のやつ。手書きの記録には残ってるけど、公式にはもう別の名前になってる。柳瀬は青です。現地にまだ、店とか住人がいるから」
志賀はその地図を見た。
赤と青の点が、市街に散っていた。数えると、二十を超えていた。志賀の緑の冊子の十六地点とは、重ならないものもあった。芹沢は志賀とは別のところから、別の手段で、同じ空白を集めていた。
「志賀さん」芹沢は画面を指でなぞった。「あたし、ずっと一つ、わからないことがあって。ずっと考えてるんですけど、答えが出なくて」
「なんだ」
「なんで、消えるものと消えないものが、あるんですか」
芹沢は志賀を見た。
素朴な問いだった。理屈で飾られていなかった。芹沢は集めた点を前にして、その、一番根本のところで詰まっていた。なぜ柳瀬は消えて、その隣の町は消えないのか。なぜ六番は飛んで、五番と七番は残るのか。
「わからない。俺も、それはわからない」
「ですよね」芹沢は笑った。「誰も、わからない。でも、あたし、思うんですけど、これ、ランダムじゃないんです。適当に消えてるわけじゃない。何か順番があるんです。それがわかれば」
芹沢はそこで言葉を切った。
それがわかれば。その先を芹沢は言わなかった。だが、志賀にはわかった。それがわかれば、次に何が消えるか、わかる。消える前に気づける。あるいは。芹沢の集めた点の中に、芹沢の消したくないものが、あるのかもしれなかった。
「時系列に並べられるか。消えた順に」
「並べられます」芹沢はキーを叩いた。「投稿した日付、全部記録してあるんで。あたしが気づいた日と、消えた日はずれるけど、それでも大体の順番は」
芹沢の指が動いた。
画面の点が色を変えた。消えた順に、番号が振られていく。芹沢はそれを時刻順に並べ直していた。志賀はその作業を見ていた。整合室で、志賀が版と版を時系列に並べるのと、同じ手つきだった。芹沢は独学で、それを覚えていた。
「並びました」芹沢は言った。「これ、消えた順。上から、古い順に」
志賀はその並びを見た。
最初に志賀の目についたのは、時間の幅だった。同じ日に、まとめて消えたのではなかった。一つ目の地名が公式から消えてから、二つ目が消えるまで、間があった。数週間。ものによっては、数ヶ月。消失は一斉ではなかった。ばらばらの時刻に、一つずつ起きていた。
「間が、ある。一つ消えてから、次が消えるまで」
「あ、それ、あたしも気になってて」芹沢はうなずいた。「一気に消せばいいのに。なんで一つずつ、時間を置くのか。しかも、消え方が遅いのもあるんです。公式の記録には、もう名前が消えてるのに、現地の看板は、まだ古い名前のままで、しばらく残ってたり」
志賀の指が、テーブルの上で止まった。
遅い。消え方に速さの違いがある。志賀は柳瀬の壁を思い出した。あの冊子は、冊子というより、現地調査用の野帳だった。野帳は薄茶と書いていた。だが現地の壁は白かった。塗装の一番下まで白かった。書き換えは、野帳の記述より後から、時間をかけて追いついてきた。
「書き換えは」志賀はゆっくり言った。「一度に全部を直せないのかもしれない」
「え」
「記録も、看板も、地図も、人の記憶も。全部を同時に揃えるのは、手間がかかる。だから一つずつ、時間差で直していく。まず公式の記録。次に地図。そして現地。順に追いついていく。だから消え方に遅れが出る」
芹沢は志賀を見つめた。
それから、勢いよくパソコンに向き直った。何かを確かめるように、投稿の日付を繰っていく。
「合ってます」芹沢は早口になった。「合ってる。ほら、この地名、公式の地図から消えたのが三月なのに、現地のバス停の表示が直ったの、七月なんです。四ヶ月遅れてる。書き換えに時間差がある、って、そういうことなら、全部説明がつく」
志賀はその画面を見た。
志賀が八年、記録の食い違いを扱ってきて、初めて、その向こう側の手つきが見えた気がした。食い違いは、書き換えがまだ追いついていない、遅れの隙間だった。
「もう一つ、あるんです」芹沢は言った。「順番の話。消えるものと消えないものの」
芹沢は地図を拡大した。
赤い点の密集している一帯と、点が一つもない一帯があった。芹沢は点のない一帯を、指で囲った。
「ここ、駅前の再開発地区なんですけど」芹沢は言った。「大きい商業ビルとか、チェーン店とか、市役所の出張所とか、そういうのが集まってる。ここ、一個も消えてないんです。一個も。地名も、番地も、店の名前も、全部そのまま。揺れない」
芹沢は次に、赤い点の密集した一帯を指した。
「で、こっちが古い住宅街とか、川沿いとか。個人の店。昔からの、小さい番地。ここばっかり消える。柳瀬もこっち。消えるのはいつも、こっち側なんです。大きいものは消えない。小さいもの、個人のものから先に消える」
志賀はその、二つの一帯を見比べた。大きいものは消えない。小さいものから消える。志賀は東環状を思い出した。崩落は消えた。八ヶ月の照合も消えた。だが、事故の日付は変わらなかった。同じ日に事故があった、という大枠は残り、中身だけが崩落から接触事故へ書き換えられた。
「大きいものは揺れない、ということか」
「揺れないです」芹沢は即答した。「大きいものは、どこの記録を見ても、ぴったり揃ってる。逆に、揃いすぎてて気持ち悪いくらい。でも、個人の店の開店した日とか、小さい橋の名前とか。そういうのは、ぐずぐず。すぐ食い違う。すぐ消える」
志賀はテーブルの上で、指を組んだ。
揃いすぎている。芹沢のその言葉が、志賀の中で引っかかった。大きなものほど、記録がぴったり揃う。異様なほど揃う。個人のものほど、ぐずぐずと食い違い、消えていく。まるで、大きなものには動かせない、錨のような固定点があって、それに近いものほど守られ、遠いものほど無防備に消されていく。
「順番が、ある。大きいものが先で、個人のものが後だ。守る順番が。書き換えるとき、大きいものは動かさずに、まず個人のものから動かす」
「載る駒と、載らない駒、みたいな」芹沢が言った。
志賀は芹沢を見た。
芹沢は、自分でもうまく言えた、という顔をしていた。載る駒と、載らない駒。将棋か何かの、たとえのつもりらしかった。芹沢は続けた。
「盤の上で、大事な駒は守られるじゃないですか。王とか。でも、歩とか、端の駒は、簡単に切られる。あれと同じ。大きいものは、盤の大事な駒だから守られる。個人のものは、端の駒だから、先に切られる」
志賀はその、たとえを口の中で転がした。
芹沢は素人の言葉で、志賀が八年かけても言語化できなかったものの輪郭を掴んでいた。志賀は芹沢の、その問う目を、少し頼もしく思った。
「隣の人が、心配で」
芹沢が不意に、そう言った。
志賀は顔を上げた。芹沢は地図を、また動かしていた。ある一点を拡大していた。青い点だった。まだ消えていない、途中の点。
「あたしのアパートの隣に、記録館があるんです」芹沢は言った。「記録館、っていうか、個人でやってる、小さい資料館みたいな。おじいさんが一人でやってて。その町の、昔の写真とか、古い地図とか、方言の聞き書きとか、祭りの記録とか。そういうのを集めて、保存してる。郷土の記録の、管理人みたいな人」
志賀はその青い点を見た。
「その人の投稿が」芹沢は声を少し落とした。「最近、変で。その人、たまにネットに、館の紹介とか上げるんです。今日は、こんな古地図が寄贈されました、とか。この町の、この祭りは、もうやってません、とか。あたし、その投稿、全部追ってて。それが」
芹沢は投稿の履歴を繰った。
「一ヶ月くらい前から、投稿してた、いくつかの地名が、公式の地図から消え始めてるんです。その人が記録として上げた、古い地名。それが、青から赤に変わりかけてる。まだ館はあります。おじいさんもいます。でも、その人が守ってる記録の周りから、消え始めてる」
志賀はその青い点を、見つめた。
消え始めの兆候。志賀はそれを柳瀬で見ていた。まず記録が食い違い、次に地図が直り、最後に現地が追いつく。芹沢の隣人の、記録館の周りで、それが始まっていた。まだ青い。だが、青は赤へ向かう色だった。個人の、小さな、郷土の記録。守られる順番の、一番端。載らない駒。
「あの人の集めてる記録って」芹沢は言った。「全部、消えるものばっかりなんです。個人の店。昔の地名。やらなくなった祭り。守る順番の、一番下のものばっかり。それを一人で集めて、守ってる。でも、集めれば集めるほど、その周りから消えていくみたいで」
芹沢の声に、初めて影が差した。
嬉しそうな早口とは違う声だった。芹沢はこの人を心配していた。集めた点の地図の、どこか一点に、芹沢の消したくないものがあるのかもしれない、と志賀はさっき思った。それがこれだった。芹沢は隣人が消え始めているのを見ていた。見ていることしかできずにいた。
志賀はカフェを出て、駅まで芹沢と並んで歩いた。
夜の駅前だった。再開発地区の大きなビルが、明るく灯っていた。芹沢が、揺れない、と言った一帯だった。その灯りは確かに、揺らがなかった。ぴったり揃った、大きな看板の光。志賀はそれを見上げた。
「志賀さん」芹沢が言った。「また連絡して、いいですか。何かわかったら」
「ああ。俺も、わかったら伝える」
芹沢はうなずいて、改札の方へ歩いていった。途中で一度、振り返って、小さく頭を下げた。それから、人の流れに消えた。志賀はその場に立っていた。
志賀は芹沢と話しながら、規則の端を二つ掴んだ。だが、規則が見えたところで、消えていくものは消えていく。記録館の周りは、もう青から赤へ向かっていた。
志賀は帰りの電車で、スマホを開いた。
文字起こしの欄。途切れた一行。帰ったら、ちゃんと——。その脇の、小さな目盛り。志賀はそれを確かめた。まだ動いていた。ゼロではない。志賀はその目盛りを見ながら、芹沢の言ったたとえを思い出していた。載る駒と、載らない駒。
部屋に着いて、志賀は机にスマホを置いた。
緑の野帳を開いた。座標の列。芹沢の地図の、赤い点と青い点。志賀はそれを頭の中で重ねていた。芹沢が集めたものと、この野帳が控えたもの。二つは別々のところから、同じ空白を指していた。消える順番。守る順番。志賀はその順番の、一番下を考えていた。
守られる順番の、一番下。
守られる順番を下へ下へと辿っていくと、その一番下には何があるのか。
志賀はスマホの文字起こしを見た。
登録のない番号。四十二分の通話。誰の声かもわからない、一行。この声の主は、公式の記録のどこにもいなかった。番号は、基盤にも、電話帳にも、割当表にもない。志賀の部屋は、最初から一人分だった。世界の側に、この人を届け出る欄はなかった。守られる順番の、大きなものから個人のものへ、下へ辿って、その一番下の、一番端。載る駒ですらない。盤に、そもそも載っていない。
志賀はその一行を見つめて、低く呟いた。
「載る駒か、載らない駒か」
言ってから、志賀はその先を続けようとした。この人は載らない駒だ、と。盤に載ってすらいない。だから消しても、痕跡が残らない。だから——。志賀の思考がそこまで行きかけた、そのときだった。
スマホの、文字起こし欄の、脇で。
声がした。
「ちがう」
志賀の指から、力が抜けた。
スマホの応答欄ではなかった。ダッシュから始まる、あの道具の文字でもなかった。文字起こしの、脇。無音のはずの、あの一行のあった場所から。ごく短い一語が聞こえた。ちがう、と。壁の前で聞いた、あの一語だった。志賀の耳の奥で鳴ったのか、部屋に鳴ったのか、わからなかった。だが、確かに聞こえた。
志賀はスマホを見た。
文字起こし欄は、いつも通りだった。帰ったら、ちゃんと——。途切れた一行があるだけだった。だが、脇の小さな目盛りが、さっきより、ほんのわずかに動いていた。ちがう、という一語の分だけ。
志賀はその一語を聞き返した。
ちがう。志賀の、載る駒か、載らない駒か、という言葉への返事だった。志賀は続きを待った。だが、続きはなかった。声はそれきり黙り、無音に戻った。
志賀は消える順番の一番下に、この人を置こうとした。その瞬間に、この人は、ちがう、と言った。
盤に載らない場所から、たった一語が返ってきた。
「ちがう」
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