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第87話 春の入口、空への答え

冬の終わりは、ある日きっぱり来るわけではなかった。

雪はまだ残っている。

朝は冷えるし、吐く息も白い。


だが、昼の光が少し長い。

水路の縁の氷が、昼には薄くなる。

土の匂いが、時々風に混じる。


村の誰もが、はっきり口にはしなくても分かっていた。

春が近い。


そしてそれは、もう一つの意味も持っていた。

答えの時が近い。



最初に異変に気づいたのは、やはりガレスだった。

昼過ぎ、森の入口近くで若い連中に足運びを教えていた老剣士が、ふと顔を上げた。


「来たな」


「何がです?」


「飛竜の気配だ」


「分かりません」


「分かるようになれ」


その声には、冗談の色がなかった。

レオが呼ばれて出てくる。

その時には、アカネたちまで妙に静かだった。

尾の火が、落ち着きなく揺れている。


「母飛竜か」


「もう、待ってる気配じゃねえ」


「答えを取りに来たか」


「たぶんな」


アズはその時、アリスの肩の上にいた。

少し伸びた身体。

焦げ茶の体毛の間から、鱗が綺麗に身体を覆い始めている。

翼も前より明らかに大きい。


そのアズが、森の方を向いて小さく鳴いた。


「分かるんだな」


「ぴゅ」


アリスは、そんなアズを見てそっと背を撫でた。

その指先に、アズはいつも通り少しだけ頭を擦りつける。

だが、目だけは森から外さない。


「今日は甘え方が違いますね」


「分かってるけど、不安でもあるのか」


アズはもう一度だけ鳴いた。

今度は、アリスの方を見てからだ。



その日の夕方、レオたちは森へ入った。

顔ぶれは絞った。

レオ、ガレス、アリス、エルマー、バルド。

そして、アズ。


テオドールもイルゼも、今回は村に残した。

春が近いとはいえ、森はまだ冬の名残を色濃く残している。

足場は悪い、寒さもある。

そして、相手は飛竜だ。


アズは、アリスの胸元に収まっていた。

以前より重くなったとはいえ、まだ十分抱えられる大きさだ。

ただ、前ほど赤ん坊ではない。


目が違う。

青い目の奥に、もう子供なりの意志が見える。


森の奥へ入るにつれ、空気が変わっていく。

あの重い気配。

雪の下の岩みたいな、静かで大きい存在感。


「いるな、前よりはっきりしてる」


先頭を行くガレスが、森の奥を見ながら呟く。


「冬を越したのか」


エルマーも頷いた。



母飛竜は、森の浅い層の岩陰の奥にいた。

だが、もう瀕死ではなかった。


翼はまだ完全ではない。

脇腹の古傷も、近くで見れば痕が残っている。

だが、目に力がある。

首も高く上がっている。

土に伏したままではない。


何より、纏う空気そのものが違った。


母飛竜は、五人を順に見た。

そして最後に、アリスの腕の中へ視線が止まる。

アズの身体がぴたりと固まった。


小さな翼がわずかに開く。

青い目が、じっと母飛竜を見つめる。

警戒ではない、驚きでもない。


もっと深い、説明のつかない反応だった。


「ぴゅ…」


小さな声。

けれど、いつもの甘えた声とは違う。


母飛竜の喉が、低く鳴る。

前よりも深い。

だが、あの夜のような痛みの色は薄い。


アズは、その声を聞いた瞬間、今度ははっきりと身を乗り出した。

アリスの腕の中で前脚を伸ばし、母飛竜の方へ行こうとする。


「アズ、分かるんですか?」


アズは答えるようにもう一度鳴いた。

今度の声は少し強い。


そして、そのまま母飛竜の方へ飛び込もうとして、ふと動きを止めた。

くるりと首を巡らせる。

見る先はアリスだった。


アリスは息を呑む。


アズは、母飛竜を見ている。

それは間違いない。

本能のどこかで、この大きな存在が自分の親だと分かっている顔だった。


だが同時に、アリスの方も見ている。

確認するように。

置いていかないでとでも言うように。


「…あ」


アリスが小さく漏らした。

レオも、それをじっと見つめていた。


「そういうことか」


エルマーが納得したような声を出した。


「生みの親は分かる」

「けど、育てたアリスも、もう親なんだな」


アリスは、胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。

嬉しいのか、切ないのか、自分でも分からない。


「行っていいですよ」


アリスは、アズに向かって小さく言った。


「お母さんです」


その声に背を押されたみたいに、アズはアリスの腕から下ろされる。

そのまま、よちよちと雪の残る地面を進んだ。

まだ足取りはおぼつかない。

それでも迷わない。


母飛竜も、首を低くする。

巨大な頭が、ゆっくりとアズの高さまで下がってくる。


鼻先と鼻先が触れた。


その瞬間、アズはぴゅ、と短く鳴いた。

母飛竜の喉も低く応える。

ただそれだけだ。

それだけなのに、誰が見ても分かった。


親子だった。


「…すげえな、ちゃんと親子ってわかるわ」


バルドが呟く


だが、その次の瞬間、アズはくるりと振り向いた。

そして、とことことアリスの方へ戻ってくると、その足元へぴたりと寄り添った。


アリスが手を伸ばすと、アズはそのまま身体を押しつける。

まるで、こっちもだと言うように。

アリスは目を丸くしたあと、少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「お母さんが二人いるつもりですね、この子」


「欲張りなやつだ」


ガレスが小さく笑う。


「でも、嫌じゃありません」


アリスは、アズを抱きかかえながら言った。


母飛竜の目が、そのやり取りを静かに見ていた。

怒りも拒絶もない。

むしろ、どこか納得したような眼差しだった。


『名前は?』


母飛竜が、古代の言葉で短く問う。

今度はアリスが答えた。


「アズです」

「青い目なので、少しだけ空の名から」


母飛竜は、長く息を吐きながら古い言葉を落とした。

それが笑いに近いのだと、今なら何となく分かる。


「悪くない、だな」


エルマーが少しだけ笑みをこぼす。


「お前最近、だいぶ平然と訳すな」


レオが少し驚いたように言った。


「慣れって怖いだろ」


「怖いな」


そこで、空気が変わった。

母飛竜の目が、今度はまっすぐレオを見る。


春までに答えを出せ。

あの冬の日、そう言った。

つまり今は、その時だ。


「レオ様」


アリスが小さく言う。


「ああ、返す」


レオは一歩前へ出た。

もう迷いはなかった。


「俺たちは、アズを育てる」

「この村で、村の子として」

「ただ生かすだけじゃない、ちゃんと育てる」

「飛べるようにして、生き残れるようにして」

「そして…」


そこで、レオは一度だけ息を吐いた。


「お前が言った騎竜の話も、受ける」


森がしんと静まった。


母飛竜の目が細くなる。

その反応を、レオは正面から受ける。


「ただし、勘違いするな」

「俺は、お前を飼うつもりはない」

「鎖で繋いで、命令だけを飛ばす気もない」

「それじゃ、たぶんお前も納得しないだろ」


エルマーが、そこで小さく唸った。

だが口は挟まない。


「形としては騎竜でも、中身は同盟に近い」

「俺は領主として村を守る」

「お前は、空からそれを支える」

「アズには、無理やりどちらかを押しつけない」

「アズが選べるように育てる」


その言葉に、アリスが少しだけ顔を上げた。

ガレスも横目でレオを見る。

そこまで言うか、と。


だが、レオは言葉を曲げなかった。


「そして、赤い飛竜の件だ」


母飛竜の気配が、そこでわずかに張る。

番を殺し、子を奪おうとした、あの赤い飛竜。


「今すぐ仇討ちはできん」

「村があり、人がいる」

「それを捨てて一頭追う気はない」

「だが、敵になるなら、いずれやる」

「お前のためだけじゃない」

「この土地で生きるなら、いつか避けて通れん相手だ」

「その時は仕留める、約束する」


それは、大言壮語ではなかった。

静かな約束だ。

だが、だからこそ重い。



母飛竜は、しばらく何も言わなかった。

風が木々を揺らす。

雪解けの匂いが、わずかに混じる。


やがて、母飛竜が低く、長く言葉を発した。

今度はエルマーだけではなく、アリスも一緒に拾う。


「なんて言った」


アリスが、少しだけ息を整えて答えた。


「良い、それで良い」

「ならば、我は汝の空となろう」


その言葉に、場の空気がまた変わる。


ガレスが深く息を吐く。

バルドは、少しだけ鳥肌が立ったみたいな顔だ。

エルマーは、妙に嬉しそうだった。


「空、か」


レオは無意識に言葉を落としていた。


母飛竜はさらに言葉を続けた。

エルマーがそのまま訳す。


「ただし、試す」

「汝が領主として、そして我が背に値する者か」

「空は誰にでも預けぬ」


そこで、ガレスが鼻を鳴らした。


「甘くねえな」


母飛竜は、今度はアズを見る。

アズはアリスの腕の中に寄りながら、それでも母飛竜から目を離さない。

小さな翼をぱたぱたと動かし、どこか誇らしげに胸を張った。


母飛竜の目が、そこで少しだけ和らいだ。

今度はエルマーが笑いながら訳した。


「まだ小さいな」

「だが、悪くない」


「完全に親の顔ですね」


アリスが素直な感想を漏らした。


その後、母飛竜は一つ、最後の言葉を残した。

母飛竜は、短く、だがはっきりと告げた。


「我が名は、ヴァルカ」


エルマーが若干震えながら、言葉を訳す。


「竜の名とか…もうお伽噺のようだな」


今まで、母飛竜は母飛竜でしかなかった。

だが、名を持った瞬間、その存在が一段違うものになる。


ヴァルカ。


焦げ茶の体、土を纏う飛竜。

冬を越え、子を託し、今また空へ戻ろうとしている母。


「覚えた、ヴァルカだな」


レオがヴァルカの目をはっきりと見ながら応えた。


母飛竜、ヴァルカは静かに頭を下げた。

恭順ではない。

認めた、という動きだった。


『春の後、来い』

『空の始まりを教える』


アズが、そこでまた小さく鳴いた。

レオは、足元の小さな飛竜と、目の前の大きな飛竜を見比べた。

冬の終わり、春の入口。

ここから先は、もう生き延びるだけの村ではない。

空まで含めた未来へ、踏み込むことになる。


レオ達が村へ引き返す時、ヴァルカは何も言わなかった。

だが、その目は確かにこちらを見ていた。


雪はまだ残っている。

だが、もう冬の色ではなかった。


踏みしめるたび、土が近い。

風の匂いも違う。

村へ戻れば、人も動き始めているだろう。


そして今、レオはようやく一つの答えを返した。


アズを育てる。

ヴァルカと組む。

空を持つ。


それは、ただの村の延長ではない。

もっと別のものの始まりだった。

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