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第167話 歩幅が合うと、負けが確定する

「……少しだけ、隣で歩いてください」

 昨日の私の頼みで、カイゼルは歩幅を合わせてきた。

 ほどほど。静か。

 それだけで頭の中が静まったのが、悔しい。


 悔しいのに――朝になると、また思う。

 (昨日の“少しだけ”は、今日も回収されるのか)


 医務室の前でフィンが先に言った。

「先生、昨日の“少しだけ隣で”は、もう“毎回”になるやつ?」

「ならない!」

「でも歩幅合ってた!」

「合ってません!」


 ローガンが咳払いで笑う。

「先生、歩幅は嘘つかねぇぞ」

「歩幅に喋らせないで!」

 マルタが腕を組んで淡々と言った。

「歩幅は確定」


「確定って言わないで!」

 私は白いリボンを握りしめて扉を開けた。


 カイゼルがいる。腕章『先生係』ぴしっ。

 紙も札もない。

 なのに、目が言っている。

(歩く)


「おはようございます」

「おはよう」

 私は先に牽制した。

「今日は、歩幅の話は禁止」

「禁止という言い方はやめろ」

「控えてください!」

「控える」

 即答。素直。怖い。


 診察開始。

「ここ。吐こう。長く」

 息が戻る。肩が落ちる。

 午前は平和だった。

 ……平和だったのに、私の心臓だけが“夕方の廊下”を待っている。最悪。


 昼休み、フィンが小声で言う。

「先生、今日も廊下歩く?」

「歩きません!」

「じゃあ陛下が泣く」

「泣きません!」

 ローガンの咳払い。

「泣かないけど、圧が出る」

「圧を出さないで!」


 マルタが淡々と補足した。

「先生、歩くと落ち着く。先生も回復」

「回復って言わないで!」


 午後。

 棚の前で私は薬草の瓶を並べていた。

 ひとつだけ、棚の奥。届かない。

 隣の影が動きかけて止まる。

 “頼め”の顔。


 私は息を吐いて言った。

「陛下、お願い。取ってください」

「分かった」

 瓶が手渡される。

 その指先が、ほどほどに近い。

 ……ほどほどがいちばんずるい。


 夕方。

 診察が終わって、医務室の扉を閉めた。

 廊下に出ると、カイゼルが待っていた。

 待つ顔。待つ姿勢。

 そして今日は、確認が先に来る。


「確認していいか」

「……何を」

「少しだけ」

 来た。回収。


 私は“いいです”と言わないと決めて、代わりに言った。

「……どこまでが少しだけですか」

 自分で聞いてしまった。

 自分で枠を作ってしまった。

 負け。


 カイゼルが一拍置いて答える。

「扉から、角まで」

 角。短い距離。

 短い距離なのに、心臓が忙しい。


「……分かりました」

 私は息を吐いて、歩き出した。

 隣の影が、すっと並ぶ。

 歩幅が合う。呼吸が合う。

 音がしないのに、確定の音がする。


 角が近づく。

 私はほっとするはずなのに、なぜか名残惜しい。

 名残惜しいのが最悪。


 角の手前で、カイゼルが低く言った。

「今日も、ありがとう」

「……それ、言わないでください」

「言う」

「言わないで!」

「……では、確認する」

「何を」

「明日も」

 低い声。

「歩幅を合わせていいか」


 やめて。

 “明日も”って、確定の音が強すぎる。


 私は長く息を吐いて、逃げ道を探した。

 逃げ道は、条件。

「……診察が終わって、私が疲れてたら」

 言ってしまった。

 条件を出したふりをして、未来を作った。

 負け。


 カイゼルが静かに頷く。

「了解」

「軍隊みたいに返事しないでください!」


 歩幅が合うと、負けが確定する。

 でもその負けは、嫌じゃない。

 嫌じゃないのが、いちばん悔しい。

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