非公開リポジトリの開示
シンガポールの夜、マリーナベイ・サンズの55階。
杉雄さんがシャワーを浴びている間、私はバルコニーの椅子に座り、タブレットを叩いていた。
仕事の報告書ではない。これは、私の新しい物語——。
タイトルは暫定で『バイナリ・ハネムーン』。
今日のチェックイン騒動や、杉雄さんの慌てふためく様子、そして窓口でのアナログなやり取りを、瑞々しい感情の「パケット」として保存していた。
「……佳子さん、まだお仕事ですか? リモートワークの残業代は、僕が支払うわけにはいきませんが」
背後から、タオルで髪を拭きながら杉雄さんが現れた。
慌てて画面を消そうとしたが、指が滑って、執筆アプリの「全画面表示」モードが起動してしまった。
「あ、これ、違うの、杉雄さん……!」
杉雄さんの視線が、画面に固定される。
そこには、今日の彼の動揺っぷりが、少しだけコミカルに、けれど愛情を込めて描写されていた。
『彼の理屈っぽい唇が、エラーコードを吐き出すように震えた。その脆弱性が、私にはたまらなく愛おしかったのだ』
沈黙が流れる。
エンジニアの彼は、バグを見つけた時のように目を細め、一字一句を「パース(解析)」するように読み進めた。
「……佳子さん。これは、今日の行動ログ……ではありませんね?」
「ええ。……実は私、趣味で小説を書いてるの。ウェブで連載もしていて……。これはその新作のプロットというか、備忘録というか」
私は覚悟を決めて告白した。
理詰めの彼のことだ。「事実と違う」「データの改ざんだ」と論破されるかもしれない。
しかし、杉雄さんは静かにタブレットをデスクに置くと、意外な言葉を口にした。
「……驚きました。僕の目には『チェックインの失敗』という負のイベントに見えていた出来事が、あなたのフィルタを通すと、こんなにも……彩り豊かな『物語』に変換されるのですね」
「……変じゃない? あなたを少し、モデルにしちゃってるけど」
「変ではありません。むしろ、非常に高度な『抽象化』です。現実の事象を、感情というメタデータと共に保存する。私には逆立ちしても書けないコードです」
杉雄さんは、バルコニーの手すりに寄りかかり、遠くの光を見つめた。
「佳子さん。この物語の『仕様書』に、私の知らない隠しコマンド(設定)はまだありますか?」
「ふふ、そうね。例えば……『ヒロインは、実は夫が時折見せる、不器用な優しさをすべてスコア化して、心のデータベースに蓄積している』とか?」
杉雄さんは一瞬、耳まで赤くして視線を逸らした。
「……それは、非常に重いデータ量になりそうですね。私のサーバーがパンクしないよう、慎重にデプロイしてください」
彼はそう言って、少しだけ誇らしげに、けれど照れくさそうに笑った。
「佳子さん。あなたの書く『私』が、現実の私より少しだけ格好良く描写されるよう……明日からの旅も、バグを出さないように善処します」
「期待してるわ、杉雄さん」
私たちは、やはり手を繋がない。
けれど、夜風に吹かれながら、ひとつの画面を覗き込み、未完成の「物語」という共有リポジトリを、そっと更新した。




