悪夢の日・弐
「女神……さま……?」
少年は霞む目でソフィアと名乗った少女を見つめる。
命の灯火が尽きようとしているこの状態では、正常な判断が出来ない。
流れ出る血液で刻一刻と体温が奪われている。
「わたしはお兄ちゃんを助けにきたの。今はチユをゆうせんするから、事情は後ね」
「……もう、間に合わないよ……」
今から救急車を呼んだところで着く頃には死んでいる。
それに既に大分血が流れてしまっているため、ほっといても出血死してしまうだろう。
もはや対処のしようはない、人の手では。
「大丈夫、まだあなたを救う方法はあるの。……いいや、わたしにしかできない。だから、生きたいとねがうなら、おねがい……わたしを信じて」
少女の眼差しには確かな強い意志があった。
いきなり知らない人間を信用しろというのはとても困難なことだ。
しかし少年にはもう藁をもすがるしか助かる方法がないというなら。
少年はそれに賭けるしかなかった。
「…………たす、けて……!」
掠れるような細い声で、少年は求めた。
それを聞き、ソフィアは水を得た魚のように目を輝かせ、「任せてっ!」と張り切る。
少女は懐から小さな短刀を取り出して、それで自らの手首を切り裂いた。
「んっ……」
浅い傷だが、血がどくどくと溢れ出している。
少年はその少女のいきなりの行動に驚いた。
「血、が……」
「飲んで」
「え? ……なんて……?」
「この血を飲んで。そうすれば、お兄ちゃんは助かる」
ソフィアはそう言って少年の口元に傷つけた手首を近付けた。
少年は一瞬躊躇したが、意を決してぽたぽたと滴り落ちてくる雫を受け入れるように口を開く。
何滴か飲み込んだ頃にその傷口をよく見てみると、驚いたことに既に傷は塞がり始めていた。
「傷……もう治りかけてる……?」
「そう、わたしは吸血姫だから。からだの再生能力は人間の比じゃないの。……そして、この血を飲んだお兄ちゃんも……」
「あ……身体、熱い……!」
ソフィアの血を飲んでからすぐに、少年の身体中を不思議な熱が駆け巡る。
まるで温かい液体に身体を包まれているような、そんな安心感を感じる。
先程まで凍え死にそうだったのに、その恐怖はすっかりと消え去っていた。
絶え間なく流れ出ていた血液すら、今はその勢いを緩めている。
しばらく待てば傷口が完全に塞がってしまうのではないか、そんな気さえ起こさせる。
「……な、なに……これ……胸が、いたい……!」
そう安堵していたのもつかの間、少年は突然に痛みを訴えだした。
胸を手で掻き毟り、ぜえぜえと苦しそうに息をしている。
腹の傷はどうやら一応塞がったようだが、まだ完全ではない。
今暴れると傷が再び開いてしまう可能性がある。
「ま、まさか拒否反応……!? そんな、私の血じゃダメだって言うの……? なんで、なんで……!」
「うぅぅぅ……うわぁぁぁぁっ!!」
少年はもがき苦しんでいる。ソフィアは予想外の展開に戸惑いと焦りで胸が張り裂けそうだった。
「私が……混血だからっていうの……? ……そんなの許さないっ、お兄ちゃんはわたしが絶対に助けてみせるっ!」
ソフィアは少年に覆いかぶさった。
少年はまだ暴れている。ソフィアは覚悟を決めた。
少年の唇を、ソフィアが自らの唇で塞ぐ。
それは契りを結ぶ行為。全てを賭けて、共に歩んでいくことを誓う行為。
そして吸血姫のそれは、相手の身体を支配下に置き、制御可能な状態にする儀式でもある。
ソフィアは一縷の望みに賭け、少年が落ち着くまでその格好のまま待つ。
やがて、少年に身体を押し戻されてソフィアは唇を離した。
「……ごほっ……! げほっ……!」
そのまま咳き込み始めた少年だったが、暴れだすような様子はなかった。
胸の痛みを訴えることもなくなり、ソフィアは制御に成功したことを確信した。
「……もう。こんな美少女がキスしてあげたのに、いきなりむせるとか失礼だよ。お兄ちゃんはわたしが躾けてあげないとダメみたい」
「……げほっ、どうなってるんだこれ……ボク、まだ生きてるよ……」
少年は横になったまま腹部をさする。
そこに確かに存在した深い裂傷は、既に跡形もなく消えていた。
「もう動いても平気だと思う。念を押してキスまでしたんだし」
「……思い出すと恥ずかしいから忘れて……」
少年は頬を赤らめて顔を両手で覆った。
「ちょ、ちょっとっ! わたしより乙女なの禁止! もう、そんなんだからあんな悪い奴らに絡まれちゃうんだよっ」
「へ……?」
「あっ…………!」
ソフィアは言った後にしまったという顔をする。
少年は少女を見つめる、その言葉の真意を見透かすように。
「……君は、あれを見ていたの……?」
少年の問いかけに、ソフィアは黙ってしまった。
逡巡した後で、少女は重い口を開いた。
「……見てはいないよ。でも、知ってる。知ってるの、お兄ちゃんがこれまでどんなに不幸だったのか。そして、これからどんな不幸が起こるかを」
「な…………!」
「本当なら、今日ここでお兄ちゃんは死んでしまうはずだった。あのまま誰にも気付かれることなく……」
少年は不意に蛭賀から言われた言葉を思い出す。
――――ボクは独りで死に逝く運命だった。彼に言われた通りに……
その事実が、少年に重くのしかかる。
「だけど、それじゃダメなの! お兄ちゃんが存在することによって、救われる人がいるの。いや、救われるのは、本当はわたし……お兄ちゃんがいなくなって困るのは、わたしなの……」
「……なんで、ボクが消えたら、君が困るんだ……? ボクと君は、初対面のはずだろ……」
「だから言ったじゃないっ、お兄ちゃんがこれからどうなるか、知ってるって。わたしはもう出会ってるの、未来のお兄ちゃんに…………もう一人のあなたに!」
「…………? 意味、分からないよ……」
ソフィアはのぼせ上がった頭を静めるために目をつむって自分の頬に活を入れた。
そして、片手を少年へと差し出す。
「ほら、立って。くわしい事情は後で話すから、とりあえずお家に帰ろう?」
「…………え?」
少年はきょとんとして首を傾げた。
「ほ~ら! 早くお家に案内してよ、ここすっごく寒いんだけど」
「……もしかして、ボクの家までついてくる気……?」
恐る恐る少年が尋ねると、ソフィアは子猫のように目を潤ませて言った。
「わたしを泊めてくれないの? お兄ちゃん……」
そんな顔をされたら、例えフェイクだと分かっていても否定するのは心が折れる。
「…………帰ったら君のこと、色々教えてもらうからね。聞きたいことは山ほどあるんだから」
承諾と取れる返事を聞き、少女は喜び跳ねた。
「やったぁ! そうと決まったら早く帰りましょっ、わたしお風呂入りたいっ!」
「…………はぁ。まるで夢みたいだ、こんな変な展開……」
「夢だったら醒めないで欲しい?」
「……まさか。殺されかける夢なんて誰が見たがるもんか」
*
夜はまだまだ長く深い。
先程の出来事が未だに現実味を帯びていない少年だったが、その制服に染み込んだ自らの血を見て、はっきりと現実に起こったことだと認識するに至った。
そのまま行動するのはあまりにも不審なため、制服の上着を羽織って一先ずしのぐ。
少年はすぐには家に帰らず、途中でコンビニに立ち寄った。
ソフィアはなにやらニコニコと笑顔のまま少年についてきている。
弁当コーナーの前で少年は少女に訊ねた。
「どれ食べたい? それとも、パンとかの方がいい?」
「……意外。料理とか得意だと思ってた」
「いつもは作ってるんだけど……。今日は、身体痛くって。ちょっとお休み」
「……う~ん、じゃあこれ!」
ソフィアは手をうんと伸ばしてサンドイッチを指差す。ちなみに手が届かなかったので少年に取ってもらった。
少年がどの弁当にしようか迷っている間に、ソフィアは本や雑誌が置かれているコーナーを巡っていた。
その中で一冊、気になった小説を手にとって眺めている。
その本の内容は、吸血鬼の少女と人間の少年によるいわゆるボーイ・ミーツ・ガールストーリーだ。
ソフィアは軽くぱらぱらとページをめくりながら読み流している。
「欲しいの? それ」
弁当を選び終えた少年がソフィアに寄ってきて聞いた。
買い物カゴにはサンドイッチの他に幕の内弁当や飲み物、そしてデザートが入っていた。
ソフィアはちらりとカゴの中を見て、首を振った。
「いいの、気になっただけ」
小説を本棚に戻して、少女はお菓子のコーナーへと駆けて行った。
その様子を見届けた少年は、こっそりとその小説をカゴの中に入れた。
買ってあげて喜ぶなら、それもいいかもしれないと思っての行動だ。
「……吸血鬼、ね。せめてフィクションの中だけは、優しい世界を見せてくれ……」
そう呟く少年の表情は、ひどく沈んでいた。
会計を終え、先に外で待っていた少女と合流する。
思ったよりもたくさん買い物してしまったせいで、袋がどっさりとかなりの重量になっている。
「たくさん買ったね、これ一日分?」
「うん、全部今日食べちゃうよ」
「すごーいっ、お兄ちゃん、食いしん坊だー!」
「ほとんど君のおやつだけどね……」
少年のツッコミにソフィアはペロッと舌を出して笑った。
少女を見守る柔らかな視線とは裏腹に、少年の心は疑問に満たされていた。
少年は彼女が分からない。
自分を助けたときのような真剣な眼差しは今はなく、その風貌は幼い子供のそれに戻っている。
少女の言った、「吸血姫」という単語の意味。
瀕死だったはずの自分を助けたその治癒能力。
傍から見れば、彼らは仲のよい兄妹に映るかもしれない。
しかし内心では、横に歩いているのは殺人鬼よりも恐ろしい何かかも知れないという不安に犯されていく。
車通りの少ない歩道橋を渡るとき、電灯が途切れたとき、一瞬でも暗闇に侵食されてしまうと、途端に横で口笛を鳴らして歩いていたはずの少女は消え去り、少年を奈落へと飲み込まんとするのだ。
「…………ぁっ」
「? どうしたの、お兄ちゃん?」
少年は今になってようやく、自分たちがまだ歩道橋の上に立っていることに気が付いた。
ほんの僅かの間、どうやら意識が飛んでしまっていたようだ。
身体も極度の緊張状態にあったのか、脂汗がにじみ出ている。
そのせいか、少年は異様に喉の渇きを感じた。
「…………ァ……! 喉……熱い……血……!」
「お兄ちゃん? ……っ!!?」
突如に少年が血走った眼でソフィアを睨んだ。
その目は理性が失われかけ、野生の本能が垣間見える。
すぐに何が起こったか理解したソフィアは、素早く対処に打って出た。
一度まぶたを閉じ、ゆっくりと力強く開眼する。
その眼はまるで血のような真紅に染まり、見るものを威圧する光を放つかのようである。
その真紅の眼に捉えられた少年は、急に身動きがとれなくなった。
「……ダメだよ、お兄ちゃん。わたしの血は毒だから、これいじょうはあげられないの」
「……ァ、あ……ぁあ……」
身体の制御を失い、少年はがくんとその場に跪いてしまった。
その顔は先程までの獣のような顔とは違い、普段の少年のものだった。
少年は自分の身に起きた現象をまだ理解できていない。
ソフィアが膝折れている少年に近寄り手を伸ばして、その頭を撫で撫でした。
「……いい子いい子。だんだん慣れてくから、大丈夫だよ」
「…………ソフィア……?」
少年は少女の名前を小さく呼んだ。
「ありがとう。わたしの名前、おぼえてくれたんだね。よしよし」
「ボクは……一体……?」
すっかり呆けてしまっている少年に手を差し伸べて、ソフィアは優しく微笑んだ。
その雰囲気は少年よりも大人びて見える。
「帰ったら教えてあげる、お兄ちゃんのこれからを」
「どうして……知ってるのさ、君が……」
少女の手を取って立ちあがった少年が尋ねた。
手を放そうとしたがソフィアががっちりと握っており、少年は諦めた。
不意に、スッと少女の目が細くなる。その眼は今ではなく、遠い何処かを見つめているようだ。
「……わたしね、未来が見えるんだ。ぼんやりとだけど、近い未来が見える。予知ってほどじゃないんだけど、そうなの」
「それって……」
少女は静かに頷いた。
「そう。わたしは、あなたの運命を変えるためにきたの」