332.【sideシオン】潮騒
少し時間は遡って――。
オルンたちが不死鳥の社に居るころ、シオンたちは旅館で穏やかな時間を過ごしていた。
縁側には茶と和菓子が並び、淡い秋日が差し込む。
シオンとフウカは練り切りを少しずつ割って味わい、カティーナとテルシェは湯呑を手に談笑していた。
そんな時だった。
「――っ!」
突然、ナギサが驚愕の声を上げて立ち上がった。
その表情からは血の気が引いている。
「どうしたの?」
フウカが問いかけると、ナギサは震える声で言った。
「悪魔が……近づいてきています。この感じは……《焚灼》ルアリ、です」
その名が告げられた瞬間、場の空気が一変した。
和やかだった時間が、一気に緊迫へと傾く。
ナギサは元々、この世界に居る悪魔たちの気配を常に補足できていた。
だが神降ろしの一件以降、教団が何らかの対抗策を講じたのか、その感覚は封じられていた。
今こうして感じ取れたのは、悪魔がこのキョクトウの領域へと距離を詰めてきたからに他ならない。
「ハルトさん、【鳥瞰視覚】で確認できる?」
シオンの声に、ハルトは眉をひそめて首を横に振る。
「……無理だな。距離がありすぎる」
「移動速度は遅いです。おそらくは、船で移動していると思われます」
ナギサが推測を口にすると、ハルトが即座に続ける。
「てことは、《焚灼》以外にも、同乗者がいる可能性が高いな」
シオンは静かに立ち上がり、銀髪を揺らした。
「……この中で長距離を一番早く動けるのは私。私が先に行って、時間を稼ぐ。その間に体制を整えて」
「空を飛んでいくんだろ? だったら俺も連れていけ」
ハルトが即座に言い返す。
「西の交易都市ツラナミからなら、敵の全容が見えるはずだ」
少しの沈黙ののち、シオンは頷いた。
「分かった。行こう」
ハルトが残った面々に視線を向け、指示を飛ばす。
「フウカ、カティ、ヒューイ、テルシェは陸路でツラナミへ。ナギサはキリュウと合流してから各所へ連絡を。それが終わったら天霊神社で待機して、オルンたちが帰還したらすぐにこのことを知らせてくれ」
「わかった!」
ナギサは頷き、袖の内から一つの印章を取り出す。
それは朝霧家の家紋が刻まれた小型の勾玉だった。
「ハルトさん、これを。――一時的にキョクトウ兵の指揮権をハルトさんに委ねる。反発があったらこれを見せて」
「……重い役目を背負わせてくれるな」
「ハルトさんだからだよ。私はフウカ姉さまと同じくらいハルトさんのことも信頼してるから」
ナギサが笑いかけると、ハルトは短く息を吐き、勾玉を懐にしまった。
「それじゃ、行くよ」
シオンはハルトに声をかけてから、魔法を発動する。
「――【流翔】」
ふわりと足元が離れ、視界がぐんと引き伸ばされた。
地上が一気に遠ざかる。
◇
「う、うおおおおおっ!? 速ぇぇぇぇ!!」
初めての空中移動――それも最高速飛行に、ハルトは情けない悲鳴を上げた。
「あははっ……大げさだなぁ」
「仕方ねぇだろ! 普通に怖いわっ!」
風を切る音とともに、軽口が交わされる。
緊張の合間にわずかな笑いが生まれた。
やがて、遠くに海の蒼い煌めきが広がる。
ツラナミ――西の交易都市が見えてきた。
地上に降り立った瞬間、ハルトの膝がわずかに震えた。
「……二度とこの速度はごめんだ」
「慣れれば心地良いのに」
「俺の心臓がもたねぇんだよ!」
短いやり取りに、張り詰めた空気がわずかに和らぐ。
ハルトは深呼吸し、異能を行使した。
視界が一気に遠くまで開け、西の海を見渡す。
「……視えた。十数隻の船――いや、軍船だ。旗は……ルダイン連邦だな」
その言葉に、シオンの瞳が細く光る。
「やっぱり、連邦か……」
彼女は静かに口を開いた。
「ハルト、私が出る。あれだけの戦力を並べてる以上、いきなり殴り合いになる可能性もあるけど……まずは探りを入れないと。時間も稼げるし」
「分かった。それじゃ、これを持っていけ」
ハルトはそう言って収納魔導具から取り出した拡声魔導具をシオンに差し出した。
シオンがそれを受け取って頷く。
そのまま海風の中へと足を踏み出した。
そして再び【流翔】を発動。
空を駆け、キョクトウの海域ギリギリの地点――すなわち、ルダイン艦隊が侵入する境界線上で、彼女は一人、静かに待ち構えた。
潮騒の音とともに、白銀の髪が陽光で輝いている。
その瞳は、迫りくる影をまっすぐに見据えていた。
◇
海上を吹き抜ける風が、銀色の髪を揺らした。
遥か水平線の彼方、白く霞んだ空と海の境界の中に、黒い影がいくつも浮かび上がる。
シオンは杖を握りながら、【遠望】を発動する。
魔力の焦点が遠方に結ばれ、やがて輪郭がはっきりとした。
――ルダイン連邦の艦隊。
単なる威嚇や偵察の規模ではない。
それに加えて、あの中に悪魔――《焚灼》がいるとなれば、明確な攻撃の意志があると見ていい。
彼女は静かに息を吐き、手にした杖を横に払った。
海面の一部が凍りつき、白い線が一直線に伸びていく。
その線は国境の象徴。
キョクトウの領海を示す境界線だった。
艦隊の側もシオンの存在に気づいたのか、航行速度を落とす。
両者の距離は百メートル強――声が届くには遠いが、魔導具を使えば十分だ。
シオンは拡声魔導具を手に取り、口元へ寄せた。
頬を撫でる海風を感じながら、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私はキョクトウの使者、シオン。姫ナギサの命を受け、貴国艦隊の動向を確認しに来た。――随分と大仰な船団だが、これだけ兵を連ねて、何をしに来た?」
シオンは淡々と続ける。
「今しがた、互いの国境線を再度示した。これ以上踏み込むつもりなら、迎撃の準備を始めさせてもらう。……だが、貴国が無駄な消耗を望まないのなら、主張くらいは聞いてやる。どういう腹づもりだ?」
声は海風に乗って、澄んだ響きとなり艦隊へ届く。
シオンの眼差しは冷たくも静かで、外交官としての矜持がその姿に宿っていた。
だが――返答はなかった。
代わりに、海面に濃い影が落ちる。
シオンが顔を上げると、上空にひとりの少女が立っていた。
赤い髪を風に遊ばせ、だぼっとした上衣の裾や袖口が炎のように揺れている。
その紅の瞳が、真っすぐシオンを見下ろしていた。
彼女のさらに上空で、いくつもの光球が生まれた。
それが炎だと認識したときには、すでに遅かった。
巨大な炎弾が海面に触れた途端、爆音と共に水柱が立ち、衝撃波が海を叩いた。
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