第1話:リライト【Re:write】
十数年前に書いた短編を加筆修正したものです。
当時はまだ、私の中にブロマンスとかバディとか名前の付いた概念がないまま書いた感じでした。
性癖って怖い…
「あー、あっぢぃ……! もーダメ! クーラー直して!」
扇風機一つが回るだけの蒸し暑い夏の部屋で、白い髪に紫のメッシュを入れた短髪の青年が、とうとう耐え切れず音を上げた。
「そうは言ってもなぁ、ケイ。この仕事が終わるまではこの部屋から退去できないし、壊れたクーラーに関しては『入居後の破損だから対応しかねます。どうしても必要なら自費で』って上から言われちゃったからね。涼しい部屋で過ごしたかったら、今の仕事をさっさと終わらせて次の場所に移るしかないよ」
髪を湿らせ、首元から汗まみれになったタンクトップ姿の青年――ケイに向かって、もう一人の男が涼しげにそう言った。
「ギィー! って、何でお前はそんなに平然としてるんだよ、マーク! しかもこんなに苦しんでる俺の前でそんな暑苦しい格好して、視覚からも喧嘩売ってるとしか思えねー! 何でお前はそれで平気なの?!」
「そう言われても、これは僕のトレードマークだから。必要がない限り、どんな状況でもこの服装を乱すつもりはないよ。これでも薄着してる方だよ? シャツの下は何も着てないし」
マークと呼ばれた青年は折りたたみ椅子から立ち上がると、往年の探偵小説に出てきそうな長袖シャツと、脇にチェック模様の入った茶色のベストとスラックス姿で格好を付け、肩下まである長い黒髪をサラリと掻き上げてみせた。
ちなみにそのキマッタ服装には、首元のループタイ、黒い革手袋まで揃っていて、そのご丁寧さはいっそコスプレと言ってくれた方が分かりやすいくらいだ。
「しかも汗ひとつ掻いてないなんて……。あー、本当にいつもしっかり着込んでるよな。くっ……これじゃあ下着姿の俺が間抜けみたいじゃないか」
「ふむ? みたいもなにも間抜けそのものだろう。全く、相方が僕でよかったね。女の子とだったら、どんなに暑くてもその格好は難しいだろうからね」
「いや、俺はカッコつけのお前と違うから。体裁よりもこの暑さの方が問題だから、相方が女でも、同室だろうと暑い時は正直に暑いと言うし、脱ぐ!」
ケイはそう言いながら汗でベタつくタンクトップを脱ぎ、ついにトランクス一枚の姿になると、脱いだタンクトップをコンクリートの床に叩き付けた。
汗をたっぷり吸い込んだタンクトップは、ベシャリという濡れた音を立てて床に伸びた。
「お前は一生モテないな」
そう言ってマークは、開き直って全裸寸前のケイを嘲笑した。
「うるさい。余計なお世話だ。ところで今日のノルマは? 早く終わらせればクーラー付きの次の仕事に行けるんだろ? 早回しで行こうぜ」
「まあ、そう焦るな。無理をすると『能力の寿命』が縮むだろう。だけどまあ、今日は君の希望に沿ってペーパーは五枚にしようか」
マークは、むくれて半裸のまま椅子にどっかり座り、そっぽを向くケイに対し、子供に飴玉を差し出すように資料の束を渡した。
「五枚?! うーん。微妙なラインだな……もう一枚くらい増やして……そうすれば一、二日は早く済むはず……うーん」
ケイは差し出された資料を受け取ってペラペラ捲る。汗で濡れた指に紙が張り付いて読みにくそうでもあった。
「その微妙なラインくらいで我慢しておこう。分かってるだろう? 僕達の能力には『限り』があって、万能じゃないんだからさ」
「ああ、分かってるさ。うん、そうだな。それが限度だよな。今日は五枚で我慢しておくよ……」
マークの提示したノルマに少々悩みつつ、ケイは『自分達の能力』を考えてそれを呑むことにした。
今日は五枚。
つまり、今日だけで五人分の記憶を弄るということだ。
俺達はそれをペーパーと呼んでいる。紙だ。
俺が消して、マークが書き込む。だから標的は、俺達にとってただの紙になる。
ずいぶん悪趣味な呼び名だと思うが、誰が最初にそう呼び始めたのかは知らない。機関の中では、もう当たり前みたいに使われている。
俺達は、ある特殊機関に所属するエージェントだ。
依頼主からオーダーを受けた機関が、俺達のような能力者に仕事を振る。
内容は、対象者の記憶の書き換え。
殺しはしない。少なくとも、建前上は。
けれど記憶を消して、都合の良い別の記憶を入れるというのは、やりようによっては殺すのと大差ない。人間をその人間のまま残しておきながら、中身だけ別物にしてしまうのだから。
ただし、この仕事は一人ではできない。
記憶を『消す』者と、『書き込む』者。
必ず二人一組で行われる。
俺は消す側――イレーザー。
マークは書き込む側――ペンシル。
人間の脳は複雑だ。いらない記憶を消せば終わり、というほど単純ではない。
消した穴を放置すれば違和感が残る。かといって、上から雑に記憶を足せば、今度は本人や周囲との辻褄が合わなくなる。
だから俺が削り、マークが埋める。
この手順が狂うと、対象者の記憶だけでなく、周囲の人間関係までおかしくなる。
今回の仕事も、その微調整が必要な案件だった。
しかも関係者が多い。
ターゲット本人の記憶だけ変えれば済むような簡単な話ではなく、周囲の記憶も合わせて整えなければならない。
面倒臭がり屋の俺にとっては、正直あまり当たりたくない類の仕事だ。
(つか、こんな大仕事になるようなコトすんなし)
こういう仕事に当たると特に、ケイは仕事を辞めたくなる。
人の頭の中に触れて、見たくもないものを見せ付けられて、吐き気を堪えながら他人の都合のために記憶を削る。
そんなこと、好きでやっているわけがない。
けれど俺は孤児で、幼い頃にはもう機関に能力を見出されていた。
能力者専用の育成施設で育って、この仕事以外のことは何も知らない。
生きるためには、結局これを続けるしかなかった。
――という記憶も、本物かどうか怪しいところだけどな。
こんな仕事をしているからこそ、俺は自分の記憶を信用していない。
俺達は他人の記憶を弄る。
だったら、俺達自身の記憶が弄られていない保証なんて、どこにもない。
(あの組織のことだ。俺も何されてるか分かったモンじゃないよ……)
マークが言った通り、俺達の能力には限りがある。
使えば使うほど、寿命が削れる。
それが能力そのものの寿命なのか、脳の寿命なのか、詳しいことは教えられていない。
ただ、無理をすれば能力が暴走することがある。相方にまで被害を出したという話も、噂程度には聞いたことがある。
能力の終わりには予兆があり、それを感じたエージェントは組織に申告する。
規定では、そういうことになっている。
申告した能力者は引退し、組織から解放され、一般人として暮らせるらしい。
らしい、というのが問題だ。
俺は実際に、引退した能力者のその後を見たことがない。
今のところ、俺にその予兆はない。
だからこうして、マークと一緒に仕事をしている。
俺の記憶が間違っていなければ、マークは施設を出てすぐにあてがわれた、俺の初めての相方だ。
もう何年も一緒に活動している。
(何年って言う程でもないか……二、三年くらいだし?)
マークは俺よりもずっと長くこの仕事をしてるので、一緒に活動してた相手は一人や二人ではないらしい。
〝イレーザーはペンシルより寿命が短い。〟
そんな話をマークから聞いたことがある。
本当かどうかは知らない。
確かに、最初に脳と記憶を弄るのは俺達イレーザーだ。負担が大きいと言われれば納得はできる。
けれど、ペンシルだって同じように脳に触れる。
しかもマーク達は、ただ書き込むだけではない。消された部分に、矛盾のない別の記憶を正確に入れなければならない。
消す方も正確さは必要だが、書く方の負担が軽いとは、俺にはどうしても思えなかった。
(マークの前の相方は今、どんな生活をしているんだろうな)
ふと、そんなことを考える時がある。
コンビニやスーパーで働く店員を見るたびに思う。
普通の生活というのは、ああいうものなのだろうか。
決まった時間に朝起きて、決まった仕事へ行って、職場で弁当? ランチ? 食って、仕事が終わったら家に帰って眠る。時には同僚と飲みに行ったりもするらしいの、楽しそうだと思う。
そんな穏やかな暮らしを、自分がしてる場面を俺は想像できない。
マークの前の相方は、今どこかでそんなふうに生きているのだろうか。
何度かマークに聞いたことはある。
けれど返ってくるのは、いつも「良い奴だったよ」みたいな曖昧な言葉ばかりだった。
それ以上は何も教えてくれない。
最初の頃は気になってしょうがなかったが、今は半分どうでもよくなっている。
マークは人当たりが良さそうに見えて、肝心なところではひどく他人を突き放す。
俺もまた、お払い箱になれば、その『良い奴』入りする存在なのかもしれない。
(まあ……良い奴って言っても、頭に〝どうでも〟が付いた奴な)
俺は迷っている。
この面倒臭い仕事を少しでも長く続けられるよう慎重にやっていくのか──それとも、さっさと能力を使い切って、はじめての『一般社会』に放り出される方へ賭けるのか。
この仕事が好きなわけではない。
むしろ糞みたいな仕事だと思っている。
でも俺は、本当にこの仕事しか知らない。
世間に出たところで、自分がまともに生きていけるのかは分からない。
それよりも、もっと気掛かりなことがある。
仕事を辞めれば、きっとマークとの接点はなくなるだろうということだ。
(表の人間になるなら、裏の人間にはもう関われない。自由になる代わりに、マークを失うってことかよ)
我ながら気持ち悪い発想だと思うが、引退しただけでマークが自分の世界からいなくなるのは、何となく嫌だった。
この感情に何て名前を付けたらいいか、俺には分からない。
インプリンティングとでも言えばいいのか。
施設を出たばかりの俺にとって、マークは初めての相方で、初めて外で見た『大人』だった。
カッコつけで、秘密主義で、妙な服にこだわっていて、腹が立つくらい涼しい顔をしている。
それでも俺は、そんなマークを結構気に入っている。
マークにとって俺が、数いる能力者の一人に過ぎないとしても──。
でも俺にとってマークは、そう簡単に切り離せる相手ではなかった。
……時計が朝六時を示した。
ケイとマークはそれを確認すると、互いの顔を見合わせて頷く。
「それじゃ、〝仕事〟と行きましょうか」
マークが真剣な表情で言った。
「おう」
〝仕事〟に向かうマークの姿は、彼の『トレードマーク』であるベストとスラックスではなく、TシャツとGパンという非常に簡素な格好だった。
長い黒髪は後ろで簡単にまとめられている。
黒い革手袋もしていないが、実のところあれはファッションではなく、能力が暴発しないようにするためのペンシル能力者専用ハンドカバーなので、仕事の時は外す。
ペンシルは能力の性質上、素手のままだと稀に『情報漏洩』させてしまうことがあるからだ。
イレーザーであるケイにも、一応のハンドカバーは支給されている。
理由は大体同じだが、こっちの場合はランダムで記憶を削除してしまうことがあるので、被害を被る側からすれば危険なのに変わりはない。
だから何の予定もない外出時のハンドカバー装着は、本来必須となっている。
しかし、ケイは日常であまり使っていない。通気性の悪いアレは、普通に付け心地が悪いからだ。特に、こういう夏の暑い日は勘弁してほしい。
付けずとも持ち歩いているので、激しい人混みを歩く時くらいは使うが、出来ればなるべく素肌でいたいシロモノだ。カッコつけとはいえ、常に装着しておいて涼しい顔を崩さないマークの気持ちは全然理解できなかった。
でも、『消す』のと『加える』のでは、その影響力はペンシルの方が格段に上だから、マークが手袋を外せないのは、仕方ないといえば仕方ない。
ちなみにそのハンドカバーは、能力者の間では『キャップ』と呼ばれていたりもする。
ところで、仕事に向かうケイの格好もやはりTシャツとGパンで、マークとの違いがあるとすれば、目立つ紫メッシュの入った白い髪を隠すように帽子をかぶっているくらいだ。
(キャップとキャップ……なーんてね)
二人でこんな格好をしているのは、今回は『とある場所』に潜入するためだった。
その、とある場所というのはテレビ局。
ケイとマークはアルバイトのADとして潜入するのだ。
潜入方法に事前準備はあまり必要ない。手段は当然『記憶の書き換え』だ。
面接も特にいらない。採用担当者を捕まえて、バイトスタッフへの採用合格の判を押させて関係者カードをゲットだ。
さて、本日のターゲットはとある大物タレント――ではなく、その付き人のような、側近に近い関係者達。
その〝ターゲットではない大物タレント〟は選挙出馬を控えているというのに、とてもステキな『趣味』を抱えており、それがうっかりでも表沙汰になれば選挙どころではなく、大スキャンダルの上に腕が後ろに回りかねない。
というわけで、迂闊なことをしそうな関係者の処理をすべく組織へ依頼が行き、この度ケイとマークが呼ばれたというワケだ。
関係者は、核心に近い奴から何となく知っている奴まで含めると数十人はいる。
とにかく口が軽そうな奴らの記憶を全て書き換えて隠蔽し、かつ表でも辻褄が合うようにしてほしい、というのが今回の依頼内容だった。
記憶を弄る関係で詳細なレポートを読まされているが、その内容はケイが受けた依頼の中でも特に酷いものだった。
指示書を読んでいるだけでも、何度も吐きそうになった。
読むだけで胃の中がひっくり返りそうな『大物』の『特殊趣味』を、実作業では直の記憶として見なくちゃいけないかと思うと、ケイは今からうんざりしてしまう。
だというのに、マークは相変わらず涼しい顔のままだった。
記憶を書き込む際に辻褄合わせも必要なペンシルは、記憶を読んで消せるイレーザーより具体的に指示を渡されているはずなのに、なぜあの内容を走り書きでも見るように読み流せるのか。
直接記憶を読めない分、知らないことでも自分の記憶みたいに鮮明に想像しなくてはいけないのに、そのことについて文句を言ったり、うんざりした顔をしている彼の姿を、ケイは見たことがなかった。
(あいつの頭の中は一体どうなってるんだ? 読むだけでも辛いのに、それを想像で補うなんて……)
どんな修羅場を通り続けたらそうなるのか、その精神構造が、ケイにはあまり理解できなかった。
でも、ベテランというのはそういうことなのかもしれないとも思った。
ケイがそんなことを鬱々と考えていると、先を歩くマークが振り返らずに話しかけてきた。
「今日で二十人終えるから、ちょうど半分ってところだね」
「やっと半分か……あの記憶、もうやだ、うげぇ」
ケイは、記憶を消す時に見えてしまう、ターゲットの記憶を思い出してはうんざりする。
「その分今回は特に報酬も良いんだから、良いじゃないか。お金を貯めておいて、この仕事を引退したら、自分だけの部屋を借りて趣味のゲーム部屋を作るんだろ?」
「え、あ……うん……」
不意にそんなことを言われ、ケイは歯切れの悪い返事をしてしまう。まだマークへの感情の答えを出しきれていないからだ。
そんなケイの内心も知らずに、そもそも興味なさそうに、マークはスタッフ出入口で颯爽と関係者カードを出し、受付を済ませた。
そんな彼の背中を追って、ケイも受付を済ませると、二人で局内へ入った。
ケイはスケジュールを確認する振りをしながら、仕事の情報が載った手帳を捲り、今日は無関係なターゲットと擦れ違わないよう、慎重に確認しながら明るい廊下を進んだ。
ふとケイが顔を上げると、マークも同じく手帳を手に、周囲を警戒している姿が目に付いた。
オフの時とは違う、仕事中特有の鋭利な横顔を見ながらケイは思ってしまう。
(マークは……引退したいって思ったことないのかな。二人で引退したら、一緒に暮らせたり、しないかな……今みたいに……)
「居た」
マークの声にケイは思考を寸断される。本日一人目のターゲットを発見したのだ。
トイレから男が出てくるのが見えた。手帳のデータによると、例の事件においてかなりの中心人物だ。
(依頼者はこんな側近すら、切っちまうんだな)
きっと散々尽くした末がこれとか可哀相に……とターゲットに対する憐憫を感じなくもないが、ケイにとっては仕事なのですぐにどうでもよくなった。
「ペーパー、一枚目確認。任務遂行に移る──」
ケイの言葉にマークが頷くのを確認すると、スーツ姿の中年くらいの男に話しかけた。
「すみません、“紫色の楽屋”を探してるんですけど」
ケイがそう話しかけると、男の顔色が変わり、今出てきたばかりのトイレにケイを引っ張り込むと、脂汗を浮かべながら小声で尋ねてくる。
「お前、その呼び名……どこで聞いた?」
「さぁて、どこからでしょうね……っ!」
ケイを壁に追い詰め、表情を強張らせている男を、ケイは不意に地面へ倒して頭を掴んだ。
「ぐあっ!? 貴様、一体何を……」
「うん、情報通り。お前、対抗勢力から提示された金と立場に目が眩んで『部屋』のこと、くだらねぇゴシップ雑誌に売ろうとしてたみたいだな。……マーク! 始めるぞ!」
手を通して男の記憶を読んだケイは、仕事の始まりを小さく叫んでマークに伝える。
「始めるって何を?! というか、その情報はどこで聞いたんだ! 答えろ!」
「アンタはもう、そんなこと気にしなくて良いんだよ。すぐに部屋のことは忘れるから。……ってか、散々うまい汁吸っておいて、仲間裏切ったのが悪いんだろ!」
──デリート開始。
ケイの脳内に鋭い耳鳴りがして、瞼の裏に火花が散った。
歪み、擦れる視界は、テレビのザッピングにも似ている。
鼓膜を舐めるようなぬめった男の声と、子供とも女ともつかない無数の悲鳴、嗚咽。糞より酷い、生臭い匂いが鼻腔にこびりつく。
この男の見た光景だ。
「うぷっ」
能力を通して脳裏により鮮明に流れ込む悍ましい光景に、胃の中どころか内臓ごと吐き出してしまいたくなるのを、呼吸を整えて堪える。
「はぁ?! ?!……ん゛あっ! あ゛あ゛あ゛あ゛あぁ……」
脳の神経回路を読んで、目的の情報を的確に消す。
この作業には、相手の記憶を強制的に追体験させられる痛みが伴う。
男の経験──そして、能力でフィルターをかけなければ、男の目を通して見える被害者の感情や感覚すら、脳が勝手に想像しそうになる。
慣れるしかないとはいえ、慣れるはずもない。
ケイはリンクした情報に意識を持っていかれそうになるのを踏みとどまり、記憶の削除が済むまで耐え続けた。
(コレとコレは消して、コレは消さない……)
基盤の目を読んで配線を繋ぎ直すような慎重な作業に、ケイの額が薄らと汗ばむ。
関係ない記憶を消すとマークの作業に支障が出るから、消す時は素早くとも丁寧に、正確に。
「ふ、うう……ぅ……ぐ……」
きつすぎる。どうやっても堪え切れない吐き気でケイの呼吸が震える。胃酸の匂いが混じる。それが気付け剤になるとは、何とも皮肉な話だ。
消す方もキツいが、記憶を消される――脳を弄られる側もかなりキツいらしい。
ケイの下で頭を鷲掴みにされている中年男は、首を絞められる鶏よりも汚らしい嗚咽を漏らして暴れ悶えていた。
しっかり押さえていないと、振り落とされてしまいそうだ。
(ジッとしてろよ、手元が狂うだろ!)
自分よりも大柄な人間を相手にすることもあるイレーザーは、筋力トレーニングが必須だ。
だからケイの一見細身な体は、脱ぐとスゴイんだぜ、なんて冗談を言える程度には鍛えられ引き締まっていたりする。
そして頭に触れてから三分ほど経ち──記憶を消され終えた男はすっかり静かになって、ぐったりとトイレの床に伸びていた。
気が付けば男の下には水溜まりまで出来ていた。
(うげ、こりゃきっと後ろもモリモリだ……俺のケツも濡れたりしてねえかな?)
動かなくなった中年男に対し、ケイは汚いものを見る目を向けつつ、トイレの入り口に立つ相棒の方を見た。
ここはテレビ局内。人の出入りが多い場所だから、素早い作業が求められる。
「マーク!」
ケイがそう叫ぶと、トイレの入口で掃除作業員の振りをしていたマークが足早にやって来て、転がっている男の頭を掴んだ。
──さあ、今度は書き込みの時間だ。
すっからかんに掃除された男の頭に、依頼主にとって都合の良い記憶が、脳に張り巡らされているシナプスの電気信号を通して新たに上書きされていく。
ケイが悍ましい記憶に手間取って、消すのに五分近く使ってしまったから、マークが作業できる時間はとても少ない。
素早くモップとバケツを拾ったケイはトイレの入口に立って、マークの作業に邪魔が入らないよう見張りに回る。
すると案の定トイレ利用者がやってきたので、時間稼ぎをすることにした。
「すみません、ここのトイレ掃除しようとしたら、気分が悪い人がいて介抱しています。俺、今携帯の電池切らしちゃってるので、代わりに救急車をお願いできますか? それと、救護室の人も呼んできてもらえませんか?」
マークの作業進捗を確認しつつケイがそう言うと、トイレに入ってこようとした男は驚いた顔で携帯電話を取り出しながら立ち去っていった。
それから間もなく。
「終わったぞ」
背後でマークの声が聞こえた。
彼が書き換え作業にかかった時間は短く、その手際は鮮やかだった。
さっき男を一人片付けたので、本日のノルマはあと四人。
テレビ局内を歩いているだけで人々の世間話が嫌でも聞こえてくる。
ここ最近で二十人もの人間を処理しているので、現在局内では体調管理に気を付けるようにという話題があちこちで聞こえる。
そんな中での作業なので、人と鉢合わせた時は、時には鉢合わせた人間の記憶も書き換えなくてはいけない。
同じ人間が何十人もの体調不良者に出くわすなんて状況は、あまりにもおかしすぎるからだ。
だがこの日も何とかノルマの人数をこなし、ケイとマークは帰路に着いた。
「ああ、疲れた……」
部屋に着くなり、マークが黒ずんだ黄色い合皮のソファに倒れ込む。
「ん? マークの方から音を上げるなんて珍しいな。いつもなら俺の方が先にぶっ潰れるのに」
「若いお前と一緒にするな。消す方もタイトだろうけど、今回は特に情報量が多いから、おじさんクタクタなんですよー。それに、どこかの誰かさんが暑いってだけで早く仕事を終わらせたいってごねてるからね」
そう言いつつ、マークは着心地悪そうにTシャツを脱いだ。
「そりゃ、失礼しましたー。つか、二十九っておじさん自称するほどか?」
「人間、二十過ぎたら、五歳以上離れた相手なんてもう親子みたいなものなんだよ。シャワー先に使うよ」
「別に良いよ。つか、俺もハタチ過ぎて久しいのに、若い子もないだろ。ところでいつも俺よりシャワー先に浴びるの、トレードマークに早く着替えたいから?」
「当たり前だろう。仕事でもなきゃ、そんなダサい服、着たくもない」
マークはそう言って、脱いだTシャツをその場に投げ捨てると、上半身裸のままシャワー室へ入って行った。
(あのー。その安っぽい服が普段着なんですけど、俺……)
マークの言葉に半笑いになる。
それにしても、マークは本当にあの服に拘る。
あの拘り方はファッショナブルというより、思い入れの方が強そうだ。
一体、何がマークをあのファッションに固執させるのだろう。
育った施設とこの裏稼業しか知らなくて人生経験自体が薄いケイに、思い付くはずがなかった。
何年も一緒にいるのに、ケイが知っているマークについての情報は、見事なくらいに客観的な癖や性分ばかりだった。
珈琲は飲むけど、豆からドリップして淹れたブラックじゃないと絶対飲まない。
普段珈琲ばっか飲んでるくせに、実は緑茶の方が好きで、そっちにはミルクポーション三個とシュガーを二個入れる。
そういう飲み方をするなら紅茶を飲めばいいのに、風味が合わないと言って飲まない。
鶏肉をスパイスと塩で味濃い目に焼いて、クレソンを馬鹿みたいに載せて食べるのが好き。
これから分かるマークの性格は──十中八九、味音痴だ。
(味音痴だから何だって言うんだ。俺がどんな料理出してもウマイウマイ言ってくれるのは助かるけどさ)
他には……猫カフェに通い詰めていて、猫にキャーキャー言うくせに触りもしない変なところがあったっけ。
ケイが知っているマークの姿は、そんなことばかり。
どこまでも変なその行動のバックボーンは、いくら訊いても教えてもらえなかった。
訊いてもいつもはぐらかされるだけだった。
他人と何年も暮らしてきて、相手に内心を一切悟らせないその姿勢は、逆に感心してしまうくらいだった。
「まあ、俺もいいかげん慣れたけどね、そういうの……」
やりきれない気持ちを、ケイはつい声に出して呟く。
それが本心なのか、言い聞かせなのか、ケイ自身もう分からなくなってしまった。
それから一週間ほどかけて、テレビ局内から例のタレントについて不利なことをしそうな人間の記憶を書き換え終えた。
依頼者に近しい濃い関係の仲間から、噂程度しか知らない浅いモブまで、一掃したんじゃないかってくらいに多くの人を。
取り逃しがないかもしっかりチェックし、問題がないことを確認すると、マークとケイは組織に報告書を提出した。
依頼完了と引き換えに、能力をフル稼働させた二人には、体と心を休めるための休暇が与えられた。
休暇は次の依頼が来るまでで、最低でも二週間。長いと数か月……次の依頼がいつになるかは、分からないし教えてもらえない。
今回の仕事ペースは、結局ケイの要求に近いハイペースでの処理になった。
マークはケイが「さっさと仕事を終わらせたい」と言う度に、いつも能力の残りを大事にしろと言っていたが、結局は折れてくれて、ケイには甘かった。
だが、例の仕事を終えた頃からだった。
少し前から気にはなっていたが、マークの様子が明らかにおかしくなった。
予定もないのに、マークが一日中ぼうっとする日が増えたのだ。
「仕事終わったな」
「ああ、そうだな……」
ひたすら続く無言・無音の空気に耐えかねてケイが話しかけると、マークが背もたれに伸びた状態で、だるそうに返事をした。
「ったく、酷い仕事だったよな。秘密クラブのはずなのに、何であんなに知ってる奴がいるんだか……しかも恨み買いすぎ……」
「そうだな……」
「……さっきお湯沸かしてカップに入れたら黄色くてションベンみたいだった」
「そうだな……」
「マーク、それを美味そうに飲んでた」
「そうだな……」
さっきからマークは、ケイが何を話しかけても「そうだな……」しか言わなかった。
「……マーク、随分疲れてるね」
「まあ、そうだな……」
ケイはマークの無防備な胸元に飛び込んで抱き着き押し倒すと、懇願するように話しかけた。
「どこか遊び連れてってよ」
「へえ、そうなんだな……」
「…………」
何を話しかけても雑な返事しか返さなくなったマークの対応に、ケイは次の話題を探した。
この日は朝から二人で黄色いソファに座って、ただぼんやりとしていた。
せっかく休暇をもらったのに、マークはずっとこの調子だ。
いつもならマークの方からバカンスにでも行こうと言い出して、ケイが面倒くさがっていたのに。
「マーク、何かずっと調子悪そうだね……」
「そうか? ただ疲れてるだけだ」
ちょっとだけ違う反応が返ってきてケイは少し嬉しくなるが、今はマークへの心配が強い。
「それ、調子が悪いって言うんじゃないのか?」
「……かもな。俺も歳だし」
「まだ二十代だろ」
「もうすぐ三十だ」
「まだじゃん」
そんなケイの言葉を最後に、二人はまた黙り込み、ケイは体を起こした。
話題も特にないし、マークの受け答えがキツそうだったので、ケイはとうとう話しかけるのを諦めて黙ってしまった。
しかしそんな沈黙に飽きたケイが「あー!」と声を上げると、おもむろに『あの話題』を振ってみた。
「なあマーク。お前はこの仕事できなくなったら、何して暮らすの?」
「…………そうだなぁ、考えてない」
「何で? この糞仕事から離れて平穏な生活が送れるようになるのに、夢とか全然ないの?」
ケイがそう言うと、マークがむくりと身体を起こしてケイを見つめる。
「夢……? この歳から夢を? ははっ……そもそもそんなもの、放逐されたところできっと記憶を消されるだろうから、夢なんて抱いたところで無駄なんだ。やっぱりケイ、お前は若いよ……」
「マ、マーク……?」
マークのいつになく投げやりな言葉に、ケイは思わず絶句し、背筋に冷たいものが走る。
そうだった。
マークは普段楽天的に振る舞っているから気にしなかったが、シリアスモードのマークは時折とてもシビアで……シビアと言うより、悲観的で感傷的な顔を見せることがあった。
そして瞬間、悟った。多分こっちが本当のマークなのだろう。
──この冷たくて人生を諦めきった方が、本当のマーク。
でもマークはなぜ、こんなに諦めた思考をしているのだろう。
普段は道化師みたいな明るい仮面をかぶっているくせに。
(しかし何がマークをここまで諦めさせてしまったんだろう?)
イレーザーとペンシルの性質の違いもあるのだろうか。
(どうしてこんな大事なことに気づけなかったんだろう……いや、何で忘れてしまっていたんだ? もしかして記憶消されてた? 嘘だろ?)
同じ記憶を弄る能力を持っていても、ケイとマークは真逆だ。
そしてマークの方がケイよりベテランだから、ペンシルとして活動する中で、ここまで追い込む何かが色々あったに違いない。
(ああ、その頭に触れることができたなら……防御されても、少しくらいは考えていることを知れるかもしれないのに……)
しかし能力者同士で思考を読む目的で頭に触れるのは規定違反だし、非常事態に備えて考えが読み取られないように、能力者は防御訓練を受けている。
しかも相手はマークだ。ケイが単に触れただけでは何も読めまい。
(マーク、俺はお前の思考が少しでいいから読んでみたいよ……何か苦しいことがあるなら、助けてやることはできないのか?)
そんなケイの心配とは裏腹に、マークの様子は、どんどん目に見えておかしくなっていった。
休暇が始まってひと月も経つと、マークはもう、寝床から起き上がるのもやっとの状態になっていた。
あまりの惨状に、ケイが心配になって組織に連絡すると、オペレーターはハンドラーに取り次ぎもせず、冷たく「彼はペンシルになって十年以上ですし、そろそろかもしれませんね」と言った。
「そろそろって……」
(能力者としての寿命のことか……?)
ケイはまだ能力者として仕事を始めて二、三年だが、マークはもうその何倍もある十年以上も、こんな仕事を続けている。
能力の平均寿命がどのくらいだったか、施設で聞いた気がするが正確には覚えていない。
けれど十年以上は、それなりに頑張ってきた方だと、無知なケイでも分かる。
ケイはオペレーターとの会話を終えると、マークが臥すベッドの傍らに立ち、声を掛けた。
「マーク」
「何だ……?」
「もしかして、マークは、〝予兆〟感じてたりしてたのか?」
ケイの問いに対し、マークはしばし間を置いてから「ああ」と短く返事をした。
意外にも、マークはいつもみたいなとぼけた返事はしなかった。
多分、もう誤魔化せないとでも思ったのだろう。
「い、いつから……?」
「半年……いや、もう少し前くらいかな」
「半年?! 何でその時点で言ってくれなかったんだ。というか、その時点で組織に申請すれば、そんな状態になる前に解放されていたのに! バカじゃねーの?!」
ケイが焦って怒り気味に怒鳴ると、マークは苦笑しながらベッドから身体を起こして呟いた。
「何でかなぁ……やっぱ、『相方』を失うのが……嫌だったからかな。ケイといるの、楽しかったから」
「えっ……」
マークの意外な言葉に、ケイはドキリとしつつ息を呑む。
てっきりマークは、ケイを単なるビジネスパートナーとしか見ていないと思っていたのに。
(マーク、俺といるの楽しかったって……〝予兆〟を隠しておきたくなるくらい楽しかったって、マジ……?)
相方の意外な本音に、ケイが言葉を失っていると、マークの方が語り始めた。
「正直さ、最初の相方を失ったの、結構きつかったんだよ……女だった。そして、好き、いや愛してた──」
初めて語られる、マークの以前のパートナーの話。
でも次の言葉に絶望する。
「でも、憶えてるのはそれだけ。後は僕のトレードマークがカッコイイって言ってくれたことだけ、ぼんやり記憶に残ってる。本当、それだけしか記憶にないんだ」
「それだけ?」
「ああ、それだけ」
「何で、何でそれしか憶えてないんだ? 相方だったんだろ? 好きな女だったんだろ? なのにどうして、それしか記憶が残っていないんだ?」
ケイがそう問うと、マークは寂しげに微笑んだ。
「忘れたのか? 俺はペンシル。だったら相方はイレーザーだ。消されたんだよ、最後に……」
「最後にって、どういう意味だ? 立ち去る前にって意味、か……?」
「立ち去る? 立ち去るくらいだったら、多分彼女はそんなことはしなかったと思う。ところでお前は、使えなくなった能力者は一般人になる――なんていう組織の受け売りを本当に信じていたのか? 信じてたっぽいよな。なら、教えてやるよ。僕達能力者の最後は、死だ」
「し……し、死……?」
ケイはマークの言ってることが直ぐに理解できなかったが、理解した瞬間絶句した。
「死ぬ理由は分かるだろう? 能力を使うたび、僕等は脳細胞……脳そのものをすり減らしている。脳にダメージなんか食らったら、色々問題が身体に出てくるのは当たり前だ。能力に限界があるっていう言葉の本当の意味は、ボロボロになった脳で身体が保てなくなるって意味なんだよ。僕達は消耗品で、消耗品の僕達に、力が使えなくなったらお役御免、なんてある訳ないじゃないか」
限界を迎えた能力者は死ぬ──それはケイがずっと心の支えにしていたものを、全て打ち砕く事実だった。
「そんな! それじゃあマークはもうその状態だって言うのか?! 悪い冗談はやめてくれよ……俺は、もし仕事ができなくなって記憶を弄られても、平穏に暮らすお前がこの世界のどこかにいるだろうって安心感があったから、やってこれたのに。そもそも、それは能力者が知っていたらマズイ情報じゃないのか? 何でマークは憶えてるんだ?!」
ケイは今までずっと浅はかだった自分を呪った。
限界のマークに気付かず、ワガママを言い続けていた自分を。
「……必死に守ったから。欠片でも、大好きだった……愛していた女の記憶を奪われないように、違反を犯した彼女に記憶を弄られたのを良いことに、それ以上の追求を逃れたんだ。能力についての情報は、その時の副産物だよ……」
マークの言葉の語尾が震え、黒い瞳から涙がこぼれ始める。
「マーク……」
「僕が今まで昔の相方の話をしなかったのは、そういうこと。話そうにも憶えてなかったんだよ。彼女を失ってから、何人もパートナーが変わって、限界を迎えた能力者も他にも見てきたが、今になって彼女の気持ちが分かったよ……大事なやつを残していくって、辛いな……本当につらい……」
「で、何で今になってそんな話……残していくって、俺を?」
嫌な予感がしつつ尋ねると、マークは微かな声で「ゴメン」と言い、おもむろに立ち上がると、ケイの頬を撫でた。
「ゴメン、本当にゴメン。僕は……あと一日も生きられないと思う。これは予感だけどきっと当たるよ。僕は能力者だから……」
その瞬間、ケイはヤバイと思ってマークから離れようとした。
しかし半病人のはずのマークに物凄い力で腕を掴まれたかと思うと、ベッドの上に押し倒され、頭に手を押し当てられた。
いつも付けてる革手袋のない、マークの両手の掌の体温が直にケイの肌に沁み込み、流れ込んでくる。
「止めろ! 俺から離れろ!」
しかしマークは泣きながら微笑んだまま、背中に乗って動こうとしない。
ケイは泣きながら笑うマークを振り払えず、もがくことしかできなかった。
「なあ、ケイ。僕はね、知っていたよ。最近ケイが僕の存在と仕事のことで悩んでいたことを……だから死ぬ時は君のいないところでって決めてたんだけど、タイミングが悪かったね。僕はね、君に悲しい記憶を出来るだけ残したくなかったんだよ」
(そう言えば、最近随分一人で散歩に行きたがっていた……。凄く体調悪そうだったから必死に止めてたけど……それって、まさか……)
引いていた血の気が更に引き、青褪める。
「な、何終わりみたいなことを言ってるんだよ! お前が死ぬはずないだろ。今はちょっと疲れが溜まりすぎて風邪でも引いてるだけだって! だから、退いてくれ!」
しかしマークは首を横に振り、更にしっかりとケイの頭を押さえ込む。
「あぐっ……!」
「僕がいなくなったら、君には新しい相方が来るだろう。でも、僕が君に死に際を見せてしまったのを、組織は見逃さないだろう。僕が体調不良のまま組織に回収されて新しいパートナーが来ても、頭の良い君がすんなり僕の引退を信じてくれるとは思えない。きっと何かを察して悲しませてしまう。ああ、でもあいつらなら君のそんな感情すら消してくれるかな? でもさ、僕もね、君のことは本当に気に入ってたからさ。だから、どうせ弄られるなら〝君も〟僕の手で、君の中の〝僕〟を消す。いや、僕はペンシルだから、消せないね。だから前からいざという時のために準備していた記憶を付け足そう……僕を大嫌いになってよ。……そうすれば次に誰が来ても大丈夫だよ」
マークの熱い掌から、頭に力が注ぎ込まれるのを感じて、ケイはいよいよ悲鳴を上げた。
──ああ、そうか。
彼はずっと悲しかったのか。
ケイがそうだったように、マークも何も知らないまま初めての相方として出会った彼女を愛し、儚くも失ってしまった。
マークはただ、彼女を純粋に愛した。ケイがマークを愛してしまったように。
そんな相手の壮絶な最後に遭遇して、大事な記憶を消されてしまったから、俺のことは悲しませまいと思って過去のことは喋らず、明るく振る舞い、自分の最後は何か理由をつけて姿を消すつもりだったんだ。
でも、できなかった。
(俺がずっと引き留めていたから──!)
だって、マークはいつだってケイに甘かった。だから逃げられなかった。
俺から逃げられなかったからマークは、愛した彼女がマークにしたのと同じように、ケイの中から自分を消そうとしているんだ。
でも、それは俺だって同じだ。
「嫌だ、止めろ、そんなのお前のエゴだろ? 頼む、お前との記憶を汚さないでくれ……俺だって、お前が初めての相方だってのに、こんなのって……ヤメて、お願いだから!」
──だって、俺はお前を……。
必死にマークに止めてくれと懇願し続けたが、そこでケイの意識は混濁し、闇に包まれた。
──……
─…
…
「あー、あぢぃー……この部屋クーラー付いてないとかマジないわー……」
白い髪に紫のメッシュを入れた長髪の青年が、不満げに床に寝転んだ。ケイだ。
しかしその風貌は、マークといた頃より大分精悍になり、時の流れを感じさせている。
「今年は猛暑らしいっすからね。っていうか、だったらそのベスト脱げば良いのに。暑がるくせして、何で脱がないんすか?」
そんな彼の姿を見て、黒い手袋を付けた茶髪の青年が呆れたように溜息をつく。
「これは俺のトレードマークだから、脱ぐとかありえねーの。でも一応できるだけ薄着はしてる。シャツの下は下着つけてないし」
「そういう問題じゃないと思うけど。全く、変な人だなー」
だらしないケイの様子に青年は苦笑する。
「そういえば、今日のペーパー何枚にする?」
脈絡もなく、ケイが茶髪の青年に尋ねる。
「んー、早く仕事終わらせたいし、六枚くらいいっちゃいましょうよ」
「六枚ぃー? 無理。ダルい。半分で」
「またダルいっすか。確かに、最近大口の仕事が立て続けに来てるっすからねー。まあ、三枚くらいでも良いか……多少長期になっても、その分お金貰えますしね」
「んじゃ、そういうことで」
「はいはい」
茶髪の青年は仕方なさそうに了解すると、気だるげに手を振るケイをその場に残し、キッチンに向かう。
そして青年が鼻歌を歌いながらランチの準備を始める音が聞こえた。
今日の仕事は夕方からだ。
──僕はある組織に所属しているエージェント。
あそこに寝転がっている白い頭は、僕の相方。
ベテランらしくて、相方は僕で三人目だと言っていた。
僕は二人目だけど、あの人は前の相方より大分変わっている。
と言っても、僕の一人目についてはバディを組んで二年もしない内に引退してしまったので、大したことは知らない。
彼についても僕はまだよく知らないが、色んなところが変わっている人だ。
ブラック珈琲は嫌いなくせにたまに一杯飲んで、二杯目からはホットケーキが焼けそうなくらい砂糖を入れて飲むのが好きだったり、緑茶は絶対飲まないけど、紅茶は水の代わりみたいに飲んでいたりする。
凄い偏食家のようで、スパイスとハーブの匂いが駄目で、ほとんど焼いてない生みたいな牛肉によく分からない黒い汁をかけたものを食べている。
特に変わっているのは――古い推理小説に出てきそうな探偵じみた長袖シャツとベストを常に身に付けていて、トレードマークだと自慢げにしているところ。
前の相方については、『嫌な奴』だったからあんまり話したくないと言って教えてはくれない――。
[終]




