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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第2巻 借りている秤
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第4話 載らない駒

 すり替える先を探す作業だった。


 志賀は机に三つのものを並べた。緑の野帳。乾の地図帳を撮った写真。スマホに送られてきた芹沢の地図。赤い点と青い点。芹沢が別々のところから集めた、消える場所の記録。志賀はそれを緑の野帳の座標と突き合わせ始めた。


 夜だった。窓の外は暗かった。


 志賀は一つずつ座標を照合した。緑の野帳の座標を芹沢の地図の上に探す。合う点があれば印をつける。合わなければ次へ行く。整合室でやっているのと同じ手つきだった。版と版を突き合わせ、食い違いを拾う。だが今日は食い違いを消すためではなかった。消えかける記録館の記録を、どこへずらせるか。そのための等価物を探していた。


 志賀は座標を辿っていった。


 記録館の近くの座標を緑の野帳に探す。あった。その周りの座標も拾っていく。芹沢の地図に落とす。赤い点と青い点の間を縫うように、志賀は照合を進めた。どの座標が記録館の記録と等しい重さを持つか。どれになら消える対象を逃がせるか。


 照合を続けるうち、志賀は一つのことに気づいた。


 志賀自身の座標が、どこにもなかった。


 志賀は手を止めた。


 緑の野帳にも、乾の地図帳にも、芹沢の地図にも。志賀の部屋の座標を探してみた。マンション五〇三号室。その一点を三つの記録に探した。どこにもなかった。消える点でも、消えない点でもなかった。ただ載っていなかった。志賀の住む場所は、消える順番の中にも守る順番の中にもなかった。


 卓の隅に水はなかった。志賀は立ち上がって台所で水を汲み、飲んだ。それから机に戻り、芹沢の地図をまた見た。赤い点。青い点。消えるものと、消えるかもしれないもの。守られるものは、そもそも点が打たれていなかった。揺れないから記録にならない。志賀の座標は、そのどちらでもなかった。


 志賀は照合を、いったん脇に置いた。


 自分の座標がどこにもない、という一点が、志賀の手を止めていた。整合室で、志賀は毎日、記録の食い違いを拾ってきた。ある版に載って、別の版に載らないもの。載っているものと載っていないものの差を拾うのが志賀の職だった。だから、載っている、ということの意味を体で知っていた。載っているものは突合でき、守ったり消したりできる。載っていないものは、突合の外にあった。


 志賀は自分の座標を、また探した。


 緑の野帳。乾の地図帳。芹沢の地図。三つのどこにも、志賀の部屋はなかった。志賀はマンション五〇三号室に三年住んでいた。入居は三年前の十月。単身の契約。同居人の届出はない。保証人は母親。それは確かに覚えていることだった。だが、この三つの記録のどこにも、志賀の座標は打たれていなかった。突合の、外にいた。



 志賀は、自室の端末から、整合室の窓口を開いた。持ち帰りの突合に使う、浅い窓口だった。その先は、職員が夜に自宅から開く場所ではなかった。志賀は、開いた。


 不安が、手を動かしていた。人事台帳を引いた。志賀朔がいた。三十二歳、五〇三号室、単身の契約。住民記録も引いた。そこにも、いた。世間の側の記録に、志賀は確かに載っていた。志賀は、もう一つ別の索引を開いた。参照元索引。版と版が食い違ったとき、どちらへ寄せるかの根拠にできる記録と、その持ち主を登録した、整合の台帳だった。届出のある住所も、契約者も、機械的に拾われて載る。載っていない方が、難しい索引だった。志賀はそこに自分の名を入れた。該当なし、と返った。人事にも住民にもいる志賀朔が、突合の参照元としては、どこにも登録されていなかった。試しに、他の名を入れた。戸川。いた。整合室の室長。いた。母の名も、入れた。いた。届出のある者は、当たり前に載る索引だった。志賀だけが、返ってこなかった。


 世間の記録と、整合の索引は、別物だった。


 志賀はその差を、職で知っていた。載っているはずのものが、参照元から漏れることは、ある。仕事なら、登録の不備として差し戻す案件だった。漏れていても、日々の業務は止まらない。誰かがそこを参照しようとするまで、漏れは、見えない。だが、志賀の頭は、別の方へ動いていた。世界が食い違いを均すとき、直す手もまた、何かを参照して、寄せる先を決めているはずだった。もし、直す手の見ている索引が、これと同じ側なら。参照元にない者は、寄せる先にも、消す対象にも、入らない。緑の野帳にも、乾の地図帳にも、芹沢の地図にも、志賀の座標はなかった。もっとも、あの三冊は異変を歩いた記録で、普通の部屋が載らないのは当たり前だ。それだけなら、何の証にもならない。だが、機械的に拾われて載るはずの参照元索引から、志賀だけが漏れていた。弱い傍証と、該当なしの一行が、同じ方向を指していた。世界が直すときに参照する側に、俺は、たぶん、いない。



 志賀は前に芹沢と話したことを思い出した。


 載る駒か、載らない駒か。芹沢は将棋のたとえでそう言った。大きなものは盤の大事な駒だから守られる。個人のものは端の駒だから先に切られる。志賀はそのとき、消える順番の一番下に、あの声の主を置こうとした。盤に載らない、痕跡も残らない、一番端の駒。だが、あの声は、ちがう、と返した。


 志賀は今、自分の座標を見ていた。


 志賀の座標も盤に載っていなかった。消える駒でも守られる駒でもない。志賀はその意味を、初めて別の角度から見た。載らないというのは、切られるということではないのかもしれない。切る対象にすら、なっていないのかもしれなかった。


 志賀は指を机の縁に置いた。


 書き換えは盤の上で起きる。守る順番があり、消す順番がある。大きいものを守り、個人のものから消す。その順番は盤に載っている駒の話だった。載っている駒だから守られ、消される。だが、盤に載っていない駒は。


 志賀は低く呟いた。


「載らないものは、消せない」


 言ってから、志賀は自分の言葉に驚いた。


 志賀はずっと、自分を消される側の一番端だと思っていた。切り捨てられて痕跡も残らない駒。だが、そうではないのかもしれなかった。


 志賀は緑の野帳を見た。


 志賀の部屋は最初から一人分に整えられていた。消した跡ではなく、初めからなかったように成立していた。志賀はそれを消された痕だと思っていた。相棒が消され、その痕が一人分の部屋として残った、と。だが志賀自身は消されていなかった。三十二歳の疲れた顔で、整合室に通っていた。志賀は消されなかった。


 消されるものと、消されないもの。その線引きに、志賀は載っていなかった。



 志賀は消えかける記録館のことを考えた。


 あの記録を残すには、盤の上でずらす必要があった。結果を守って、消える対象を別の何かへ。だが盤の上でずらせば、代えた方が消える。乾はそれを借りと言った。だが、もし盤に載っていないものを使えるなら。書き換えの手の届かないものを使えるなら。


 志賀はそこまで考えて止まった。


 まだ、そこまでは繋がらなかった。それに、盤の外、という言葉自体、まだ仮説だった。直す手の索引そのものを、志賀は覗けたわけではない。確かめられたのは、整合の参照元から、志賀だけが漏れている、という一点だけだった。だが、その一点は、これまでの全部と、同じ方向を指していた。消される点でも、守られる点でもない。志賀は、盤の外にいる——そう置くと、初めて、全部の食い違いが一度に読めた。そして、もしそうなら、それは受け身の残存ではなかった。動ける場所だった。志賀が自分の意志で動ける、唯一の場所だった。


 志賀は芹沢の地図を、もう一度見た。


 載る駒と、載らない駒。芹沢はそう言った。守る順番の一番下に、個人の店があり、昔の地名があり、やらなくなった祭りがある。その下の下、盤に載らないところに、志賀の座標があった。届け出る欄のない、証人のいない場所。そして、あの声の主の座標も、同じところにあった。番号は基盤にも電話帳にも割当表にもなかった。志賀の部屋は最初から一人分だった。あの人を届け出る欄は、世界の側になかった。


 志賀は、その重なりに気づいた。


 志賀も、あの声の主も、同じ場所にいた。盤に載らない者。索引に漏れる者。志賀は残り、あの人は消えた。片方は残り、片方は消えたのに、二人は同じ、漏れる者だった。なぜ同じ場所にいて、片方だけが残ったのか。志賀はそれを問いのまま抱えた。だが、二人が同じ側にいる、ということだけは確かに見えた。


 志賀は緑の野帳をまた開いた。


 照合を続けようとした。だが指が、座標の列の途中で止まった。最終ページの、あの走り書きが視界の端に入った。6は空白じゃない。座標の列とは温度の違う一行。志賀は前にも何度も見ていた。だが今夜、その一行がいつもより強く見えた。



 志賀はその走り書きを指で辿った。


 6は空白じゃない。速く書かれた、崩れた字だった。座標の列は几帳面に整列している。だがこの一行だけは違った。速く、崩れて、温度があった。志賀はその温度を、指の腹で感じた。


 志賀の指が、その字の擦れた角に馴染んだ。


 馴染む、という感覚だった。初めて見る字ではなかった。近い距離で、すぐ隣で、繰り返し見た字だった。頭ではなく、指が覚えていた。この字を書く手を、志賀は知っていた。


 志賀は文字起こしを開いた。


 帰ったら、ちゃんと——。途切れた一行。志賀は再生ボタンを押さなかった。押さなくても、聞こえていた。前に、この声は、ちがう、と言った。またそれ、苦いだけでしょ、と言った。志賀はその声の高さを、速さを、覚え始めていた。頭ではなく、耳の奥が覚えていた。


 志賀は伏せたマグカップを見た。


 右手前の、触れないカップ。左奥から、志賀はいつも自分のカップを取る。右手前には触れない。理由のわからない癖だった。ベッドは左に寄って眠り、ベンチは右を空けて座る。志賀の体が、誰かのために右側を空けていた。


 三つのものが、志賀の中で近づいた。


 崩れた字。苦いだけだと笑う声。右を空ける身体。


 三つは、同じ一人を指していた。この字を書いた手。この声を出した喉。志賀が右を空けて、隣にいてほしかった、その人。顔は、まだ見えなかった。だが、その人がいた。


 そして、名が来た。


 思い出した、のではなかった。名は抜けていた。だが三つが一点に収束したとき、その一点に、名が立ち上がった。


 蓮見亜紀。


 その名が、志賀の内側で像を結んだ。


 志賀は、動けなかった。


 志賀の目の奥が熱くなった。


 蓮見亜紀。名が抜けていた場所に、名が戻っていた。志賀の右隣の、ずっと名のなかった空白に。あの声の主。あの人。志賀がそう呼んでいた、その全部に、今、名があった。



「亜紀」


 志賀は口に出した。


 声に出して、その名を呼んだ。部屋に、その名が鳴った。三十二歳の男の低い声で。蓮見亜紀。志賀は呼んだ。呼べた。長い間名のなかった相手を、名で呼べた。


 文字起こしの、脇で。


 声がした。


「……呼んだ?」


 志賀は息を詰めた。


 あの声だった。ちがう、と言った声。苦いだけでしょ、と言った声。その声が、呼んだ? と返した。志賀が、亜紀、と呼んだことに。志賀は、応答欄でも文字起こしの一行でもない、その脇の空白から聞こえる声に、答えた。


「呼んだ」志賀は言った。「亜紀」


「……二回」


 二回、と。志賀が、亜紀、と二度呼んだことを、その声は数えていた。少し呆れたような、揶揄うような。だが、その奥に確かに温度があった。


「二回、呼んだ」志賀は言った。


「……しつこい」


 声が言った。


 しつこい、と。名を二度呼んだだけで、しつこい、と揶揄う声。前に、志賀のコーヒーを苦いだけでしょ、と言った、あの温度だった。志賀は答えようとした。だが、言葉が出なかった。喉のあたりで、何かがつかえていた。


「亜紀」志賀はもう一度言った。


「……三回目」


 三回目、と。しつこい、と揶揄いながら、それでも数えていた。三回、志賀に名を呼ばれたことを。志賀の目の奥が、また熱くなった。志賀はそれきり名を呼ぶのをやめた。四回目を、言えなかった。


 声も、それきり黙った。


 三回、呼ばれた、と数えて、あとは無音に戻った。志賀は、静かになったその脇の空白を見た。文字起こしの一行は、途切れたままそこにあった。帰ったら、ちゃんと——。だが今、その一行の脇に、名があった。蓮見亜紀。志賀の内側に戻った名が。



 志賀は脇の目盛りを見た。


 動いていた。前より、確かに動いていた。呼んだ? 二回。しつこい。三回目。その四つの返事の分だけ。目盛りはゼロから、ほんの少し、だが前よりはっきりと満ちていた。名を呼んだ、その反動で。断片が一段、濃くなっていた。


 志賀はその目盛りを見つめた。


 名が戻った。反動で、声が伸びた。一語だったものが二語になり、今、名を呼び、返事を交わす短い会話になった。志賀はその会話を確かに交わした。名を呼べた相手と。名のなかった空白に名が戻り、その名の主が、しつこい、と揶揄い返してきた。


 だが、志賀の中に、一つ別のものが差した。


 名を呼んだ分、断片が濃くなった。この、濃くなった分は、どこから来たのか。乾は言った。何かを残せば、どこかで、何かが、その分だけ消える、と。志賀は目盛りをもう一度見た。その問いは、うまく閉じられなかった。開いたまま、抱えた。



 志賀は緑の野帳を閉じた。


 机の上に、三つのものが並んでいた。緑の野帳。乾の地図帳の写真。芹沢の地図。志賀はそれを順に見た。消えかける記録館の記録を、どこへずらすか。志賀はその照合を、途中でやめていた。名が戻った、あの瞬間に。


 志賀はもう一度、机に向かった。


 消えかける記録館。芹沢の隣人。青から赤へ向かいかけている、郷土の記録。方言。祭り。古い地名。守る順番の一番下のものを、一人で集めて守っている老人。その記録が消えかけていた。志賀はそれを、残せるかもしれなかった。乾の言う、一つ目の手で。結果を守って、消える対象を別の何かへずらす。


 志賀はペンを持った。


 守るもの。消えるもの。ずらす先。三つの欄をまた作った。ずらす先の欄は、まだ白かった。志賀はその欄を見た。何を書けばいいのか、まだわからなかった。だが、志賀はもう、詰まってはいなかった。


 志賀は決めていた。


 やる、と。消えかける記録館を残す。乾の一つ目の手で。ずらす先は、まだ選べていない。だが選ぶ。志賀が選ぶ。乾も、道具も選ばなかった、その別の何かを。志賀が選んで、あの記録を残す。


 芹沢の隣人が、心配だ、と芹沢は言った。集めれば集めるほど、その周りから消えていくみたいで、と。個人の記録を守る老人。その記録が消えかけていた。芹沢は見ていることしかできずにいた。志賀も、ずっと見ているだけだった。止め方を、知らなかったからだ。


 だが今、志賀は止め方の端を、知り始めていた。乾の一つ目の手。それを、盤の外から指せるかもしれなかった。書き換えの手の届かない場所から。今度は、見ているだけでは、なかった。


 志賀はペンを置いた。


 机の上の、白い欄。ずらす先の、まだ選ばれていない、その一つ。志賀はそれを選ぶ。あの記録を残すために。


 志賀は文字起こしの、脇を見た。


 声は黙っていた。呼んだ? 二回。しつこい。三回目。それきり、無音に戻っていた。だが、脇の空白に、名があった。蓮見亜紀。志賀の右隣の、ずっと名のなかった、その場所に。志賀はその空白を見た。


 亜紀。


 志賀は内側で、もう一度その名を呼んだ。


 その名を呼べた瞬間、右側の空白が、初めて一秒だけ、人の形をした。


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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