第1話 Aで十分
(昔の俺は、だいぶ尖っていた)
鏡の前で寝癖を押さえながら、のあは思い出していた。
四歳のとき、前の人生の記憶ごと、この小さな身体で目を覚ました。三十二歳、独身、マーケティング会社勤め。その男が、気づけば母親の帰ってこない部屋にいる幼女になっていた。
混乱はした。泣いたかどうかは覚えていない。覚えているのは、そのあとだ。
施設の職員が差し出す手を払った。「大人は信用しない」と面と向かって言った。十歳のころは学校をサボってダンジョンへ潜り、叱られると「稼いでるのは俺だ」と言い返した。
(言ったな。十歳の幼女が、真顔で)
鏡の中の少女が、露骨に顔をしかめた。
(黒歴史だ。……まあ、事実でもあったけど)
今は十六歳。身長は百四十八センチ。寝癖はしつこい。
尖るのはやめた。大人の言うことには「はい」と「わかりました」を返しておけばいい。そのほうが早く話が終わる。前世の会社員生活で、それだけは身にしみていた。
(中身まで丸くなったとは言ってないけどな)
トースターが鳴った。
*
「おはようございます、のあさん。今日の当番、ハウンドドッグが四体です」
協会の管理区。受付の職員は、写真つきの依頼票をのあへ向けた。
運搬路の脇で、灰色の獣が歯をむいている。犬というには顎が厚い。積荷の留め具を噛み切って、作業を止めているらしい。
「はい」
「作業員の方は退避済みです。帰還したら、こちらへ報告を」
「わかりました」
(わかってるって。何年やってると思ってんだ)
受付の脇で、揃いの新しい装備を着た四人組がこちらを見ていた。登録したばかりの新人だろう。一人が、隣の仲間へ小声で言う。
「え、あの子が当番? 中学生じゃないの」
「しっ、聞こえるって」
(聞こえてるよ。あと高校生の年だよ)
のあは振り向かなかった。
この管理区は、土地そのものがダンジョンになった珍しい天然型だ。罠も階層もなく、魔物も弱い。だから協会は、新人の教育と、のあのような施設出身者の当番に使っている。
新人たちは、これから講習を受けるのだろう。のあは岩穴の入口へ歩いた。
*
坑道の奥から、硬いものを噛む音がした。
のあは岩棚の張り出しに身を収め、影の中へ手を入れた。闇から長い魔銃が現れる。のあの体には長すぎる銃だが、構えるのに迷いはない。
(四体。群れで固まってる。……楽な日だ)
上着の周りへ闇をまとわせる。《隠密》で気配を消し、闇で魔弾を作って込めた。
積荷の陰から、先頭のハウンドドッグが出てきた。二体目、三体目が続く。最後の一体だけが、少し離れて歩いている。
息を吐き切った。指が動いた。
発射音は闇に吸われた。先頭が崩れる。驚いた二体目が跳び退いたとき、反対の壁際に人影が立った。
のあが作った闇の幻、ミラージュだ。
二体が一斉にそちらへ牙をむく。
(はい、こっち見ない)
二発。二体とも、偽物へ飛びかかる前に倒れた。
最後の一体は向かってこなかった。仲間を見捨てて、枝道へ走る。曲がり角に身体が消える寸前、のあは角の白い岩肌へ魔弾を撃った。
闇が弾を横へ曲げる。
角の向こうで、短い悲鳴が上がって止まった。
(跳弾。逃げるなら、もう少し賢い道を選べ)
のあは同じ姿勢のまま、しばらく耳を澄ませた。増える足音はない。闇を解くと、幻も消えた。
四体とも、最後までのあのいる棚を見なかった。
魔石を取り、値のつく部位だけを外す。噛み壊された留め具を写真に撮った。のあは時計を見た。
入ってから、十二分。
(手袋を買いに行く時間まである。いい日だ)
*
「……もう、終わりました?」
受付の職員が、端末とのあの顔を見比べた。
「四体です。留め具の破損は、写真に」
「はい、確認……本当に四体ですね」
後ろで、さっきの新人四人組が固まっていた。まだ講習の説明を聞いている途中だったらしい。
「今の人、入ってったの、さっきだよな」
「十分くらい……?」
「当番って、あんな感じなの?」
講習担当の職員が、苦笑いして首を振った。
「あの人を基準にしないでください。Aランクです」
四人の視線が、一斉にのあの背中へ刺さった。
(振り向いたら負けだ。帰ろう)
明細が端末に届いた。
当番の日当、一万二千円。魔石四つの納品で二万八千円。素材の買取を足して、合計四万六百円。
のあは画面を二度見た。
(十二分で四万。……いや、落ち着け。移動と手入れの時間も入れろ。それでも時給はいい)
口元が緩みかけて、のあは端末をしまった。
*
「改めて、A昇格おめでとうございます」
面談室で、担当の相原玲が細い眼鏡を押し上げた。机には資料が二組ある。片方はのあの活動記録。もう片方には、表紙に大きく『クラン活動のご案内』と書いてある。
のあは座る前に、案内のほうを裏返した。
「……」
相原は何も言わなかった。眼鏡の奥で、少しだけ目が笑った。
「今朝の当番、十二分だったそうですね。受付から連絡が来ました。新人さんたちが、しばらく講習に集中できなかったと」
「それは、すみません」
(俺のせいか? 普通に仕事しただけだぞ)
「褒めているんですよ。では本題です」
相原は活動記録を開いた。戦闘評価の欄は、端まで埋まっている。
「戦闘の実力だけなら、のあさんは既にS相当です。以前お話ししたとおりです」
「はい」
「ただ、Sに上がるには、あと二つ必要です。弟子を取って育てた実績。それから、パーティかクランで継続して活動した実績」
隣の空欄は、どちらも真っ白だった。
「いりません」
即答だった。
(弟子? 人に合わせて待つのが一番苦手なんだよ。パーティ? 他人の予定で俺の休みが消えるやつだろ)
「そう言うと思っていました」
相原は驚かなかった。資料を一枚めくり、のあへ向けた。
「では、参考までに。S以上へ指名で来る依頼の一覧です」
のあは目だけで見た。
深層の大型討伐、一件三百八十万円。未調査区画の先行調査、一件二百五十万円。設備を保全しての特殊駆除、一件百九十万円。
(……ゼロが一個多くないか)
つい、上から二回読み直した。
「それと、S以上にしか開示されない情報もあります。世界に、まだ誰もクリアしていないダンジョンがいくつあるか。どこにあるか。そういったことです」
「……」
(ずるいだろ、その出し方)
未クリアのダンジョン。前世で山へ通っていた男の好奇心が、腹の奥で小さく動いた。
「今すぐ、とは言いません。ソロで活動するのも自由です」
「……一人でいいです。今は」
「今は、ですね。書いておきます」
相原が、活動予定の欄に一行だけ書き足した。
(書くなよ。「今は」まで)
「もう一つ、これはランクと関係なくお伝えしておきたいことです」
相原は、救助対応の規定を開いた。
「Aになると、現場で他の探索者を助ける場面が増えます。救助のあとは、助けられた側の証言と、現場の記録を照合します。記録がないと、言った言わないの話になることがあるんです」
のあの指が止まった。
(言った言わない、か)
前の人生の会議室を思い出した。
取引先の担当が、打ち合わせで決めた内容を翌週になって「そんな意味で言ってない」と覆した。議事録はなかった。一か月、謝罪と説明の資料を作り続けた。最後には、なぜか俺の責任になっていた。
(あれは二度とやらない。今は、証人も上司もいないんだぞ)
「記録を残す機材、何か使っている方は多いですか」
「胸元に付けるカメラが多いですね。両手が空きますから。録画だけの方もいますし、公開で配信している方もいます」
「配信」
「見ている人がいれば、それも証人になりますから」
のあは少し考えた。
(顔は出さない。家も出さない。仕事中だけ流す。それなら、損はないか)
「わかりました。買ってきます」
「今日ですか?」
「今日です」
(明日は東管理区の設備案件だ。間に合わせる)
相原はうなずき、裏返したままの案内を指で押した。
「こちらも、持って帰ってくださいね」
「……はい」
(読むとは言ってない)
のあは案内を受け取り、折らずに鞄へ入れた。相原に見られていたからだ。
*
「配信でしたら、今はこちらが人気ですね」
機材店の店員が、ガラスケースを示した。
小型の黒いドローンが、台の上に浮いていた。羽根はカバーの内側で回っている。店員が一歩横へずれると、ドローンも同じだけ横へずれ、レンズを客へ向け直した。
「探索者さん向けの追尾型です。自動で後ろをついてきて、戦っているところを横からも上からも撮れます。人気の配信者さんは、だいたいこれですよ」
ブウン、と低い羽音がした。
(……うるさっ)
静かな店内でも、はっきり聞こえる。暗い坑道なら、なおさらだ。
「光は出ますか」
「撮影中はランプが点きます。暗いところでは、補助の照明も」
「いりません」
「え」
「魔物に見つかるので」
(せっかく闇で隠れてるのに、頭の上でブンブン光る的を飛ばしてどうすんだ)
隠れて、待って、一発で終わらせる。のあの仕事は、それで全部だ。後ろから羽音がついてくるなら、先に見つかるのはこちらになる。
「音を抑えた上位機種もありますが……」
店員が示した値札には、ゼロが一つ多かった。
(それでも音はするし、光るんだろ。高いうえに見つかるなら、なお悪い)
「胸に付けるのでいいです」
「あ、はい。こちらですね」
店員はケースを閉じ、小さなカメラを出してきた。それから、隣の棚の薄いゴーグルを手に取る。
「コメントは、どうご覧になります? 戦闘中に端末を見るのは危ないので、皆さんこれを使ってますよ」
かけてみると、レンズの右端に文字が浮かんだ。店の試験用の配信らしく、『テスト』『いらっしゃいませ』と流れていく。その上に、小さく視聴者数。
「外から、光は見えますか」
「いえ。映るのは内側だけです」
のあは顔を横へ向け、店の暗い隅を見てみた。視界の端で文字が流れるだけで、前は普通に見える。
(これはいい。手も目も塞がらない)
「これは、もらいます」
「お顔も映せるように、角度を変えられますよ」
「前だけでいいです」
店員は、機能の説明を途中でやめた。
のあは胸元にカメラを付けたまま、腕を上げた。魔銃を構える角度だ。留め具に腕が当たらない位置へ、二度ずらした。
「通信が切れても、録画は残りますか」
「端末の容量があれば残ります。配信のほうは止まりますが」
「じゃあ、それで」
試しに録った自分の声を再生する。
『じゃあ、それで』
(……愛想ねえな、俺)
店員は気にしていない様子で、配信用の登録画面を開いた。
「チャンネル名はどうされますか? 皆さん、けっこう凝った名前にされますけど」
「名前だけでいいです」
のあは入力欄へ打ち込んだ。
のあ。
説明文には、探索の業務記録、とだけ入れた。
「……以上ですか?」
「以上です」
店員は一瞬何か言いたそうにして、やめた。
会計は、カメラとゴーグルで四万千三百円だった。今朝の稼ぎが、ちょうど消えた。
(手袋は、来週だな)
(仕事の記録を流すだけだ。見る人なんて、いるわけない)
店を出ると、端末に明日の依頼の確認が届いていた。
東管理区、設備周辺のビッグアント駆除。暗い場所での作業です、と注意書きがある。
のあは胸のカメラを指でつついた。
(暗いところで、黙って撃つだけの配信。誰が見るんだよ、こんなの)




