秀才不出门,全知天下事(秀才は門を出でずして、ことごとく天下の事を知る)
原文
“秀才不出门,全知天下事”,在技术不发达的古代只是一句空话,在技术发达的现代虽然可以实现这句话,然而真正亲知的是天下实践着的人,那些人在他们的实践中间取得了“知”,经过文字和技术的传达而到达于“秀才”之手,秀才乃能间接地“知天下事”。
「秀才は門を出でずして、ことごとく天下のことを知る」ということばは、技術の発達していなかった昔では、たんなる空言にすぎなかった。技術の発達した現代では、このことばを実現することもできるが、ほんとうに身をもって知っているのは世の中で実践している人たちであって、こうした人がその実践のなかで「知」をえ、それが文字と技術による伝達をつうじて「秀才」につたわり、そこで秀才が間接に「天下のことを知る」ことができるのである。
《実践論》
「秀才不出门,全知天下事(秀才は門を出でずして、ことごとく天下の事を知る)」という言葉は、「老子・四十七章」にある「戸より出でざるも天下を知る」という一節に由来している。老子は春秋時代末期の思想家であり、その思想には多くの弁証法的な優れた視点が含まれているが、その認識論は根本的には唯心論的なものである。彼は、認識というものは必ずしも現実の経験や実践から生まれる必要はないと主張した。「戸より出でざるも天下を知る」とは、すなわち「人間は部屋の中に座ったままで、社会の実際の闘争に飛び込むことなく、天下の大事をあまねく知ることができる」という意味であり、これは大きな誤りである。この言葉がのちに変化して「秀才は門を出でずして、ことごとく天下の事を知る(学問のある者は一歩も外に出なくとも、机の上ですべての世事を知ることができる)」という成語になったのである。
毛主席は、このように現実から乖離した唯心論的な認識論を断固として批判した。主席は「実践を離れた認識など不可能である」と断言し、さらに「知識を得たいのであれば、現実を変革する実践に自ら参加しなければならない」と説いたのである。




