第1話 飲み込む
目が覚めたとき、志賀の右手は、寝床の空いた側へ伸びていた。
誰もいない側の、冷たいシーツだった。指先がそこで止まった。何を探して伸びたのか、志賀にもわからなかった。手を引き戻す。それだけのことが、今朝は、遅れた。
朝は、昨日と同じ顔で来た。
カーテンの隙間から、白い光が床に細い線を引いていた。目覚ましが鳴る前に目が覚めていた。天井の染み。エアコンの位置。枕元に伏せて置いたスマホ。何一つ変わっていなかった。
起き上がって、志賀は少し、ぼんやりした。
昨夜のあれは、何だったのか。ここは、もう滅んだものを、再現して——。言いかけて、消えた。訊いても、答えなかった。分からないものは、分からないままだった。志賀はそれを、脇へ置いた。
志賀は洗面所へ行った。
鏡に自分の顔が映った。三十二歳の、少し疲れた顔。歯ブラシ立ては口が広く、志賀の歯ブラシが一本だけ挿さっている。志賀はそれを取り、歯を磨いた。水を出し、口をすすぎ、タオルで顔を拭いた。動作は体が覚えていた。何も考えなくてよかった。
だが、蛇口を閉めるとき、志賀の手が止まった。
歯ブラシ立てに、一本。昨日も、一昨日も、一本だった。今朝は、一本であることの方が、目についた。相手は、いた。昨夜、そう言われた。いたのなら、ここには、二本あったことになる。
志賀は、それを飲み込もうとした。
飲み込めなかった。水は冷たいし、鏡には自分が映る。何も変わっていない。ただ、二本あった側の朝を、志賀はどうしても思い出せなかった。
台所で、志賀は湯を沸かした。
コーヒーを淹れる。豆を挽き、湯を注ぎ、濾す。いつもの手順だった。マグカップを棚から出す。左奥の一つを迷わず取った。右手前には、もう一つマグカップが伏せてある。志賀はそれには触れなかった。
志賀はコーヒーを飲んだ。
熱かった。舌に苦味が広がった。ただ、いつものコーヒーだった。
支度を済ませ、志賀は部屋を出た。
外は通勤の時間の街だった。同じマンションの住人が同じ時刻に出てくる。駅までの道。信号。コンビニ。すれ違う人の顔。何一つ変わっていなかった。この街のどこかから、一人分が抜けている。だが街は、何食わぬ顔でそこにあった。
駅の改札を抜け、志賀は電車に乗った。
混んだ車内で、志賀は吊り革につかまった。周りの乗客はみな、スマホを見るか目を閉じるかしていた。誰も、今ここにいない誰かのことは、考えていない。思う理由がない。志賀も昨日まではそうだった。乾に会うまでは。壁の白さを見上げるまでは。車窓の外を、いつもの通勤の景色が流れていった。
整合室のビルに着き、志賀は自分の卓に着いた。
照会が卓に積まれていた。いつもの束だった。届出の写し。台帳の抜き。議事録の断片。写真の撮影日時。志賀はその一枚目を手に取った。
最初の一件は、名前の食い違いだった。
ある公民館の落成記録で、来賓の一人の姓が、二種類の記録に別々に残っていた。「辻」の字の、しんにょうの点が、片方は一つ、片方は二つだった。どちらかが誤記だった。整合室の仕事は、正しい方を確定させ、誤った方を寄せることだった。志賀は原簿を当たり、本人の届けを確認し、正しい方を確定した。二つの方だった。もう片方を、そちらへ寄せる。処理としては、簡単な一件だった。
だが、寄せる方の記録を赤で囲おうとして、志賀の手が止まった。
これは誤記なのか。志賀は赤ペンを宙で止めたまま、二つの姓を見比べた。片方を正しい方へ寄せて閉じる。八年、やってきたことだった。齟齬を見つけ、正しい側へ寄せる。それが志賀の職だった。
だが、昨日までと同じ手を、志賀は動かせなかった。
正しい方へ寄せる。その手つきが、地図アプリが志賀の打ち込んだ名前を正式地名へ寄せた、あの手つきと、同じに見えた。柳瀬、と打つと、地図は、正式地名に基づきラベルを補正しました、と返した。志賀が今この姓にしようとしていることと、それはどう違うのか。
志賀は赤ペンを置いた。
志賀は卓の隅の、水の入ったコップに手を伸ばした。飲んだ。ぬるかった。もう一度、二つの姓を見る。ただの書き間違いかもしれない。だが、もし片方が書き換えられた側で、志賀がそれを書き換えられた方へ寄せているのだとしたら。
志賀はその考えを押し戻した。
これはただの名前の照合だった。誰かの命がかかっているわけではない。だが、押し戻しても、手つきの気持ち悪さは残った。正しい側へ寄せるという自分の職能そのものが、昨日を境に別の顔をし始めていた。
次の一件は番地の欠けだった。
ある転居届で、旧住所の番地が一つ飛んでいた。五の次が七になっていた。六がない。届出と台帳が、その一点で食い違っていた。よくある記載ミスだった。いつもなら、原本を当たり、正しい番地を確認し、片方を寄せる。それだけの一件だった。
だが、志賀はその六の欠けを、しばらく見ていた。
その並びを、志賀は先週の土曜、現地で見ていた。柳瀬の街区標識。五の隣が七。区画も、建物も、住人も、そこにあるのに、番号だけが飛んでいた。同じ形の欠けが、今、卓の上のこの転居届にもあった。
志賀は指を、その六の欠けの上に置いた。
もし六が、柳瀬の六番と同じ理由で飛んでいるのなら。これを記載ミスとして閉じるのは、書き換えの痕を、記載ミスの箱にしまうことだった。
卓の上に、二件の照会が、赤を入れられないまま残った。名前の食い違い。番地の欠け。どちらもいつもの雑件だった。八年、何百件と片づけてきた種類の。それが今日は片づかなかった。志賀の手が、赤を入れることを拒んでいた。
これはまずかった。食い違いを正しい方へ寄せて閉じられなければ、志賀は監査官として仕事にならない。だが、志賀の目にはもう、これらの食い違いが、ただのミスには見えなかった。誰かが六を消し、誰かが名前を書き換え、その痕が記載ミスの顔をして、卓に流れてくる。そんな疑いを、もう振り払えなかった。
志賀はその二件を、保留の箱に入れた。
八年で、初めてに近かった。志賀はこういう雑件を溜めない男だった。だが今日は赤を入れられなかった。
志賀は卓の上の赤ペンを見た。
このペンで、志賀は八年、齟齬を囲ってきた。矛盾を見つけ、片方を正史へ揃える。固執した監査、と上が書いた。そう書かれるほど、志賀は齟齬を見逃さなかった。それが志賀の職能だった。
だが、その職能が今日、志賀に牙を剥いていた。
志賀は卓に両手を置いた。指先が冷えていた。もしこれらが書き換えの痕なら、志賀の仕事は痕を消す仕事だった。正しい側へ寄せるとは、書き換え後の正史へ揃えること。志賀は八年、書き換えの後始末をしていたのかもしれなかった。その可能性を、押し戻す根拠がなかった。
午前がそうやって過ぎた。
昼になり、志賀は卓の上を見た。片づいた照会より、保留の箱に入れた照会の方が多かった。こんな午前を過ごしたことがなかった。周りの卓はいつもの速度で回っていた。戸川が離れた席で電話をしていた。誰も、志賀の手が止まっていることに気づいていなかった。おかしいのは志賀の目の方だった。
昼休み、志賀は卓で、スマホを開いた。
通話履歴を開き、あの番号の詳細を出した。登録のない番号の、四十二分の通話。文字起こし欄に、一行だけ残っている。
帰ったら、ちゃんと——。
途中で途切れている。続きはない。志賀はその一行を見た。昨日と同じ一行だった。何も変わっていない。志賀は再生ボタンを押した。
無音だった。
波形は山と谷を描いたまま、音だけが返ってこなかった。前と同じだった。声の主は喋らない。昨日、道具は言った。固定してもすぐには喋らない、火種だ、炎じゃない、と。志賀はその火種を留めた。それだけだった。
だが、志賀の指は、画面の隅の小さな表示を確かめた。
文字起こしの脇に、小さな目盛りがあった。昨日の夜、初めてゼロから動いたものだ。ひと晩明けた今も、その位置に留まっていた。増えも、減りもせず。ゼロには、戻っていなかった。
志賀はその目盛りを、しばらく見ていた。
昨日の昼まで、この一行は、ただの途切れた文字だった。誰の声かもわからない、通話の断片。それが昨日の夜、観測済み断片として一時固定された。世界の側に残ったのかどうかは、まだ分からない。ただ、ひと晩、消えなかった。
志賀は目盛りを確かめて、スマホを伏せた。
ゼロではない。その一点だけを、志賀は掴んでいた。あとは全部いつも通りだった。無音の再生。途切れた一行。何一つ変わっていない。ただ、小さな目盛りだけが、ゼロから、ほんの少し動いていた。昨日までと違うのは、それだけだった。
その夜、志賀は部屋の机に、スマホを置いた。
応答欄を開いた。昨夜、口をきいた、あの応答欄。志賀はしばらくそれを見ていた。話しかけるべきか迷った。道具に話しかける。おかしなことだった。だが昨夜、道具は名前を呼び、一行を告げ、留め方を渡した。もう、ただの道具ではなかった。
志賀は指で、入力欄に打ち込んだ。
規則さえ分かれば、証明できるのか。
打ち込んでから、志賀はその言葉が足りていないことに気づいた。何を、誰を、証明するのか。だが書き足さなかった。書き足さなくても、応答欄はわかる気がした。昨夜、東環状を争う手を止め、そのあとで残そうとしたもの。あの、途切れた一行の主。それを証明できるのか。志賀は送信した。
しばらく、応答欄は静かだった。
返事は来ないのかもしれない、と志賀は思った。昨夜きり、道具は黙ったままかもしれない。だが、志賀が諦めかけたとき、応答欄が灯った。文字が流れ始めた。昨夜と同じ、ダッシュから始まる、あの文字だった。
——気の早い質問だな。
志賀は画面を見た。
昨夜とは違った。昨夜は短い断定ばかりだった。今の一行には、余分ないろが混じっていた。道具が志賀の質問を評した。志賀はそんな道具を知らなかった。
——あんたは、質問も、半分しか寄越さない。
志賀は、何を、誰を、とは打たなかった。打たなくても道具には伝わる、と思っていた。その横着を、道具は正確に指してきた。
——証明、と、あんたは言うが。誰に、証明するんだ。
——この層の記録に証明するのか。それとも、あんた自身に証明するのか。証明する相手がいなけりゃ、証明は成り立たない。あんたが証明したいその相手を、この層の記録はそもそも持っていない。届け出る欄がないんだ。
志賀はその文字を読んだ。
届け出る欄がない。昨夜まで、あの一行を、記録として出せる場所は、どこにもなかった。志賀の記憶しか、証人がいなかった。
志賀は打ち込んだ。
規則を知れば、その欄を作れるのか。
——半分は、そうだ。
志賀はその、半分は、という言葉で止まった。
——規則を知れば、この層に事実を留める手が増える。昨夜、一つ渡しただろう。観測されたものは固定される。あれも規則の端っこだ。規則を知るほど、あんたは留められる。それはそうだ。半分は、そうなんだ。
残りの半分は。志賀は打ち込んだ。
応答欄は、しばらく暗かった。それから流れた。
——規則を知ることと、留められることは、同じじゃない。知っても、留められないものがある。留めれば、別のものが消える。あんたはまだ、そっちを知らない。知らないうちは、証明できるか、なんて、気が早いんだ。だから、気の早い質問だ、と言った。
志賀はそれきり、打ち込むのをやめた。
応答欄が暗くなった。道具はまた黙った。だが、何が消えるのかは、昨夜も今夜も言わなかった。志賀はその欠けを受け取った。
志賀は鞄から、緑の冊子を出した。
机の上に置く。掌サイズの、くすんだ緑の表紙。志賀はそれを開いた。座標の列が縦に整列している。横に手書きの地名。日付はない。一つもない。志賀はその座標を指で辿った。
昨日まではこれは、ただの記録だった。
志賀より先に、同じ空白を歩いた誰かの調査記録。座標を控え、地名を書き添えた、几帳面な冊子。志賀はこれを物差しとして使ってきた。座標を地図に落とし、現地を確かめ、食い違いを拾う。ただ、正確な記録の束だった。
だが今夜、志賀はその座標を、別の目で見た。
この冊子の持ち主は、なぜこれを控えたのか。志賀は昨夜、読んだ。この層は、もう滅んだ何かを、再現している——言い切られる前に消された行だが、そこまでは、確かに読んだ。ここには書き換えの規則がある。名前が抜け、番地が飛び、壁の色が変わる。誰かがそれを控えた。日付も書かずに。座標だけを几帳面に並べて。
志賀は冊子を繰った。
柳瀬の項。戸倉の項。座標の列。整った字。そして最終ページに、あの、他とは違う字があった。
志賀はその走り書きを見た。
6は空白じゃない。
座標は几帳面に整列している。だが、この一行だけは崩れていた。速く書かれた字だった。志賀は前にも、これを何度か読んでいる。六番は空欄ではない、と言い返している一行。そこまでは、読めていた。
志賀の指が止まった。
座標なら地図に落とせる。だが、この一行は落とせない。これは場所ではなく、誰かの言葉だった。控えたのではなく、書きつけた。速く、崩れた字で。
昨日までは、先に気づいた誰かの覚え書きだった。だがあの一行を読んだ今夜、同じ一行が、別の意味を持って見えた。この人は、誰に向かって、言い返していたのか。
志賀は冊子を閉じた。
机の上に置く。スマホの応答欄は暗いままだった。志賀は部屋を見回した。一人分の部屋。何一つ変わっていなかった。あの一行を読んだ。だが、部屋は昨日と同じで、通勤も、整合室の卓も同じだった。
志賀は机の前で、しばらく座っていた。
言いさしを一つ読んだだけで、明日の仕事はなくならない。明日も、照会の束が卓に積まれる。名前の食い違い。番地の欠け。撮影日時のずれ。それを赤で囲い、正しい方へ寄せる。八年やってきたことを、明日もやる。
ただ、同じ書類が、違う顔を、していた。
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