首輪の痕と、聖女の懺悔
魔王領の険しい山道を抜け、私たちは見晴らしの良い高台で野営の準備をしていた。
「んー、今日もいっぱい歩いたッス! 俺、ちょっと水浴びしてくるわ!」
ハルトくんが元気に川の方へ走っていくのを見送った後。
私は焚き火の前で、フェリスのボサボサになった髪を櫛で梳かしていた。
「……ん。ヤエ、気持ちいい」
目を細めて喉を鳴らすフェリス。
その首元には、奴隷の証である『隷属の首輪』が冷たく光っている。そして首輪の下の肌には、痛々しく擦れた古い傷跡が残っていた。
「痛かったね、フェリス。……少し、お薬塗るからね」
私が手作りの軟膏を優しく塗り込んでいると、向かいに座っていたアナスタシアが、その首輪を辛そうに見つめた。
「……フェリス。あなたは、どうして奴隷に……?」
アナスタシアの問いに、フェリスはピクッと獣耳を動かした。
王国の教会では『奴隷に堕ちるのは、罪を犯した者か、借金から逃げた卑しい者だけ』と教えられている。かつてのアナスタシアも、そう信じて疑わなかったはずだ。
フェリスは少しだけ躊躇った後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……私、森の奥で、お母さんと静かに暮らしてた。でも、ある日、ピカピカの鎧を着た人間がたくさん来て、村を焼いた」
「ピカピカの、鎧……?」
「うん。胸に、大きな十字のマークがついてた。……『女神と王国の名のもとに、薄汚い亜人を浄化する』って言って、お母さんを殺して、私にこれをつけた」
その言葉を聞いた瞬間、アナスタシアの顔からスッと血の気が引いた。
胸に十字のマーク。それは他でもない、王都を守護する『聖騎士団』の紋章だ。
「……嘘。聖騎士団は、民を守る誇り高き……っ」
「嘘じゃない。私、泣いて暴れたけど、叩かれて、檻に入れられた。王都の貴族の、おもちゃにされるために」
淡々と語るフェリスの瞳には、怒りよりも深い諦めの色が宿っていた。
エルヴィーラが、ギリッと唇を噛み締める。
「……エルフの森も同じよ。王国の連中は、長寿や珍しい力を持つ亜人を『保護』と称して狩り出し、裏で高値で売り捌いてる。……人間中心の国を作るためにね」
その事実を突きつけられ、アナスタシアは両手で顔を覆った。
彼女は知らなかったのだ。
自分が着飾っていた美しいドレスも、神に祈りを捧げていた豪奢な教会も、全てはフェリスのような罪のない子供たちから搾取した血と涙の上に成り立っていたということを。
「わたくしは……っ」
アナスタシアの肩が、激しく震え始めた。
「わたくしは、なんて愚かだったのでしょう……! 神の愛を説きながら、足元で泣いている小さな命に気づきもしなかった……っ! 亜人は教えに背く者だと、そう教えられて、疑いもしなかった……!」
ポロポロと、ドレスの膝に大粒の涙が落ちる。
自分が信じてきた『清らかな王国』が、いかに腐敗し、残虐なシステムの上に成り立っていたか。それを思い知らされた彼女の心は、今度こそ完全に折れ、砕け散った。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、フェリス……っ! わたくしたち人間が、あなたから全てを奪った……っ!」
土下座でもしかねない勢いで泣き崩れる聖女。
その背中を、小さな手がぽん、と叩いた。
「……聖女、泣いてる。私、泣いてない。だから、泣かないで」
顔を上げたアナスタシアの前に、フェリスがしゃがみ込んでいた。
「……お母さん死んだの、悲しい。痛かったの、嫌だった。でも」
フェリスは、チラリと私を見た後、川の方から「ふんどし一丁で川に飛び込んだらめっちゃ冷てぇ!」と騒いでいるハルトくんの声を振り返った。
「今は、寒くない。ハルト、私を買って、ご飯くれた。ヤエ、クッキーくれる。エルフ、うるさいけど、魔法綺麗」
フェリスは不器用な笑顔を作って、アナスタシアの涙を泥だらけの指で拭った。
「だから、今の私、かわいそうじゃない。聖女も、一緒にクッキー食べれば、悲しくない」
「フェリス……あ、あああっ……」
アナスタシアは、フェリスの小さな体を力強く抱きしめ、声を上げて泣きじゃくった。
エルヴィーラもまた、そっぽを向きながら、長い指で自分の目元をグシグシと乱暴に拭っている。
「おいおい、どうしたんスか!? アナスタシア、また泣いてんの!? さては腹減ってんだな!」
頭にタオルを乗せたハルトくんが、のんきな声で戻ってきた。
「……ハルト様。あなた、フェリスをどうやって仲間にしたのですか?」
涙声のアナスタシアが睨みつけるように問うと、ハルトくんは不思議そうに首を傾げた。
「え? 街の奴隷商で、一番ボロボロでちっこくて、泣きそうになってたからッスよ。あんなの、放っておけるわけないじゃないッスか」
彼は事も無げに言い放つ。
政治の闇も、種族の壁も、彼には一切関係ない。ただ「泣いている女の子を助ける」、その一貫したシンプルな正義だけが彼を動かしていた。
「……ハルト様は、本当に大バカ者ですわ」
アナスタシアは泣き笑いのような表情を浮かべ、フェリスを抱きしめたままクスッと笑った。
(……うんうん。いい顔になったね、アナスタシア)
私は焚き火でお湯を沸かしながら、そっと目を細めた。
壊れてしまった価値観の残骸から、彼女は今、自分の意思で立ち上がろうとしている。国のためでも、神のためでもない。目の前にいる、温かい手をした仲間のために。
「さ、お話の途中だけど、美味しいお茶が入ったよ。ハルトくんが釣ってきた魚も焼けたし、みんなで食べようか」
私が声をかけると、ヒロインたちは弾かれたように顔を上げ、少し照れくさそうに笑い合った。
もう、誰も私を「監視」しようとはしていない。
このいびつでバラバラだったパーティーは、今夜、本当の意味で『ひとつの家族』になったのだ。




