エピローグ:雨上がりの交差点
あの日、夕立ちのオフィスからの帰り、駅の改札で角田さんと別れてから、私の世界は一度、完全に音を失った。
角田さんは変わらず会社にいて、時折、大迫さんと冗談を言い合って笑っている。でも、私はもう、彼のデスクにコーヒーを運ぶことはない。彼の「風呂に入っていない」という牽制球さえ、今思えば、私を傷つけないための精一杯の、そして彼女への誠実な「壁」だったのだと痛いほど分かるから。
都留野さんからは、結局、一度も連絡は来なかった。
角田さんの口から彼女の名前を聞いた時、私は自分がどれほど傲慢だったかを思い知らされた。彼女を追い詰め、居場所を奪った私が、彼女の恋人と結ばれようとしていたなんて。
「繋がらない」のは、物理的な距離のせいじゃない。私自身が、彼女との絆を断ち切ってしまった報いだったのだ。
九月に入り、あれほど猛威を振るった暑さも、夕暮れ時には少しだけ秋の気配を帯びるようになった。
退勤後、私はいつものカフェに向かう。
「いらっしゃい」
マスターの穏やかな声が、ささくれ立った心を少しだけ撫でてくれる。
「今日は、少し顔色が明るいですね」
「……そうですか? 酷い失恋をしたばかりなんですけど」
「それは災難でしたね。でも、何かを一つ手放した人の顔ですよ」
マスターが出してくれた苦いコーヒーを啜りながら、私は窓の外を眺める。
結局、私は「社内恋愛だけは金輪際すまい」という誓いを、一番残酷な形で守ることになった。
でも、不思議と後悔はしていなかった。
なりふり構わず誰かを好きになったあの数週間の熱量だけは、嘘じゃなかったから。
「ごちそうさま」
店を出ると、アスファルトには打ち水の名残が光っていた。
角田さんと都留野さんが、今、どこでどんな言葉を交わしているのか、私には知る由もない。
私はただ、自分の足元を確かめるように、夜の街へと歩き出す。
次に誰かと繋がることがあるのなら。その時は、誰かを傷つけることのない、真っ直ぐな道の上で出会いたい。




