第5話 静かな敬語
記録館は思っていたより小さかった。
志賀は日暮れ前に着いた。芹沢の隣人が一人でやっている郷土の資料館だった。川から一区画入った古い商店街の外れにある。褪せた看板の奥で白熱灯が暗く灯っていた。木の格子戸はまだ閉まっていない。志賀はその前で足を止めた。
芹沢が横に並んだ。
「ここです」芹沢は言った。「この、おじいさんの店。集めてるのはこの中の資料室ぜんぶ。祭りの写真とか昔の地名の控えとか、方言の録音まであるって」
早口だったが声は落としていた。
「集めれば集めるほどその周りから消えていくみたいで、って前に言いましたよね。あれこの店のことなんです。おじいさん自身はまだ気づいてない。自分の集めたものが消え始めてることに」
志賀はうなずいた。
乾も来るはずだった。昨夜、志賀が店の名と時刻だけを送り、承知、と二文字だけが返っていた。三人でこの店の記録の重さを測る。どこへずらせるか。緑の野帳と、乾の地図帳の写真と、芹沢の集めた地図。三つを重ねて消える対象の逃がし先を選ぶ。今日は下見のつもりだった。等価物の候補をいくつか拾って、次に乾と突き合わせる。それだけの、静かな夜になるはずだった。
志賀は格子戸の隙間から中を覗いた。狭い土間の奥に古い棚が並んでいた。色の褪せた祭りの写真が壁に貼ってある。神輿を担ぐ人の列。露店の並び。だが写真の下の説明書きの札は、いくつか空欄のまま貼られていた。祭りの名を書く欄が白い。まだ書かれていないのではなかった。書いてあったものが、抜けていた。芹沢の言う通りだった。集めた本人が気づかないうちに、集めたものの名の方が、先に薄くなっていた。
志賀は喉が乾いた。
整合室で毎日見てきたものと同じだった。台帳の欄が飛ぶ。番地が抜ける。だが今日のこれは、志賀が正しい方へ確定させる仕事ではなかった。この記録館の来歴を、そっくり別の何かへ逃がして、消える波から外す。志賀はそのために来ていた。初めて、消される側を、庇うために。
だが先客がいた。
格子戸の脇に男が一人立っていた。
志賀は最初、店の関係者かと思った。だが違った。男は店を見ていなかった。店の前の路地の一点を見ていた。ちょうど志賀がこれから座標を測ろうとしていた、その一点を。
男は志賀に気づくと静かに顔を向けた。
銀縁の眼鏡をかけていた。細身で姿勢がよかった。年の頃は志賀より上に見えた。地味な色のコートを着て手ぶらだった。志賀を見て、それから芹沢を見て、また志賀に視線を戻す。そして微笑んだ。
「こんばんは」
静かな声だった。
「お仕事の途中でしたか。すみません、こんなところに立っていて」
志賀は答えなかった。芹沢が一歩、志賀の前に出た。
「どちらさまですか」芹沢は言った。早口の温度が尖っていた。
男は芹沢を見て、また微笑んだ。責める色のない微笑だった。むしろ芹沢の警戒を当然のこととして受け止めているような表情だった。
「怪しい者じゃありません」男は言った。「といっても、そう言う人ほど怪しいものですけど」
少し首を傾ける。
「私もこの辺りを見て回っているんです。あなた方とたぶん、同じものを」
同じもの。男はそう言った。この辺りを見て回っている。志賀と同じものを。志賀はこの男が何を指したのかを測ろうとした。だが男の顔には探る色がなかった。試す色も隠す色もない。ただ事実を言っただけ、という顔だった。
「同じもの、とは」志賀は言った。
男はゆっくり格子戸の方を見た。
「消えかけているもの」男は言った。「あの店が集めているものが、周りから少しずつ薄くなっている。あなた方もそれを見ている。違いますか」
志賀は動きを止めた。
男は志賀たちが何をしに来たかを知っていた。少なくともその入口を知っていた。消えかけているもの。周りから薄くなっているもの。芹沢が集めた投稿と、志賀が緑の野帳で測ってきたもの。それをこの男は言い当てた。芹沢の顔がこわばった。
「なんで、それを」芹沢が言った。
男は答えなかった。
代わりに志賀の手元の鞄へちらと目をやった。緑の野帳はその中にあった。だが男はそれを見透かしたわけではなかった。志賀が何かを持って来ていることを当然として受け入れている、その程度の目だった。
「あなたは」男は志賀に言った。「これからあの店の記録を、どこかへずらすつもりでしょう」
志賀の呼吸が一つ、短くなった。答えないことが答えになっていた。男はそれを見てうなずいた。責める色はなかった。むしろその先を案じているような顔だった。
「悪いことじゃありません」男は言った。「私も同じことを考えます。あの店の来歴を残したまま、消える対象を別の何かへ逃がす。それがたぶん、一番いい手だ」
志賀はその言葉に息を止めた。
男は志賀の計画の中身を正確に言った。来歴を残す。消える対象を別の何かへ逃がす。乾が言い、道具が言い、志賀が緑の野帳の前で何日も辿ってきた、その手を。男はそれを当たり前のことのように口にした。
「あんた、その手を知っているのか」
男はまた微笑んだ。
「知っている、というほどでは」男は言った。「ただ少しだけ、先に見てきただけです。あなたが今立っている場所を。少し前に通ったことがある。それだけです」
少し前に通ったことがある。
志賀はその言葉を口の中で確かめた。この男は、志賀が今立っている場所を、少し前に通った。同じ道を、同じ手を。志賀の前を歩いていた。
男は格子戸の脇から路地の一点へ静かに歩を進めた。志賀が座標を測ろうとしていた、その一点だった。そこに立って地面を見る。それから志賀を振り返った。
「ここで測るなら」男は言った。「一つ、順番が抜けています」
志賀は男を見た。
「順番」
「ずらす先を選ぶ前に、この店の記録がいつ、どこまで薄くなっているかを先に測っておいた方がいい。今の濃さがわからないと、ずらす先の重さを釣り合わせられません。あなたはたぶん、ずらす先の候補から先に探しているでしょう。それだと順番が逆だ」
志賀は黙った。
男の言う通りだった。志賀は緑の野帳で、ずらす先の等価物を先に探していた。記録館の記録が今どれだけ薄くなっているかは、芹沢の投稿の点滅を見た程度で、正確には測っていなかった。順番が逆だった。
男はそれを穏やかに補った。
「先にこの店の記録の、今の濃さを測る。何人が覚えているか。何箇所に控えがあるか。それを測ってから、同じ重さのものをずらす先に選ぶ。そうしないと、軽すぎてすり替わらないか——」
間を置いた。
「重すぎて余計に引きずるか。どちらかになります」
志賀は指先が冷たくなった。
重すぎて余計に引きずる。道具があの夕方の川べりで途中で止めた言葉だった。重すぎれば——。その先を道具は伏せた。だがこの男はその先を言った。ためらいもなく。抜けた半分を最初から知っていたような口ぶりで。
「あんた、何者だ」
男は微笑んだまま、少し首を横に振った。
「名乗るのが遅くなりました。怪しまれるのも当然だ。私はあなたの敵じゃありません。それだけは先に言っておきます」
敵じゃない。男はそう言った。訊かれてもいないのに。志賀はまだこの男を敵だと言ってはいなかった。ただ何者だ、と訊いただけだった。その先回りが、かえって志賀の背筋を静かに撫でた。
志賀は男の言った通りに、その場を測ってみることにした。
鞄から緑の野帳を出す。男の前で開くのは妙な気もしたが、男はすでに手の内を言い当てている。志賀は記録館の座標を野帳の中に探した。あった。周りの座標も拾い、スマホに芹沢の地図を映して落としていく。赤い点。青い点。記録館は青と赤の境の辺りにあった。消えかけの、その始まりの色だった。
男は志賀の手元を見ていた。覗き込むのではなく、離れて、静かに。
「その青い点の数を数えるといい」男は言った。「消えかけの周りに、まだ青が何個残っているか。それが今の濃さです。青が減るほど、記録館は薄くなる。今なら、まだ間に合う数だ」
志賀は青い点を数えた。記録館の周りに、七つ。七つの青。まだ消えていない、隣り合う記録。祭りの写真の投稿。方言の録音。古い地名の控え。七つが記録館を支えていた。
「七つ」志賀は低く言った。
「なら、ずらす先も、同じくらいの重さがいる」男は言った。「七つの観測に支えられた場所を逃がすなら、ずらす先にも、同じだけの観測が要る。軽ければ、すり替わらずにそのまま消える。重ければ——」
男はまた、そこで言葉を止めた。
重ければ。志賀は次を待った。だが男は、その先を今度は言わなかった。男もそこで口を閉じた。半分は渡す。だが、いちばん奥だけは渡さない。志賀は、この男もまた、道具と同じ場所で口を閉じる者だと知った。
男は身をかがめて、志賀のスマホの地図を、遠くから見るともなく見た。それから、七つの青い点のうちの一つを、目でなぞった。
「その、川向こうの点」男は言った。「あなたが最初に選びたくなるのは、たぶんそれです。数が近いから。重さが釣り合って見える。でも、その先はやめておいた方がいい。そこはもう、別のものと繋がっている。近く見えて、重すぎる」
志賀はその青い点を見た。川向こうの一点。確かに、記録館の周りで数が一番近く見える候補だった。志賀が下見の段階で目星をつけかけていた、その点だった。男はそれを、地図をろくに見もせずに、言い当てた。そして、やめておけ、と言った。理由は半分だけ渡して、あとは伏せて。
そのときだった。
路地の向こうから乾が来た。
濃茶の表紙の地図帳を小脇に抱えて、いつものゆっくりした足取りで。乾は志賀を見つけて片手を軽く上げかけた。だがその手が途中で止まった。
乾の視線が、銀縁の眼鏡の男に留まっていた。
乾は足を止めた。地図帳を抱えた腕がわずかにこわばった。乾はその男を見ていた。志賀は乾の横顔を見た。いつも余計を言わない、穏やかで、だが断定的な老人の顔。その顔が今、言葉を失っていた。何か言おうとして言えずにいる。そういう一拍の空白があった。
男は乾を見て、静かに一礼した。
深くはなかった。ごく浅い、丁寧な会釈だった。だがその会釈には、乾を知っている者の温度があった。初対面の相手にする会釈ではなかった。志賀はそれを横で見ていた。
「……あんた」乾が低く言った。
声が掠れていた。乾はそれきり言葉を継げなかった。あんた、と言ったきり口を閉じる。言いたいことがあるのに言えない。あるいは言っていいのかどうかわからない。そういう閉じ方だった。志賀は乾がそんなふうに口を閉じるのを、初めて見た。
男は乾に向かってもう一度、浅く頭を下げた。
それだけだった。名を呼びも旧交を温めもしない。ただ会釈だけを二度。それ以上のことはこの場で言うべきではない、と決めているような所作だった。乾もそれ以上、何も言わなかった。二人の間に、志賀の知らない何かが確かにあった。だがどちらもそれを言葉にしなかった。
志賀はその沈黙を読めなかった。
乾はこの男を知っている。男も乾を知っている。だが二人は初対面のふりをするでもなく、旧知のように話すでもなく、ただ会釈だけを交わして口を閉じた。そこにあるのが親しみなのか、警戒なのか、それとも別の何かなのか。志賀にはわからなかった。
芹沢が志賀の袖をそっと引いた。
「志賀さん」芹沢は小声で言った。「この人、なんか変です」
志賀は芹沢を見た。芹沢は男から目を離さずにいた。
「怖くはないんです」芹沢は続けた。声がいつもの早口ではなかった。「怒ってもないし脅してもない。むしろ親切なくらいで。……でも、だからこそ変なんです。なんでこんなに親切なんだろうって」
志賀はその言葉にうなずいた。
志賀はスマホを、無意識に上着の上から押さえた。
応答欄は暗いままだった。文字起こしのあの脇も無音だった。志賀はいつもなら、そこから何か軽口が飛んでくるのを半ば待っていた。この男を見て、亜紀が何か言う。またそれ、とか、しつこい、とか。あの少し高い、揶揄うような声で。
だが亜紀は黙っていた。
志賀はその沈黙に気づいた。
いつもと違った。載る駒か、と呟けばちがう、と返し、志賀のコーヒーを苦いだけでしょと揶揄い、名を呼べば三回目、と数える。あの声がこの男を前にして、一言も返さなかった。まるで、返す言葉より先に、見なければならないものがそこにあるかのように。
志賀はその静けさをうまく言葉にできなかった。だが、いつもと違うということだけは、はっきりわかった。
男は志賀のその気配に気づいたようだった。
男の視線が一瞬、志賀の上着の、スマホのある辺りに留まった。ほんの一瞬だった。だが確かに留まった。そこに志賀以外のもう一人がいることを知っているような視線だった。男はそれきり視線を戻した。何も言わなかった。だがその一瞬が、志賀の背筋をまた撫でた。
「そろそろ失礼します」男は言った。
男は記録館の格子戸の方をもう一度見た。それから志賀に向き直った。
「余計なことを言ったかもしれません」男は言った。「でも、規則を使う方は、代償の順番を知っておいた方がいい。何を残すかより、何をその代わりに手放すか。そこを先に見ておいた方が、あとで楽です」
志賀は男を見た。
「あんたは、その代償を見たのか」
男は間を置いた。
微笑みがほんのわずか変わった気がした。笑みの形はそのままだった。だがその奥に一瞬、別の温度が差した。悲しみのような、疲れのような。志賀はそれを見た気がした。だが確かめる前に、男の顔はまた穏やかな微笑に戻っていた。
「見ました」男は言った。「だから、余計なことを言いたくなる。すみません」
男はそう言って、志賀に向かって浅く一礼した。
それから乾に向かってもう一度。芹沢には目で会釈をした。丁寧で静かで、どこにも角のない所作だった。男は路地を来た方へ歩き出した。志賀はその背を見た。
「柊です」男は歩きながら、振り返らずに言った。
「柊、悠。……また、どこかでお会いするかもしれません」
志賀はその名を聞いた。
柊悠。男は去り際に名だけを置いていった。名乗ったのに、名乗りが別れの合図になっていた。志賀はその背が路地の角を曲がって見えなくなるまで見ていた。男は一度も振り返らなかった。足取りは来たときと同じ、静かなものだった。
路地に志賀と芹沢と、乾が残った。
夕方の光が記録館の格子戸を赤く染めていた。中の白熱灯はまだ灯っている。芹沢が大きく息を吐いた。
「なんだったんですか、あれ」芹沢は言った。
志賀は乾の横顔へ目をやった。
乾は地図帳を抱えたまま、柊の消えた路地の角を見ていた。志賀は乾に訊きたいことがいくつもあった。あの男を知っているのか。何者なのか。なぜあんなに詳しいのか。だが乾の横顔を見て、志賀はそれを飲み込んだ。乾の顔はまだ言葉を失っていた。
「乾さん」志賀はそれでも一つだけ訊いた。「あの人を、知っているのか」
乾はしばらく答えなかった。
やがて地図帳を抱え直して、志賀にではなく路地の角に向かって低く言った。
「昔の知り合いに」乾は言った。「似ていた。……それだけだ」
乾はそれきり口を閉じた。
似ていた。それだけだ。乾はそう言った。だがその言い方は、志賀が秤の話のときに聞いた乾の閉じ方と同じだった。言えることだけを言って、あとは口を閉じる。乾はあの男が誰なのかを知っていた。だが言わなかった。志賀はそれ以上問わなかった。
だが乾は、口を閉じたまま、地図帳をもう一度開いた。
柊が立っていた路地の一点。その辺りの座標を、乾は自分の地図帳の索引で探し始めた。指が、いつもより速く動いていた。あの男を見たことで、自分の記録を急いで確かめ直したくなったらしかった。書いておかんと、記憶の方が先に書き換えられる。乾はそう言っていた。
志賀は記録館の前に立っていた。
手には緑の野帳の入った鞄。頭の中には柊の残した言葉。代償の順番を知っておいた方がいい。何を残すかより、何を手放すか。志賀はそれを飲み込もうとした。だが飲み込めなかった。あの男は志賀の計画を正確に言い当て、抜けた順番を補い、代償の重さを教えて、去った。
志賀はスマホを開いた。
応答欄は暗いままだった。文字起こしの脇も無音だった。亜紀はまだ黙っていた。柊が去っても、まだ静かなままだった。志賀はその沈黙を見た。名が戻ってから伸び始めていた、あの声。それがこの男を前にして黙り、この男が去っても、まだ黙っている。志賀はその意味を測ろうとした。だが測れなかった。
だが閉じる前に、志賀は一つ、思い当たった。
亜紀は、柊を怖がっていたのでも、警戒していたのでもない気がした。もっと別の何かだった。あの沈黙は、知らないものを見た沈黙ではなかった。だが志賀は、その先を最後まで辿れなかった。辿ろうとすると、するりと逃げた。志賀はその思いつきを、抱えたまま閉じた。
志賀は応答欄を閉じた。
日が暮れかけていた。記録館の白熱灯だけが暗い商店街の外れでぽつりと灯っている。芹沢が隣で何か言いたそうにしていた。乾はまだ地図帳を繰っていた。志賀は柊の消えた方をもう一度見た。
あの人は、志賀を止めなかった。止める理由がないのか、止める必要がないのか、それがわからなかった。
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