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「どうぞ」


 ディララが頷くと、銀盆を手にしてフィクレトが作業部屋に入ってきた。

 盆の上には茶器が乗っている。


「肌寒いから、温かい紅茶でもどうかな」


 フィクレトは盆を窓際の円卓の上に置いた。

 そこだけはいつも画材を置かないようにナムークから口うるさく言われている場所だ。

 ディララが喉の渇きや空腹を覚えると、なにかしらの飲み物や食べ物が置かれている。

 多分、ナムークかセミハが運んでくれているのだろうが、作業に集中している間はディララが人の気配を意識することはない。

 円卓の上に画材が置いてあると移動して良いものかどうかわからなくて困る、と一度だけセミハに言われたことがあるのだ。フィクレトから、ディララの作業の邪魔をすることがないように命じられているセミハは、絵を描いている最中のディララに声をかけることはない。そのため、画材を退けても良いかどうかさえ訊けないそうだ。


「いただくわ」


 ディララが答えると、フィクレトは慣れた手つきで磁器のポットからカップに紅茶を注ぐ。そして、砂糖壺から匙で山盛りの砂糖をカップに入れた。

 フィクレト自身は紅茶にほとんど砂糖を入れずに飲むのだが、ディララのカップにはたくさん入れる。糖分をたくさん摂った方が疲れが取れる、と彼は口癖のように言う。


「はい、どうぞ」


 できあがった紅茶のカップをフィクレトは静かにディララの前に置く。

 白い湯気がゆらゆらと立ち上るカップの中のは、赤黒い紅茶がなみなみと注がれている。

 外はほとんど風が吹いていないらしく、庭の草木の葉擦れの音ひとつ聞こえない。

 深夜ということで屋敷の中も寝静まったように静かだ。


(湯気の音が聞こえてきそう)


 ぼんやりと紅茶のカップを見つめながらディララは思った。

 この屋敷は普段は静まりかえっていることが多い。

 人の話し声がしないわけではないが、ディララ自身は話をするのが苦手で、フィクレトとナムークが喋っていることがほとんどだ。

 そんな落ち着いた家の中に今日は大勢の客がやってきたせいか、やけに賑やかだった。

 人の話し声で屋敷内が騒々しかったせいか、知らない人がたくさんいたせいか、いつになく気疲れしていたことをディララはいまになって気づいた。

 客人たちが去った後の、家の中の熱が冷めていくような感じは悪くはないが、普段からこの家に人が集まらないのは自分のせいだと思うと気持ちが重くなった。

 フィクレトは友人を家に招かないし、ナムークも同じだ。

 フィクレトの両親や兄弟も滅多に訪ねて来ない。


「ララ。バルラス王子のことだけど」


 カップには手を伸ばさず、魅入られたように湯気を見つめ続けているディララにフィクレトが声をかける。


「うん?」

「いまからでも断ろうと思えば断れるから、嫌だったら言ってくれたらいいよ」

「……うん。心配してくれて、ありがとう」


 フィクレトに視線を移したディララは、気遣うように自分を見つめる彼の表情からすぐさま目を伏せた。


「いまのところ、多分大丈夫だと思う。ナムークが言うには、そのうち殿下は弟子なんてやってられないって思うだろうってことらしいから、向こうから断ってくれる可能性もあるわ」

「断るかなぁ」


 腕組みをしてフィクレトが唸る。


「殿下は、わたしの作品を評価してくださっているのでしょうけれど、作品と画家は同じじゃないってすぐ気づくでしょう。それに、弟子って言っても、ナムークはわたしの助手みたいなものだし、同じことを殿下にしていただくわけにはいかないわ」

「うん。それは絶対に駄目だ」


 食い気味にフィクレトも同意を示す。


「ナムークって、わたしが無茶を言っても、さっきと言ってることが違うとか文句を垂れたり怒ったりしながらでも手伝ってくれるけど、殿下はきっと無理だと思うのよね」

「ナムークは、君が気まぐれで言うことをころころ変えているわけじゃないことはわかっているはずだよ」


 フィクレトも屋敷にいるときはディララの作業を手伝ってくれることがある。

 そして、画架の位置がなんかしっくりこない、窓から差し込む陽射しがきつすぎる、椅子が高くて落ち着かない、と作業部屋の中をぐるぐる回って落ち着ける場所を探すディララが腰を据えて制作を始められるまで付き合ってくれるのだ。


「気まぐれとほとんど同じじゃないかしら。明るい赤色で塗りたいと思って赤い顔料を混ぜていたのに、できあがった途端にやっぱりもっと黒っぽい赤にしたくなったって言うんだもの」

「色はできあがってみたいと、絵に合う合わないってのはわからないところもあるから、仕方ないんじゃないかな」

「そういうことをナムークの前で言うと、『フィクレトは姉さんの味方ばっかりする』って拗ねるわよ」

「僕がララの味方をするのは当然だろう?」


 くすくすとフィクレトが楽しげに笑う。

 その声の響きが耳に心地よかったので、ディララはまた視線を彼に向けた。


「僕はいつだってララの味方をするよ。バルラス王子を弟子にしたくないと言うなら、理由なんていくらでも適当にでっち上げてでも断る」

「組合長に文句を言われるわよ」

「かまわないよ」

「王家の不興を買うかもしれないわ」

「僕は別にかまわないよ。まぁ、父さんたちは商売がやりにくくなるかもしれないけれど、そこは商売人としての父さんたちの腕の見せ所じゃないかな。どうやって困難を乗り越えるかってところとかさ」


 フィクレトは父親や兄と同じ業界で仕事をしつつも、シファーア商会の傘下で画廊を経営しているという意識はほとんどない。どちらかといえば、それまで自分が働いて貯めた金で画廊を開き、シファーア商会の名前を利用しつつも、商会とは一定の距離を置いている。

 あくまでもフィクレトは独立して画廊を営んでいる、という姿勢だ。


「まぁ、ララの絵が正当に評価されなくなったら、さすがに悲しいけどね。芸術品は良くも悪くも権威とは無縁ではないからね」


 残念そうにフィクレトは苦笑いを浮かべた。


「……そうね」


 王侯貴族に認められることが芸術家として世間に認知される第一歩であることは、ディララも理解している。

 だから、第一王妃の肖像画の依頼は受けたのだ。

 フィクレトも、第一王妃の肖像画は是非引き受けるべきだと強く勧めてきた。


「でも、多分大丈夫だと思うわ。ただ、わたしが殿下に失礼なことを言ったりするかもしれないけれど。弟子って言っても、殿下はわたしに絵を教わりに来るわけじゃないわよね?」

「そんなことはないと思うけど」


 フィクレトもその点は組合長からはっきりと聞いていないようだ。


「ララは普段どおりにしていれば良いよ」

「普段どおり……」

「えっと、あまり堅苦しくないていどで」


 日頃のディララの振る舞いを思い出したのか、フィクレトが訂正する。


「殿下を無視しないようにすることだけは気をつけるわ」

「うん……そうだね……」


 制作に集中しすぎると、周囲から声をかけられてもディララの耳に届いていないことが多い。

 フィクレトやナムークであれば慣れているので気にしないだろうが、バルラス王子であれば最初は無視されたと思うかもしれないし、それで不敬だと言い出すかもしれない。

 ディララもフィクレトも、バルラス王子がどのような人物かよくわからないため、どのように接すれば良いのかわからなかった。


「君の集中を削ぐようなことだけはしないように、最初に殿下に説明しておく必要がありそうだね」


 フィクレトの言葉に、ディララは首を傾げる。


(もしかしてフィクレトは、わたしがバルラス王子の弟子入りをいまからでも撤回して欲しいって思っているのかしら)


 彼の言葉の端々からは、そんな気配がした。


(うん……まぁ、わたしがなにかやらかすんじゃないかと考えたら、彼も気が気じゃないでしょうしね)


 すこしだけ冷めた紅茶のカップを手に取りながら、ディララはふうっと紅茶に息を吹きかける。

 白い湯気がすっとフィクレトの方に流れた。

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