第61話 裏庭の初会合
ガーネットが侍女服へ着替えて現れたのは、その翌朝だった。
まだ新領主館のすべてが完成しきったわけではない。
だが、使うべき部屋と、まだ手を入れるべき場所くらいは、もうはっきり分かれていた。
その中で、ガーネットは一切迷わなかった。
革鞄から取り出した侍女服は、派手ではない。
だが、きちんとしている。
布はよく手入れされ、形も崩れていない。
古いが、古びてはいなかった。
髪をまとめ、襟を正し、袖を整える。
それだけの所作で、空気が変わった。
レオも、ガレスも、テオドールも、エルマーも、なぜか背筋が伸びた。
レオは自分でもよく分からないまま、小さく息を吐いた。
勝てる気がしない。
理屈ではなく、空気で押される。
エルマーだけが、少し距離を取るような顔をしたが、その視線を受けてガーネットが柔らかく微笑むと、すぐに表情を改めた。
あの笑顔を前にすると、妙に反発しづらい。
押しつける圧ではない。
ただ、ここで雑に振る舞えば自分の方が情けないと自然に思わされる類の圧だ。
リーナは目を丸くし、サラは小さく息を呑んでいた。
館を回す女とは、こういうものなのかと、二人とも肌で理解した顔だった。
その日の朝一番、ガーネットは館の中央へ全員を集めた。
レオ、ガレス、テオドール、エルマー。
リーナとサラ。
そして、なぜか最初からそこにいたアリスまでいる。
ガーネットは一人ひとりを見渡し、それから穏やかな声で言った。
「この館は、住めればいいだけの建物ではありません」
「来客を迎え、話をし、書類を整え、人を通し、村の顔として見られる場所です」
「ですから、自分の寝床さえ確保できればいい、という感覚は今日で捨ててください」
男どもの顔が、じわりと固まった。
レオには寝台へ書類を積まないよう言い、ガレスには武器を廊下の壁へ立てかけるなと告げる。
テオドールには椅子の上の書類の山をやめさせ、エルマーには薬品と食器を同じ棚へ置くなと釘を刺す。
誰一人、まともに反論できなかった。
言っていることが全部正しいからだ。
しかも、その場の不満ではなく、これから館がどう回るかまで含めて整理された言葉だった。
レオは途中で諦めた。
諦めるしかなかった。
自分が領主であることと、館の中で一番正しい人間が誰かという話は、まったく別だった。
ガーネットはそのままリーナとサラの仕込みに入った。
リーナは丁寧だが、丁寧すぎて遅くなる。
そこを、叱るのではなく長所として認めた上で、静かな仕事を静かに早く積む方へ伸ばしていく。
サラは姿勢がよく、立っているだけで仕事のできる顔をしている。
その反面、表情と気配が少し強すぎる。
読み書きと伝達に向いているが、人へ出す時の角を少し削る必要がある。
二人の役割はすぐに分かれた。
リーナは館の内側。
掃除、寝具、洗濯、部屋の整え。
サラは館の外側へ近い場所。
書類の補助、伝達、来客の一次対応。
役目をはっきり切り分けられると、二人とも驚くほど素直だった。
自分が何をすればいいか見えると、人はちゃんと動ける。
ガーネットは、それを当たり前みたいにやってのけた。
数日もしないうちに、館の匂いが変わった。
窓の開け閉めが整い、寝具が干され、靴は玄関で揃い、洗った布と使う布の置き場が分かれた。
台所では食器の棚が分かれ、湯の回し方に順番ができ、残り物の扱いも雑ではなくなった。
武器には置き場ができ、書類には分類棚ができ、エルマーの試験器具は寝室から追放された。
それだけで、館は見違えた。
レオは自室の机へ座った瞬間、思わず黙った。
整っている。
整いすぎていて、逆に少し落ち着かないくらいだった。
だが、居心地が悪いわけではない。
ただ、自分が今までどれだけ雑に暮らしていたかを突きつけられているだけだ。
ガーネットはそれを見て、三日で慣れてくださいとだけ言った。
その口調が昔と変わらず、レオは少しだけ笑ってしまった。
ただ一人、アリスだけは少し別だった。
客間住まいで、しかも本人が自分のことは自分でやれるつもりでいる。
だから館の中を人に触らせたがらない。
剣も鎧も、できるだけ自分の手元に置きたがる。
それでもガーネットの前では妙に素直だった。
剣は寝台ではなく壁掛けへ。
鎧は客間の中で毎晩磨かない。
泥は落としてから入る。
返事だけは無駄に立派で、注意された内容はちゃんと守る。
ちゃんとした年上の女に弱いのかもしれないと、エルマーが面白がって言ったが、レオも否定はできなかった。
ただ、館の中でのアリスはまだよく見えないところもあった。
元気で、真っ直ぐだ。
悪気はない。
そこまでは分かる。
だが、それだけでは測れない部分もある。
それが見えたのは、数日後の朝だった。
その朝、レオは館の裏手へ回っていた。
建て足しの導線と、裏庭から物資を運び込む経路を見ておきたかったのだが、人の気配に気づいて足を止めた。
裏手の空き地。
まだ土の匂いが強く残る場所で、アリスが一人、剣を振っていた。
最初は、ただ元気よく素振りしているだけかと思った。
だが、一目見た瞬間に考えが変わった。
型だ。
しかも、かなり正統な騎士剣の型だった。
足運びが崩れない。
腰が浮かない。
切っ先が遊ばない。
振り下ろしも、払う軌道も、返しも、ちゃんと筋が通っている。
見よう見まねではない。
叩き込まれた剣だ。
教会育ちの剣ではなく、きちんと騎士の系譜にある型だと、レオにもすぐ分かった。
地方とはいえ子爵家の娘、という話は伊達ではないらしい。
アリスはまだレオに気づいていない。
朝の空気を吸い込み、一挙手ごとに足を運び、流れるように剣を繋いでいく。
細い体だ。
だが、芯がぶれない。
型の中に無理がなく、余計な力みも少ない。
勢いだけの剣ではない。
毎日きちんと繰り返してきた者の剣だった。
レオは木陰に寄ったまま、しばらく黙って見ていた。
正直、少し見くびっていた。
教会の旗、騒がしいシスター。
その程度の認識だった。
だが、これは違う。
少なくとも剣については、ちゃんと積んできた人間だ。
評価を上方修正する必要がある。
その時、アリスが最後の一閃を終え、ゆっくり息を吐いた。
ようやくレオの気配に気づいたらしく、振り向いて少しだけ目を丸くする。
「あ、見てました?」
「少し」
「少しにしては、だいぶ前からいた顔ですね」
「気づいてたのか」
「最後の方で」
「なら止めればよかっただろ」
「ちゃんと見てる人の前で止める方がもったいないです」
朝の光の中で、アリスは剣を下ろしながら笑った。
その笑い方は妙に明るかったが、剣を持っている時の目はさっきまでとは違っていた。
軽くない、ちゃんと真剣だ。
「正統な型だな」
「父の残した教本と、家が亡くなってからも剣を教えてくれた家臣がいましたので」
「そうか」
「子爵家なんて大した家じゃなかったですけど、人の縁に助けられたんです」
「いい領地だったんだな」
「それ、褒めてます?」
「かなり」
アリスの目がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし」
「ただし?」
「型はいい。でも、実戦になると別の顔になるだろ」
「なります」
「だって相手、待ってくれませんし」
その返しに、レオは少しだけ笑った。
剣筋がしっかりしていて、型も正しい。
しかも、それを実戦用の頭で崩せるつもりでいる。
ただの元気な娘ではない。
「見回りに出す価値はあるな」
「え?」
「そのうち昼の外回りに付き合ってもらう」
「本当ですか!」
「本当だ」
「やります!」
「そうだろうな」
アリスは剣を胸の前で軽く立てると、やたら嬉しそうに笑った。
単純だ。
だが、その単純さが悪くないと、レオは少し思い始めていた。
その日の昼、館の中ではまたガーネットが男どもの生活を矯正していた。
来客用の茶器の置き場。
書類棚の使い分け。
寝所へ持ち込む物の線引き。
館の中を回すための流れを、少しずつ形にしていく。
アリスも、そこへ戻ってくる頃にはもう朝の鍛錬を終えていて、妙に顔色がよかった。
体を動かしたあとの、すっきりした顔だ。
ガーネットはそんなアリスを一目見て、すぐに察したらしい。
「朝から振っていたのね」
「はい!わかるんですか?」
「汗の引き方と髪の乱れで分かります」
「さすがです!」
「褒めなくて結構です」
そのやり取りを見ながら、レオは朝の光景を少し思い出していた。
幼い頃、自分が剣を握り始めたばかりの頃は、型を褒められることが嬉しかった。
ただ強いと言われるより、ちゃんと見て分かる人間に剣を認められる方がずっと嬉しかった。
アリスも、たぶん同じなのだろう。
そう思うと、少しだけ親近感が湧いた。
「どうしました?」
のっそり出てきたテオドールが聞く。
「いや、アリスの評価を少し改めた」
「剣ですか」
「ああ」
「どうでした?」
「正統な騎士の剣だ」
「しかも、思ってたよりだいぶいい」
「それは収穫ですね」
テオドールはそこで、少しだけ目を細めた。
「では、教会の旗に加えて、ちゃんとした実働要員にもなる」
「それなら扱い方も変わりますね」
「少しな」
「よかったですね」
「何がだ」
「面白い人が増えました」
「言い方」
その言い方はどうかと思ったが、間違ってもいなかった。
ガーネットが館を整え、リーナとサラがそれを支え、アリスが思った以上にちゃんと剣を振る。
新しい領主館は、ようやく本当に回る場所になり始めていた。
そして、その中にいる人間たちも、少しずつただの来訪者や同居人ではなくなっていく。
レオは新しい館の空気を吸い込みながら、静かに思った。
まだ全部は整っていない。
だが、確実に形にはなっている。
侍女長がいて、館付きの侍女が育ち、教会のシスターは思ったよりちゃんと剣を振る。
面倒は増えた。
だが、その面倒が今は少しだけ頼もしかった。
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