338.三相合一
ツラナミ沖に、絶叫が響き渡った。
折れたマスト、傾いた甲板、海に投げ出された兵士たち。
キョクトウも連邦も関係なく、誰もが同じように恐怖の声を上げていた。
海面の中央にそびえるのは、黒い巨影。
触手を幾重にも蠢かせながら、まるで世界そのものを呑み込もうとしている。
(……このままじゃ、数百人は死ぬ!)
迷う余地はない。
俺はシュヴァルツハーゼを構え、全身に氣を巡らせた。
――一瞬で斬り殺す。
だが、その瞬間だった。
幻魔の触手が天に伸び上がり、黒い光を帯び始めた。
耳を裂くような振動音が広がり、バチバチと弾けている。
「……帯電してるのか!?」
嫌な予感が全身を駆け抜ける。
このままでは海全体に高圧電流が走り、海に落ちている者たちは――。
「ふざけんなッ!!」
怒号とともに、俺は氣を一気に解放した。
大気が震え、海がうねる。
周囲の人々――数百人に及ぶ漂流者たちを、〔念動力〕で一斉に引き上げる。
海から持ち上げられた人々が次々と宙に浮かび、無数の水滴が霧のように散った。
頭の中で誰かが悲鳴を上げているような錯覚。
脳が焼けるほどの集中を強いられ、神経が軋む。
(落とすな……絶対に、落とすな……!)
氣の制御に全神経を注ぎ込む。
わずかな乱れでも、誰かの命が消える。
自分の身動きすらままならない――そんな極限の状態の中で、
――風を裂く音がした。
視界の端、巨大な触手が迫る。
避けられない。
だが、俺の前に黄金の軌跡が走った。
「――っ!」
次の瞬間、触手が斜めに切り裂かれ、海へと落ちた。
斬ったのはオリヴァーだった。
「王を討ちたいなら、その前に俺を討ってもらおうか!」
「……オリヴァー、助かった!」
「オルンはそのままみんなの安全確保を。こっちは俺に任せろ!」
オリヴァーが剣を掲げ、低く呟く。
「――【金糸雀之鎧装】」
金糸雀色の魔力が彼の身体を包み、鎧と光翼を形作る。
光の翼をはためかせ、一直線に幻魔へ突っ込んでいった。
金色の軌跡が触手を斬り裂き、黒い体表に傷を刻む。
羽根が細かい刃となって降り注ぎ、怪物の動きを鈍らせていく。
一方で、俺はなおも〔念動力〕を維持していた。
人々の恐怖が波のように押し寄せ、制御の糸を乱そうとする。
「落ち着け……大丈夫だ、全員助けるから……!」
声を掛けながら氣を練り直す。
その間も、オリヴァーは幻魔と正面から激突していた。
金と涅の光が交錯し、刃と触手が火花を散らす。
あまりにも巨大な力の衝突に、空そのものが悲鳴を上げているようだった。
オリヴァーは善戦していた。
翼を翻し、斬撃と宙を舞う羽根を連携させ、幻魔の動きを確実に削っていく。
だが――決定打がない。
どれほど触手を切り裂いても、傷はすぐに再生してしまう。
(……やはり、魔力による攻撃じゃ斃せない)
幻魔は邪神の魔力から造られた存在。
同質のエネルギーで打っても、破壊には至らない。
本体を断つには、氣――生命の力で構成された攻撃を急所に叩き込むしかない。
とはいえ、今の俺は〔念動力〕で数百人を浮かせたままの状態だ。
氣の制御だけで精一杯で、異能の再現など到底無理――。
だが、諦めるわけにはいかない。
海にいる人々は限界だ。
暴れ出した者を押さえながら、俺は周囲を見渡した。
――あった。
比較的被害の少ない船が、一隻だけまだ形を保っている。
船体は傾き、帆柱は折れているが、まだ浮いている。
限界近くまで氣を操っている状況では、魔力由来である異能の行使は困難を極める。
だが、そんな泣き言を零して諦めれば、大量の人が死ぬ。
俺は、誰も喪いたくない。
誰も――死なせたくない。
俺が戦っている理由は、人を生かすためであり――未来に繋げるためなのだから。
「戻れ……!」
【時間遡行】を再現する。
軋んでいた船体が音を立てて歪み、砕けた木片が逆流するように元の位置へ戻っていく。
帆が再び張られ、折れた柱が再生する。
視界がぐらりと揺れた。
膝が震える。
頭の芯が焼けるように熱い。
けれど、そんなものを気にしている余裕はなかった。
――わずか十数秒。
その時間が非常に長く感じながらも、船は壊される前の姿を取り戻した。
「全員――あの船へ!」
氣を操って、人々を船の上へと降ろしていく。
次々と甲板に落ちる水しぶき。
全員は乗せきれなかったが、それでも半数以上は救えた。
余裕が生まれたところで魔力を操作する。
「――凍れ!」
氷の花が海上に咲き広がり、船の周囲を瞬く間に凍らせていく。
凍結した氷板を足場に、残る者たちを順に下ろした。
空気が冷え、潮風が凍気に変わる。
ようやく全員を下ろし終えたとき、俺は大きく息を吐いた。
張りつめていた氣の糸が解け、膝が震える。
甲板の上では、キョクトウ兵と連邦兵が互いを睨み合っていた。
だが、誰も武器を取ろうとはしない。
まだ生きている――その事実だけで、十分だった。
そんな中、一人の連邦兵がふらつきながら立ち上がった。
傷だらけで、顔は煤けている。
それでも、彼は震える声で俺に問うた。
「お前……《魔王》だろ……? なぜ……俺たちを、助けた……? アンタは……敵だろう……」
その問いに、俺はしばし黙した。
戦火で焼けた海の匂いが鼻を刺す。
吹き抜ける冷風の中、ゆっくりと答える。
「……敵だからって、見捨てていい理由にはならないだろ」
兵士は息を呑む。
俺は視線を海へ向けたまま、言葉を続けた。
「ここには、勝ちも負けもない。ただ、助けを求める声があった。それを聞いて、手を伸ばさないなんて――俺にはできないだけだ」
波の音が、しばし沈黙を埋めた。
その静けさの中で、兵士が膝をつき、深く頭を垂れた。
その姿を見ても、俺は何も言わなかった。
ただ、もう一度だけ海を見渡す。
黒い巨影――幻魔は、なおも蠢いていた。
触手が空を切り裂き、再び暴れ出そうとしている。
休む暇などない。
まだ、終わっていない。
【流翔】でオリヴァーの隣まで移動する。
「オリヴァー、ありがとう。あいつの注意を引いてくれて助かった」
「本当は斃したかったんだがな」
「充分だ。俺が止めを刺す。オリヴァーは邪魔な触手を消してくれ」
「あぁ、任せろ」
オリヴァーが笑う。
次の瞬間、金色の翼が強くはためいた。
オリヴァーと幻魔が再び激突した。
風が凪いだ瞬間、俺はシュヴァルツハーゼを構えた。
「やるべきことは、――三つの力を調和させること」
俺は自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、自身の中に在る氣と魔力の流れを束ね、相克させる。
そこへさらに、体内に潜む第三の力――妖力を呼び起こす。
妖力が魔力と氣の狭間で揺れた。
(氣と魔力の相克で生じる反動を、妖力で抑える)
身体の内部で、三つの力が衝突した。
「――【三相合一】」
全身を巡る氣と魔力がぶつかり合い、電光のように弾ける。
身体に流れる破壊の奔流を、妖力が包み込み、溶かしていった。
氣と魔力と妖力が完璧な調和を果たし、黝い力となった。
続いてシュヴァルツハーゼを黝い力で包み込む。
刹那、空気が凍りついたように静まり返った。
蒼黒い粒子が浮かび、夜の海のように揺らめいた。
「――【統理之黝剣】」
その言葉が空気に溶けた瞬間、世界が息を潜めた。
魔力・氣・妖力――異なる三つの力が調和し、剣の形に収束されていく。
そして現れたのは、魔剣とは似て非なる黝剣だった。
オリヴァーの全身から溢れる光が刃となり、四方から襲いかかる触手を一気に切り裂いていく。
断面から涅い瘴気が吹き出し、海が轟音を上げて揺れた。
「オルン、今だ!」
オリヴァーが道を切り開いた。
黝剣を振り下ろす。
「――天玄」
黝い斬撃が幻魔に届いた。
接触した瞬間、氣と魔力の相克によって発生した万象を破壊する衝撃波となって幻魔を消し去った。
光が収まり、風が戻る。
嵐は止み、空の雲が裂けて、陽光が差し込んだ。
波に漂う黒い霧が霧散し、潮の匂いが再び戻ってくる。
「……終わった、か」
息を吐きながら剣を下ろす。
「まさか……本当に妖力を使いこなすとはな……」
オリヴァーが隣に降り立ち、かすかに笑った。
金色の鎧が光の粒となって消えていく。
「あぁ。と言っても、まだ完全に御しきれているわけじゃない」
「それでもいつかは完全に使いこなすんだろ?」
「当然。無意識化でこの状態を維持できるようになってみせるさ。それが出来なきゃ邪神には勝てないだろうからな」
そう言いながら、遠くに視線を向ける。
そこには赤い外套を纏った五人の子どもたちがいた。
彼らは何も言わず、ただ無感情な瞳でこちらを見つめていた。
まるで、今の一部始終を〝記録〟しているかのように。
あいつらからも話を聞かないといけない――そう考えた瞬間、彼らは同時に背を向けた。
赤い外套をはためかせながら、西の空へと飛び去っていく。
「オリヴァー、ここは任せてもいいか?」
「あぁ、行ってこい!」
頷き合い、俺は風を切った。
【流翔】を発動し、五つの影を追う。
しばらく進むと、先ほどまでの空模様が嘘のような快晴の元で見覚えのある二人の姿があった。
シオンとルーナだ。
二人とも酷く消耗していた。
シオンはルーナの腕の中でぐったりとしている。
ルーナの髪も、別れ際の白亜色ではなく、元の藍色へと戻っていた。
二人から少し離れた場所に居た赤い髪の少女が、手を掲げた。
瞬間、炎弾が放たれる。
熱が空気を裂き、光が二人を呑み込もうとしたその刹那、俺は飛び込んだ。
魔剣を振るい、炎弾を相殺する。
「――破魔天閃!」
黝い斬撃が空を裂いた。
炎弾を吹き飛ばしながら降り立つ。
黝衣と黝剣を携えた俺を見て、ルーナの瞳がわずかに揺れた。
「オルンさん……!」
周囲を見渡すと、五人の少年少女の他に――赤い髪の少女、そして特徴という特徴のない男が一人。
計七人が、海風に靡く外套の裾を翻していた。
赤い髪の少女は間違いない。
あの髪、あの炎――《焚灼》ルアリだ。
彼女は怒りの形相でこちらを睨みつけてくる。
だが、その身体は既に限界に近いようだ。
ボロボロで息も途切れ途切れ。
気力だけで立っているのが分かった。
「……ここまでですね。退きましょう」
隣にいた男が淡々とそう告げる。
ルアリが舌打ちをした。
次の瞬間、彼女の足元で炎が膨張する。
「――っ!」
轟音と共に白煙が弾けた。
炎と風が混じり、視界が真っ白に染まった。
煙の向こうから、複数の気配が遠ざかっていく。
――逃がすか。
そう思った瞬間、ルーナが俺の腕を掴んだ。
「オルンさん! シオンさんの状態を見てください、体温が……!」
見ると、シオンの顔は蒼白になっていた。
腕に触れると、ひやりとした冷たさが伝わる。
「……どうしてこんな状態に?」
「時間を止める魔法を、使ったんです」
「まさか、【凍獄之箱庭】を!?」
驚愕の声が漏れる。
あれは、この世界から術理に干渉して時間の流れを操作する魔法だ。
術理の操作は本来、不死鳥の社に赴いてそこに在る水晶から行うもの。
その過程を飛ばして術理に干渉するとなれば、相応の代償がある。
「……大丈夫だ。すぐに良くなるから、あと少し耐えてくれ、シオン」
俺は掌をかざし、ナギサの異能【霊魂干渉】を再現する。
同時に、支援魔術である【全能力上昇】を発動した。
シオンの身体で揺らめく氣の波を補足し、それを【霊魂干渉】活性化させる。
やがて、シオンの頬に微かな血色が戻った。
凍てついていた手指が、わずかに温もりを取り戻す。
「……ふぅ。これで、ひとまずは大丈夫だろう」
「本当ですか……。良かったです……!」
ルーナが安堵の息を漏らし、シオンを抱きしめる。
俺は剣を収め、空を仰いだ。
戦いは、終わった。
けれど――胸の奥に小さな棘が残る。
あの少年が言っていた言葉。
――「第一検証実験、終了。第二検証実験に移る」
実験とは、幻魔の出現を指していたのか?
それとも、別の何かか。
風が吹く。
海面に陽光が反射し、夜明けのような光が世界を包む。
この戦いの幕が下りる音が、聞こえた気がした。
だが、進むべき道はまだ続いている。
術理の調査は順調に進んでいる。
自分自身の身体を使い、遺伝子へ干渉する方法も識った。
そう遠くない未来、全人類に〔破魔〕を宿らせる魔術も完成するだろう。
それはすなわち――術理の壁を破るための準備が、着実に整いつつあるということ。
同時に、教団、延いては邪神との最終決戦の刻が、確実に近づいてることを意味していた――。
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