336.【sideシオン】花天月地②
それでもルアリはなおも退かない。
消えた左腕の代わりに、背後から新たな炎を噴き上げ、己の形を補うように再構築していく。
「私たち二人なら倒せる!」
シオンが声を上げながら、氷の精霊を周りに集める。
「はぁ……はぁ……」
その隣では、ルーナが息を荒らげている。
肩で呼吸を繰り返し、頬に浮かぶ汗が白亜の光に照らされてきらめいた。
(……っ! ルーナの消耗が激しい)
シオンの目が、わずかに細まる。
初めての【月精調和】は、想像以上にルーナの体力を奪っていた。
「大丈夫です、シオンさん。まだ、戦えます」
ルーナはそう言って、再び掌に光を集める。
だが、彼女の足元の海が一瞬ぐらりと揺れた。
魔力の制御が乱れている証拠だ。
このままではルーナが先に力尽きる。
その様子を見たシオンは即座に判断した。
「ルーナ、二つ確認させて。一つ目、オルンとオリヴァーも不死鳥の社から出てるの?」
氷の結晶が砕け散る中、シオンは短く息を整えながら問う。
視線は決してルアリから逸らさない。
風圧と熱が肌を焼く中で、声だけが凛として響いた。
「えっと……。はい。二人も別のところで戦っているはずです」
ルーナは息を切らしながらも即座に答える。
「そっか。じゃあ、あそこには誰も居ないんだね」
シオンが短く頷く。
その表情には焦りも迷いもなかった。
ただ状況を整理し、次の手を探る瞳だけが真っ直ぐだった。
「じゃあ二つ目、ルアリを一撃で倒せる魔法はある?」
問いは淡々としていたが、その裏には切迫した決断の響きがあった。
「……絶対とは言い切れませんが、彼女を無力化できるであろう魔法はあります。しかし、今の私では準備にはかなりの時間が必要になります。戦闘しながらでは、とても……」
ルーナは唇をかみ、視線を落とす。
その声には迷いが混じっていた。
シオンはわずかに目を細め、吹き荒れる風の中で髪をかき上げた。
彼女は静かに頷き、言葉を紡ぐ。
「わかった。私がその時間を創る」
シオンはまっすぐにルーナを見据えていた。
「だからルーナは、何が起こってもその魔法を完成させて」
その言葉に、ルーナの胸が強く鳴った。
「わかりました!」
応答したルーナが、集中力を高めながら周囲の精霊を操り始める。
その間に、シオンは一気に距離を詰めた。
ルアリが咆哮を上げるのと同時に、シオンは静かに魔法を紡いだ。
「――【絶対零度】」
瞬間、世界から熱が奪われた。
空気が鳴動し、海面が瞬時に凍りつく。
本来なら、あらゆる存在を死の静寂へと閉ざす極寒の魔法。
しかし、ルアリの炎はそれを拒むように燃え盛り、完全に凍りつくことはなかった。
それでも確実に空気は冷え、雨は霰へと変わっていく。
シオンの髪が冷気に揺れ、氷の結晶が風に散った。
「……この程度で」
ルアリが吐き捨てるように言い、燃え上がる腕を振りかざす。
再び炎の奔流が形成されようとした、その瞬間――。
「――【刻凍之大河】」
シオンの次の魔法が発動される。
無数の氷片が光を放ち、巨大な氷塊が現れる。
ルアリの身体が氷の檻に包まれ、動きを止めた。
時間を凍結する氷塊に閉じ込められたルアリだが、その瞳はまだ動いていた。
氷の中で、赤い光がゆっくりと揺らめく。
「……効かない、か」
シオンが小さく息を吐く。
次の瞬間、ルアリの炎が氷の内部から噴き上がり、罅が走った。
「これでは……私の魔法が完成するよりも先に、《焚灼》が……!」
ルーナが焦りの声を上げる。
だが、シオンは不敵に笑んだ。
「問題ない。――この数秒が欲しかっただけだから」
その言葉と同時に、周囲の氷の精霊が一点に集まる。
氷塊を突き破り、炎が外へと噴き上がった。
そこへシオンが杖を掲げ、静かに名を告げる。
「――【凍獄之箱庭】」
次の瞬間、世界のすべてが凍り付いた。
音が消え、風が凍り、光がその軌跡を止める。
術理に干渉して時間の進みを、限りなくゼロに近づける――シオンの究極の魔法だ。
不死鳥の社が無人となった今でなければ、決して行使できなかった魔法。
あらゆるものが停止した世界の中で動いているのは、シオンとルーナ、そして彼女たちが操る精霊だけ。
空も、海も、炎も、すべてが静止したまま、薄い青の光に包まれている。
「これが……『時間を創る』と言うこと、ですか」
ルーナが呟く。
シオンは小さく笑い、頷いた。
「そう。ルーナの魔法が完成するまで――世界の時間を止めたの」
ルーナは瞳を閉じ、深く息を吸い込む。
精霊がルーナに集まり、白亜の光が胸元に集束していった。
やがて、魔法が完成する。
「――【白亜之霊耀】」
再び、世界が動き出す。
氷塊を突き破り、炎の悪魔が咆哮を上げようとしたその刹那――天から白亜の光が降り注ぎ、暗雲を貫き、ルアリを飲み込んだ。
圧倒的な光が、音もなく海を穿つ。
その輝きは、海すらも貫いてなお衰えることはなかった。
世界が息を吹き返したとき、そこに残っていたのは――砕けた氷と、静まり返った海だけだった。
空を覆っていた暗雲がゆっくりと裂け、陽の光が差し込む。
「はぁ……はぁ……」
『……これ以上は、……ルーナの身体が持たない』
限界となったルーナからピクシーが離れる。
髪が藍色に戻ったルーナは、肩で息をしながらも、警戒を解かなかった。
海面を見つめたまま、手の中に残る白亜の光を消す。
そのとき――。
「……ッ、あ……!」
かすかな声が耳に届く。
ルーナが振り向くと、少し離れた上空でシオンが体勢を崩していた。
胸を押さえながら、苦痛に満ちた息が漏れている。
全身から冷気が噴き出し、彼女の肌の下で魔力が暴れていた。
【凍獄之箱庭】の代償――強引に世界の理に干渉した反動が、今まさにシオンの肉体を蝕んでいる。
「シオンさん!」
ルーナは反射的に駆け寄るようにして宙を滑る。
近づいた瞬間、彼女の右目から血が流れ落ちた。
ルアリとの戦闘で精霊の瞳を酷使した影響だろう。
紅い雫が頬を伝い、氷のように輝いて散る。
「……だい、じょうぶ……。ただの、発作みたいな……もの、だから……」
かすかに笑おうとしたシオンの唇が震える。
その身体が限界を超え、ふっと重力に引かれた。
「――シオンさん!」
ルーナが両腕を伸ばし、落下してきた彼女を抱きとめる。
冷気が肌を刺す。
シオンの身体は、まるで氷そのもののように冷たかった。
ただ、苦しげにしながらも呼吸はしっかりとしている。
(このままでは……。すぐに落ち着ける場所まで……!)
ルーナがシオンを抱きかかえたまま、キョクトウの方角を目指そうとしたその瞬間――背筋を鋭い殺気が走る。
反射的に振り返ると、そこに――。
「嘘……そんな……」
焼け焦げた海面の上に、ルアリが立っていた。
身体は崩れかけ、炎も細く揺れている。
それでも、その瞳にはなお燃えるような戦意が宿っていた。
「……よくも、やってくれたね」
声は掠れているのに、熱だけは凶暴なままだった。
ルーナは息を詰める。
彼女自身も体力は限界に近い。
『……ルーナっ! ……私に魔力を貸して!』
ピクシーの焦った声がルーナの頭の中に響く。
妖精であるピクシーは自力ではこちら側に干渉できない。
魔法の行使にはルーナなど、人を介する必要がある。
「すみません……。もう、ピクシーに力を渡す体力も……。ですが、諦めもしません……!」
ルアリが両手を掲げる。
再び炎が生まれ、海上の空気が歪んだ。
それでもルーナは、シオンを抱いたまま立ち向かおうとした。
「――そこまでです」
静かな男の声が、戦場の空気を一変させた。
赤い外套をはためかせ、黒い影が空を滑るように降り立つ。
何の特徴もない男――ソルダ。
彼は海面すれすれに降り、ルアリの隣まで進む。
その背後には、五人の少年少女が控えていた。
無表情のまま、ただ命令を待つかのように並んでいる。
「……人形の分際で、何の権限があって、私に命令してるの?」
ルアリの声が低く唸る。
「次、命令したら――灰にするよ?」
それでも、ソルダは眉ひとつ動かさずに言葉を返す。
「落ち着いてください。今回の目的は果たせました」
そして、諭すような口調で続けた。
「それに、貴女の器も完成しています。その身体ではもう限界でしょう?」
ルアリの炎が一瞬揺れる。
確かに、身体の中で魔力が崩壊しかけているのを自覚していた。
それでも、悔しさが言葉を止めない。
「……限界でも構わない。アイツらももうボロボロ。二人を消し炭にするくらいなら――できる」
ソルダはため息を吐き、わずかに肩をすくめた。
そして、ルーナたちに視線を向ける。
「確かに、かなり消耗しているようですね。……では、手っ取り早く終わらせてください」
ルアリの口角が吊り上がる。
炎が再び燃え上がり、空気が焼ける。
ルーナは歯を食いしばり、シオンを抱いたままその場を離れる。
(……ダメ、躱しきれない!)
炎の奔流が迫った、その瞬間。
「――破魔天閃!」
低く、確かな声が響いた。
蒼黒い魔力が海を裂き、炎を飲み込む。
白煙を吹き飛ばすように、ひとりの男が降り立つ。
漆黒の魔衣を纏い、魔剣を携えたオルンが――。
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