イチ
「おかえりなさい」
頬の肉が持ち上がり、唇の端が上がる。
「……イチ、……な、なんだよ、どういう……」
イチの顔に愛らしい笑顔が浮かんだ。屈託のない純粋な笑顔が、恐ろしいものに見えた。
恭一郎の反応などまるで無視をしたイチは、恭一郎に駆け寄り、倒れている体の上に抱きついて来る。
避けることなどできなかった。受け止めたイチの体は、確かに温かく、生身の人間であることがわかる。
「わかった、わかったから、離れてくれないか? いったいどういう事なのか説明してくれ」
観念した恭一郎は、とにかくイチを遠ざけようと、必死で肩を押していた。
「説明ってなに? ずっと待っていたんだよ? 早く会いたくて、ずっと、ずっと待ってたんだ。喜んでくれるよね? お父さん」
恭一郎の腹に両手を置き、太ももの上に乗っているイチは、嬉しそうな顔で笑っている。
笑っている方が恐ろしい。どう受け止めて良いのかもわからず、なぜここにイチがいるのかと、そればかりが頭を巡る。
そうして気づいた。ひとつのワード。
「……お父さん?」
「うん、そうだよ、お父さん。ぼくは、一夜。西崎一夜。お母さんが付けてくれた名前だよ。忘れたの?」
その時、キッチンの方から、何かをまな板の上で切る音が聞こえて来る。
それに続き、何かを煮る匂いが流れて来た。
恭一郎は、太ももの上に乗っているイチをどけ、半身を起して額を押さえた。
呼吸が荒く耳に届く。
逃げる場所などどこにもない。
これ以上ないほど体を曲げ、小さく、小さく縮こまった。
このまま消えてしまいたい。
キッチンから足音が聞こえて来た。
近づいて来る。
……足音。
聞き慣れたリズムを刻み、近づいて来る。