竜の住む国 6
リヒトは両手で頭を庇いながら、後ろへと倒れこんだ。背中が床に着くと、腕で顔を覆い、横を向いて転がる。襲ってくるであろう炎に備えて出来るだけ距離をとろうと全力であがいた。
「みんな?」
ぽつりと声が聞こえてリヒトは動きを止めた。薄く目を開けると、イリスと同い年くらいの少女が廊下にぽつんと立っているのが見えた。少女は、兵士に気づき、次にリヒトに気がついて、二・三歩後ずさる。
「あ、きゃああ!」
やがて、燃えてほとんどなくなっている自分の服に気が付くと、悲鳴を上げて座り込んだ。その横で、老人が頬の傷に手を当てて、ゆっくり起き上がる。リヒトは混乱しながらも起き上がり、自分の上衣を脱いで少女に投げ渡した。
「一体何が」
兵士は、慌てて上着を羽織る少女と、呆然と立ち尽くす老人に目をやり、問いかけるような目でリヒトを見た。リヒトも少女と老人を気絶させるべきなのか躊躇い、二人はお互いに問いかけるような視線を交し合う。
「シシィ、どこだ」
「ゼノ! こっち」
焦ったようなゼノの声が低く響いて、リヒトは大声で答えた。間もなくゼノがマントで口を覆って、扉から現われた。
「ラビとミレス様は?」
「大丈夫だ」
「ハルは?」
「王宮に向かった。すぐに援軍が来るだろう」
リヒトはほっと胸を撫で下ろす。
「イリスは屋上にクストと居る。シシィもフィデリオも屋上に向かったから」
リヒトが言うとゼノも安心したように、大きくため息をついた。
「この歌、母様の眠り歌? 誰が歌ってるのかしら?」
老人に問いかける少女の声に、リヒトははっとして、ゼノの顔を見る。歌? 先祖返りを止める事のできる眠り歌……
「まさか……クスト!」
リヒトは叫んで、廊下を駆け出した。クストは眠り歌を知らないはずだ。カイゼが教えないと言っているのを聞いた。そんなはずはない。だが不安に煽られてリヒトは暗い階段を踏み外しそうになりながら上った。もし歌っているのがクストならば、永遠に目覚めない眠りについてしまう。
先祖返りの子供を抱いて階段を上っている兵士たちを追い抜き、シシィとフィデリオも追い抜き、四階分の階段を一気に駆け上がり、屋上に出る。
「イリス! クスト!」
クストはゆっくりと歌を歌っていた。その横で、クストにもたれかかる様に座ってイリスも歌っている。二人とも、体の力が抜けたように目を閉じていた。
「ダメだ! 起きろ! イリス! クスト!」
眠り歌をイリスが知っていた? クストは眠ってしまう事を知っているはずなのにどうして……リヒトはイリスを揺さぶり、クストの頬をバンバンと叩いた。
「だめだ! 歌うな! 起きろ!」
うっすらとイリスが目が開く。リヒトは歌うイリスの口を手で押さえ込んだ。
「歌っちゃダメだ、イリス。起きられなくなる!」
「大丈夫だよ」
イリスは眠たそうに目を瞑ったままのんびりと言う。
「だめだって言ってるだろ!」
つい荒くなった口調に、イリスは驚いたように目を見開き、頷いて自分の口を押さえた。それを確認すると、リヒトは硬い鱗に手のひらが切れるのもかまわずクストを叩く。
「クスト! ダメだ! 起きろよ! いやだ、いやだ!」
「……リヒト」
クストの口から言葉が漏れる。リヒトははっとして、クストの目を見るが、まだ閉じたままだった。
「クスト、やめろ、歌うのをやめろってば……お願いだから、起きろってば!」
リヒトは、クストに体当たりするようにして、その頭を持ち上げようとする。
「まだ、ダメだ。まだ、怒りが消えていない」
「もういいから! なんとかなるから! 起きれなくなるんだぞ!」
気だるげに言うクストに向かって、リヒトは必死に叫んだ。だが、その間も竜玉は音を奏でる事をやめない。このままではクストが永遠の眠りについてしまう。リヒトは満身の力を込めて、クストの頭を持ち上げようとした。
「リヒト、やめろ、怪我をするぞ。お前に会えて良かった……俺は、もう充分だ」
リヒトはクストの頬に頭をつけて、何度も横に振る。涙が頬を伝った。
「だめだ、いやだ、クスト、俺の為になら、止めてくれよ。他に方法はあるから、だから、歌うな……歌うなよ……頼むから」
せっかく、また会えたのに、仲間が見つかったのに。もう一人で山の中に居なくてもいいのに、どうして、リヒトはクストに縋りついて、やめてくれと懇願しながら人目も憚らず号泣する。
「あたしが……」
イリスの声にリヒトはぴくん、と顔を向ける。
「歌ったから」
イリスの頬を涙が伝っている。リヒトはイリスに向かって顔を横に振ったが、零れる涙をとめる事ができない。ゼノがそっとリヒトの肩を抱いた。シシィとフィデリオも屋上に現われて、泣きじゃくるイリスを抱きしめている。ゆっくりと、夜が明け始めていた。皆が見守る中、クストは短く息を吸い込んだ。
「……ああ、本当にまた会えたな……イリス」
硬く閉じられた瞳の奥で、クストは一体何を見ているのだろう。ため息のようにそれだけ言うと、大きく息を吐き出した。その声はとても愛おしそうで、その顔はとても幸福そうで、リヒトは再び、その首に思い切り抱きつく。
山の稜線から朝日が差し込み、歌いながら眠る竜を明るく照らした。
◆
夜が明けると、被害の全容が明らかになってきた。テュランは怪我をした者、家を失った者を街の宿屋という宿屋を借り切って保護した。王家を裏切っていた神殿の噂はたちまちに広がり、王宮では、手のひらを返したようにオルドヌを賢王だと称え、その死を惜しむ声が聞こえよがしに響いた。
いつまでも眠る竜から離れようとしなかったリヒトは、とうとうゼノに無理やり引きはがされると、テュランに神殿兵の家族を罰しないよう嘆願して、倒れるように眠り込んだ。イリスもまた、シシィの腕の中で、気を失うように眠りに落ちた。
あの夜から、半年が経とうとしている。
「……と、いうことでよろしいでしょうか」
賛成の手は参加人数と同じ数だけ上がった。その瞬間、先祖返りの出生に関する法が満場一致で可決された。
「終わりましたねー、王弟殿下」
「ああ」
「さすがの手腕ですなー、王弟殿下」
リヒトは鬱陶しい、という目でハルを睨んだ。テュランが被害者の救済と、オルドヌの葬儀の準備に忙殺される中、リヒトは先祖返りの今処遇についての法案を纏め上げた。赤ん坊はいつ生まれてくるかわからないからである。
先祖返りたちの世話は、シシィとフィデリオとカルラが買って出てくれている。彼らは十日以上も眠り続けたが、今は元気を取り戻し、神殿近くに住んでいた。以前よりも表情が豊かになった、とカルラの報告に書いてあった。オルドヌの葬儀後、ミレスも側室の座を捨て、協力してくれる手筈になっている。神殿の屋上で眠るクストには屋根が掛けられ、市民の出入りを自由とした。こんなことがあっても元気な街の子供たちが、毎日のようにクストの周りで遊んでいる。
ハルは、王弟殿下の護衛隊長になり、ラビも仕官して、母と弟妹たちをハウシュタットに呼び寄せた。父親は頑なに拒み、今もティレンで賄夫をしているという。マキノは、ラビとハルの家族の移動の護衛を勤めた後、引き止めるミレスを振り切ってティレンに戻った。
ゼノは状況が落ち着くと、カイゼに報告するといって、ザイレ島に向かった。そのまま、バルトに住む先祖返りの竜の頭数を把握する旅に出る。
イリスは未だ眠り続けている。
「イリスちゃんのトコに行こうぜ」
ハルは書類を纏めながら言った。リヒトはここ数日、忙しくてイリスに会いにいけていない。
「……うん」
リヒトはぼんやりと頷く。
「お前がそんなでどうするよ」
自分の主を「お前」呼ばわりして、ハルはリヒトより先に椅子に腰掛けた。
「俺とイリスはさ、ずっと同じ気持ちを抱えてたんだ」
リヒトも椅子に座り、疲れたように机にうつぶせになった。ハルにしか見せない姿である。
「生まれて来て良かったのか、誰かの犠牲の上に生かされた、その価値が自分にあったのか。この世界に生きる意味があるのか」
ハルは何も言わずに続く言葉を待つ。
「俺達は持ってる時間も違う……イリスはもう、こんな世界に目覚めたくないのかもしれない」
消え入りそうな声でリヒトは呟いた。その頭をハルはぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「だとしてもさ、行こうぜ」
最後にぽんっと頭を叩く。……おまえ、手打ちにするぞ、リヒトは俯いたまま言うと、内心を晒した照れ臭さを隠すために、一気に立ち上がった。
◆
「イリス、法律が出来たよ」
二人きりの室内で、リヒトはベッドで眠るイリスに声をかける。水のみを傾けて、少しだけ口に水を含ませると、白く細い喉がこくんと飲み下した。それは、イリスは生きている、と唯一思える反応だった。
「先祖返りは死ななくて済むんだ。竜玉が無いものは家族と一緒に普通に暮らせる。でも、まだ偏見も多いだろうから王都に来てもいい」
リヒトはそっとイリスの髪を撫でる。
「竜玉があった場合は、一応、ここに来る事になってる。心が安定したら、先祖返りの竜の近くであれば、好きなところに住んでいいことになってて、ゼノが今、先祖返りの竜の数と居場所を調べに行ってる。あと、クストを起こす方法も探しに。これはもう言ったっけ」
リヒトは、イリスの胸のあたりにそっと耳をつける。ことん、ことん、と竜玉の奥から命の音が聞こえた。その音に、遠くから響いたシシィが先祖返りの子供達を怒鳴る声が重なった。リヒトはふふっと笑う。
「起きてよ、イリス」
疲れ果て、うとうとしてしまったのだろう誰かに頭を撫でられる感触に、リヒトは目を覚ました。
「おはよう……リヒト」
「イリス!」
リヒトは弾けるように起き上がり、堪らずイリスを抱きしめる。小さい体はまるで重みを感じさせずに、リヒトの腕の中におさまった。
「夢を、見てたの」
イリスの言葉に、リヒトはイリスの肩に顔を埋めて、声もなく頷く。
「クストに乗ったの。もう一人女の子が居てね。変なの。その子もイリスというの」
イリスは細い腕をリヒトの背中に回して、そっと撫でる。
「楽しくて、幸せで、何も怖いことなんて無くて……ずっとここに居たいって思ったの」
イリスはそっと体を捻って、リヒトの顔を覗き込む。リヒトは慌てて涙を拭いて、イリスを見つめ返した。青い空のような真っ青な瞳が、まっすぐにリヒトを見つめている。
「あなたに会いたくて、戻ってきたの。辛くて悲しくて、怖いことばかりでも、あたしはリヒトと一緒に生きていきたい」
――「竜に守られた国バルト」が「竜の住む国バルト」と呼ばれるようになったのは、それから間もなくの事である。
最後までお読みいただきありがとうございます。
竜のクストの過去話を童話にした「ひとりぼっちの竜」も合わせてお読みいただけると嬉しいです。
作品に寄せていただいたイラストをHPにて公開しています。
興味のある方は下記バナーよりご覧ください。




