05. ほら、足は動く
ファブリスが部屋を出た後も、暫くそこから動けなかった。
頭の中がぐるぐるして、つらい。
心臓が嫌な音を立てて何も考えられない。
こんな感情、今まで抱いたこと無かった。
王子様に出会わなかったら、王子様が本をくれなかったら、こんなこと⋯⋯⋯。
あれは要らないもの。
最初から、私には必要のないものだった。
「⋯⋯最初から⋯⋯」
そう、最初から。
⋯⋯⋯。
「⋯⋯⋯っ」
────私に要らないものだなんて。誰が決めたの?
私は、"私が"、必要としているのに!
そう思ったら堪らなくなって、私はベッドから降りて立ち上がり、足がもつれる勢いで窓辺に駆け寄った。
窓を開け放つ。私の頬を鋭い風が掠めた。
下を向いても底なしの沼のようで、地面は遠く遠く、どこまでも見えない。
この部屋は城から離れた離塔にある1番上の一室。
降りようとしたって⋯⋯どうすることも出来ない。
落ちた本がこの下にあるのかも分からない。
大司祭やブラン家の者が回収してしまっているかも。
それでも、私は、何かに突き動かされていた。
「⋯⋯かみさま」
初めて心から神に祈る。
神様、グウィン様。どうか私をお守りください。
背後でヒューと風の音がする。
窓枠によじ登り、なんとか体を支えてそこに立つ。
重心をどこに置けばよいのか分からず、ぐらぐらと足が揺れた。
下を見た途端、さっきまでの勇気はどこへ、恐怖で体が縮こまる。
こわい。私は何をしようとしてたの。こわい⋯⋯こわい、嫌だ、やっぱり戻ろう、
その瞬間だった。一際強い風が吹いた。
髪が私の顔を隠し、思わず目を瞑る。
全てがスローモーションのように感じた。
「え、」
足を踏み外す。ふわりと胃が浮いたような感覚。
さっきまで立っていた窓が視界の中で歪みながら信じられないほど小さくなっていく。
手を伸ばすけど、どんどん──どんどん遠ざかって、あ、わたし、
「いやあ!」
───アイリス。
ふっと意識が消える瞬間、視界の端で、黒色の毛並みが───遮ったような気がした。
□
意識が浮上する。
ぱちりと目を開けたとき、真っ先に視界に飛び込んできたのは夜の空のような漆黒の髪と、横を向いたエメラルドの瞳だった。
⋯⋯王子様、とぽつりと呟いた声が聞こえたんだろうか。
彼がハッとしてこちらを見る。
「アイリス! ああ、目が覚めたか。本当に⋯⋯良かった」
───どうして、あなたがここに。
「お前の部屋に行くために塔へ向かう途中、お前が地面で倒れているのを見つけた。心臓が止まるかと思ったぞ、まさか塔から落ちたのかと───でもお前は息をしていたから、ここまで人の目を盗んでお前を運んだんだ」
私は生きている。
あの時、塔の1番上から落ちたはずなのに、それでも生きて、いつもの部屋のベッドで寝ている。
にわかには信じられないことだった。
「王子様が⋯⋯落ちる私を助けてくれたの?」
王子様は「いや」と首を振った。
「俺は倒れているお前しか見ていない。まさか、本当に塔から落ちたのか? 一体どうして」
おかしい。あの高さから落ちて、体の形を保っていられるはずがない。
じゃあ、誰が塔から落ちる私を受け止めたの。
⋯⋯そういえば。意識が落ちるほんの少し前に、誰かの声を聞いた気がする。
誰だったんだろう⋯⋯分からない。
「アイリス。どうして、塔から落ちた」
気が付けば、王子様が食い入るように私を見つめていた。
王子様は時折いつもこんな表情をする。
まるで私に願っているような、祈っているような。
王子様は⋯⋯私に何を望んでいるんだろう。
どうして、こんなにも良くしてくれるの。
「⋯⋯本を、取ろうとして」
小さく呟くと、王子様が「本?」と焦れたように尋ね返してくる。
「本とは⋯⋯俺がやったものか」
「⋯⋯うん」
「本が、窓から外に落ちたのか?」
「⋯⋯ファブリスが⋯⋯」
「ファブリス? 大司祭ファブリスのことか。あいつが何か?」
「ファブリスが⋯⋯本を、窓から落として」
そこまで言ったときだった。
ぶわりと寒気を覚えた。
驚いて視線を上げれば、王子様の様子がおかしい。
ひどく冷たい表情で、静かに怒りの炎を胸の内で燃え上がらせているようだった。
緑の瞳の奥でちらちらと光が見え隠れする。
「⋯⋯下衆が、」といっそう低い声で呟くものだから恐ろしくてびくりと震えてしまった。
「司祭如きの分際で⋯⋯そんな極悪非道なことが出来ると? 奴は何になったつもりだ? 王か? 神か? アイリスの管理者になったつもりにでもなっているのか」
「おうじ、さま?」
「今までも⋯⋯もういっそのこと、」
ふいに、はっと我に返ったように私を見つめる王子様。
さっきまで目に灯っていた怒りの炎は鳴りを潜め、ただただ怯える私だけがその瞳に映っている。
「⋯⋯すまない、怖がらせたな。気にするな」
どうして、そこまでファブリスに怒ってくれるんだろう。
私が、悪いのに。ファブリスから本を守れなかった、私が⋯⋯⋯。
「っ、お前が悪いんじゃない」
表情で私の言いたいことをまた悟ったのか、必死に縋り付くみたいに私の手を握る。
ひんやりとした冷たい手。それでも、守られてるみたいで、驚いたけど安心できた。
「俺は⋯⋯言い方が悪いかもしれないが、お前がそのように行動してくれて、少し嬉しい。
お前が初めてこの塔を出て、外へ行こうとしてくれて、単純に嬉しいんだ。
きっかけは何でもいい。些細なものでもいい。それが例えファブリスに捨てられた本だったとしても」
彼は慎重に言葉を探しているようだった。
私にどうしたら伝わるか、どのように言えば私が正しく理解できるか、ずっと考えてくれているのだと。
痛いほどに分かった。
「王子様」
「うん?」
「本⋯⋯なくなっちゃった」
「いくらでもやる。また持ってきてやる。ガスパール冒険記だったな」
「あのね、読めないところがあるの」
「教えるよ。何度でも」
ねえ王子様。
どうしてこんなにやさしくしてくれるの?




