第二章 第一話「現在」
物干し竿を2本並べて4本の足を付け、その根本を板状の土台で繋いで1つの装置にしたような形状の大きな器具が、目の前に置かれている。
物干し竿のような2本の手すりの間は、水泳のレーンのように、人が一人入れるくらいの幅が確保されている。
平行棒というらしい。
「病気や老化で歩けなくなってしまった人が歩行機能を取り戻すために使うんだよ」
輪廻の説明が入る。
「俺、病人でもじいさんでもないのに……」
嘆くネヲは車椅子に座っており、本人の認識に反してまさしく歩行訓練の対象者といった風体だった。
「っていうか輪廻、仕事は?」
「今はネヲのリハビリを見るのが仕事」
「あァそう」
「私のことはいいの。まず、さっき言ったように平行棒に掴まって歩いてみて。最初は大変だと思うけど、元の生活に一歩近づくと思って頑張って」
「おー」
輪廻に促されるまま、2本の物干し竿のような手すりに掴まる。
車椅子から体を浮かし、膝から下に力を込める。上体が左に大きく傾いて倒れそうになるのを、手すりを強く握りしめ、腕の力で目一杯支える。上体は逆方向に振れ、そして止まる。
立っている。
ほとんど腕の力で体を支えてはいるが、目が覚めて2日にして、やっと自分の力で転ばずに立ち上がることが出来た。
「やった!いず…ネヲ、立ててるよ!」
「頑張って!そのまま歩いてみて!」
輪廻が歓喜に湧く。
バランスを取るために脳はフル回転で、全身を支えるために腕と足にあらゆるエネルギーを注いでいる状態のネヲには返事をする余裕もない。
息をするのも忘れてそのまま右足を前に出す。同時に上半身も前に出す。
「歩けてる!歩けてるよ!」
「……っ……きっちい……」
決して手すりから手を離さないように、左足も前に繰り出し、また右足を持ち上げ、確実に前へと進む。
手すりの長さは3、4メートルといったところで、もう半分ほど歩けばゴールだった。
ーーと、いうところで手が汗で滑り、手すりから指が離れる。体が一気に宙へ投げ出される。
やばい転ぶと思った瞬間、頭の中に奇妙な映像が流れる。
多摩川、河川敷、暗くなる視界、ふわっと体が投げ出される感覚。暗く永い闇。
ネヲは、唖然とした表情のまま人形のように床に倒れた。
「ネヲ!大丈夫!?」
輪廻が駆け寄る。
「なんだ?今の……」
ネヲは、自分が転んだことよりも一瞬だけ現れた脳内の謎の映像に圧倒されていた。
「俺の……記憶?」
ふと頭に手をやると、ヘッドフォン型の装置が装着されていた。
そういえばこの装置は何だっけか。目が覚めてから自分の頭にずっと付けられている。
「輪廻、俺、なんでこのヘッドフォンみてえなやつ付けてんだっけ?」
「それは、……心拍とか脳波とか、生体反応を記録するための医療機器。ネヲの体調が安定してるか確認するための、大事なものだよ」
「そうだっけ」
「それより、ネヲ、とうとう自分で立って歩けたよ!2年ぶりに目が覚めてまだ2日なのに、すごいよ!」
「全然すごかねえよォ。ちょっと歩いただけで手も足ももうプルプルしてんぜ」
「それでもすごいよ!新生児が生まれてから歩けるようになるまでには平均13ヶ月もかかるのに!」
「俺は赤ん坊じゃねえよ」
「ごめんごめん」
窓の外を見て、ネヲが呟く。
「……俺、ちゃんと歩けるようになったら、学校もまた行けるかな」
その目は青く澄んでいる。
「!……行けるよ」
輪廻がうつむく。
「俺が意識なくなった頃、中学入ったばっかで、6月に運動会あって、結構クラスに友達も出来てきた頃だったんだ」
「……そういえば今って何月なんだ?」
「2057年の9月6日」
「本当に2年経ったんだな……じゃあ学校は夏休み明けかァ。クラスの奴ら、俺のこと覚えてるかな」
「……覚えてるでしょ。ネヲみたいなのがいたら、みんな忘れないよ」
「また給食のピザトースト食いてえなァ。俺、中学の給食でピザトーストっていうパンがあるの知って、家でも作るようになったんだぜ」
「食べれるよ!……リハビリ頑張ったら、また食べれるよ」
「じゃあ頑張らねえとなァ」
「今日はもう疲れただろうから、休んで。明日から座学も始まるから、今日のうちに体力を回復させといてね」
「座学?なんだそりゃ。リハビリって歩くのだけじゃないの!?」
「当たり前でしょ。座学だけじゃない、歩けるようになったら今度は走り込みとか逆上がりとかもやるよ」
「マジかよォ!!俺体動かすの嫌いなのに!!」
「……そうだったの?」
輪廻が驚く。
「……体動かすの嫌いなのに、いつも迎えに来てくれたんだ。3キロも歩いて」
輪廻が顔を赤らめて呟く。伏した目が、長いまつ毛に隠れている。
「ん?輪廻、なんか言った?」
「なんでもない!明日からもビシバシやるからね!」
「うわァー、明日のこと考えたくない!ピザ食いたい!」
「出前取っとくから」
「輪廻も一緒に食おうぜ」
「うん。一緒に……」
「失礼します」
輪廻が答えようとするが、壮年の男性職員がリハビリ部屋に入室してきた。
「萩ノ宵主幹。今よろしいでしょうか」
「はい」
輪廻が男性職員の元に歩み寄る。
何やら真面目な雰囲気で話している。仕事の話だろう。
「ごめんネヲ。私、今日これから臨時の会議があって遅くなるから、ネヲはネヲで食べてて」
「ちぇー、分かったよ」
こういう日もある。
ネヲが少しがっかりして窓の外を見ると、いつの間にか日が暮れなずんでいた。
無機質な研究所にも、もうすぐ夕食の時間が訪れる頃だった。
夜。
ネヲは2日前に目覚めた白いベッドの上で退屈を持て余していた。
「ピザも全部食っちまったし、寝る時間まで暇だなァ……」
ふと部屋を見やる。
壁、天井、床、ベッド、机。その全てが真っ白で、清潔を極めた無機質な部屋。
ここは、ネヲが目覚めた際に自室として使えるよう特別に設えられた部屋だと輪廻から聞いた。
「塗り絵の世界みてえだ」
部屋の規模は10畳ほどだろうか。中学生が一人で過ごすにはやや広い。
天井付近に一つの小窓があり、その向こうでは紺碧の空に淡黄色の三日月が輝いている。
「外出てえなァ」
その素朴な願いが、次の日も、その次の日も続く地道なリハビリへとネヲを駆り立てた。
次の日の座学は、学習機能と認知機能のリハビリと称し、鉛筆を握る練習から始まった。
文字を紙に書いてと促されて自分の名前を書こうとするも、頭で思い描くように文字を書けない。輪廻がネヲを見ると、鉛筆の握り方がジャンケンのグーの手になっており、そこから直していくことになった。
また、複雑な漢字が書けなかったり、家庭科で習ったはずの簡単な裁縫が出来ないなど、ネヲの当初の予想に反して、体は様々な機能を忘れていた。
一連のリハビリは、失われた体の機能を取り戻すと同時に、失われた体の機能を自覚する機会にもなった。
出来ることと出来なくなったことを調べ、出来なくなったことはリハビリのプログラムに組み込まれ、次の日からまた出来るようにしていく。
その繰り返しだった。
「輪廻!!ハァハァ、これ、……あと何周、走りゃ、ハァ、いいんだ!?」
「すごいよネヲ!!リハビリから2週間でもう走れるようになった!」
「あと、何周!?」
「2周ー!」
「くっそォ!!」
9月20日。
ネヲは研究所の中庭で、走る動作のリハビリを実施していた。
学校の体育館ほどの広さの芝生に、1周200メートルの白線が大きな楕円を描くように引かれている。
鼓動が頭にまで響き、脳天からつま先まで全身が酸素の欠乏を訴えてくる。血管の中で血液の代わりに疲労が流れているのかと錯覚するほどに両脚は重かった。
遠くで輪廻が頑張れーと笑顔で声を張る。疲れ切った腕をやけくそに振り回し、前へ走る。
「しっかし、朝昼は地獄なのに夜はいつも暇だなァ」
1日の終わりはいつも10畳の真っ白な無機質な部屋の、保健室のように清潔なベッドに寝そべって退屈と向き合っていた。
日に日に独り言の声量が大きくなっていくのを、ネヲ本人も自覚し始めていた。
「こういう暇でしゃーねえ時、俺いつも何してたっけなァ」
記憶の海に潜る。
「なんかあったよなァ、こういう時、手元に、ちょうどいい……」
どんな日用品よりも身近だった手のひらサイズのあのデバイスーー。
ネヲに電流が走る。
「スマホだ!!!」
ベッドに備え付けてある小型の赤いボタンを連打する。
ナースコールのようなそれは、ボタンを押すと輪廻がたとえ仕事中でも寝ていてもネヲの居室に飛んでくる代物だった。本来は緊急時のみ押すことを許された非常ベルのようなものだ。
30秒ほどして、居室のドアが叩きつけるように開け放たれ、冷や汗の滲んだ幼馴染の顔が見える。輪廻が駆けつけてきたのだ。
「ネヲ、どうしたの!?」
「おー輪廻!緊急事態だ!俺のスマホどこ?」
「はぁ!?」
輪廻が呆れた目を見開く。
「スマホだよ!目ぇ覚めてから一度も見てないけど、今どこにあんだ?」
「私が持ってるけど。今は職員用仮眠室に……」
「サンキュ!」
「ちょっと待って!呼び出したのってそんなことで!?……って、待って!!」
ネヲは輪廻を横切り、居室の外へ駆け出す。
走りながら、この2週間の輪廻との会話を思い出す。
ーー輪廻、俺が目ぇ覚めてから夜も研究所にいるけど、ちゃんと家帰ってるのか?
ーーううん、職員用の仮眠室に泊まってるよ。ネヲの体調に何かあった時に対処できるように。
ーーなんか、悪いな……。
この時間の輪廻はいつも仮眠室にいる。
そして輪廻は、非常ボタンを押して30秒くらいで飛んできた。
つまり、居室から走って30秒圏内のどこかに職員用仮眠室はあるとネヲは結論付けた。
ネヲは、楽しいことや欲しいもののことになると途端に頭の回転が良くなる性質だった。
神殿じみた造りの薄暗い廊下をひたすら走る。人目を憚らず廊下の真ん中を走るネヲへ、通りすがりの新卒らしき若い職員が不思議そうな視線を送る。
磨りガラスの窓に「職員用仮眠室」と白く印字された部屋を見つけ、ドアを開け放つ。
体温計や仮眠用と思われる毛布などの生活用品がまとめて置かれているスペースが目に入る。その奥にソファ、ベッド、そしてロッカーが設置されていた。
左上の扉から順番に開けて中を見ていく。
ガチャ。
鍵はかかっていなかった。しかし、左上は空だった。
続けて開けていく。
空、誰かが置きっぱなしにしたであろう櫛、空、畳まれたタオル。
ガチャ。
右下の扉を開けると、黒光りするデバイスが目に留まった。
紺色のラバー製のスマホカバー。2年前に自分が使っていたスマホで間違いなかった。
電源を押してしばらく待つと、見慣れた多摩川の待ち受け写真が画面に現れた。
パスワードを入力しようとする。
が、指が動かない。
「……あれ?」
「パスワード、何だっけ……」
とりあえず自分の誕生日を打ってみる。
0401。
スマホが震え、パスワードが違います、という一文が表示される。
「おかしいな……」
4桁の簡単なパスワードのはずなのに、どうも思い出せない。
「まァ2年も寝てたら忘れるか。確かこのスマホ、指紋認証も出来たよな……」
親指をセンサーに置く。
違う、と告げるようにスマホが震える。
指の向きを変える。
親指を服で拭いて試してみる。
何度試しても、スマホはネヲの指紋を拒否した。
「何でだ?……」
「ネヲ!!」
「輪廻」
輪廻が追いつき、部屋に入ってくる。
「勝手に部屋入ってわりぃ……あのさ、輪廻」
「なに?」
輪廻は焦りに満ちた面差しでネヲを見る。
「人間って2年も寝てると、指紋が変わるの?」
ネヲは、輪廻なら人の体の仕組みに詳しいだろうと思って何気なく訊いただけだった。
しかし輪廻の顔から血の気が引く。
「……変わることも、あるかもね」
ネヲから目を逸らす。
「……?」
「そんなことより!!勝手にあの部屋から飛び出して、どういうつもり!?」
「輪廻……」
聞いたことのない輪廻の怒号に、ネヲは言葉を失う。
「非常ブザーが鳴った時、私がどれだけ心臓が縮こまったと思ってるの!!ネヲの顔を見るまで、どれだけ心配したと思ってるの!!そんな中、君が勝手に部屋を飛び出した時の私の気持ち分かる!?」
「ご、ごめん……そこまで心配かけて、そんな気持ちにさせてると思わなくてよ……」
「ただ……退屈だったんだ」
輪廻がはっとする。
「あ……私も、ごめんね……」
「ネヲの自由を奪って、ごめん」
ネヲはその言葉の意味が分からなかった。
自由を奪う?
輪廻は何者かに襲われて瀕死だったネヲを助けたのではないか。その延長に今のリハビリ生活がある。それを自由を奪うと形容する意図がネヲには理解しがたかった。
ネヲが目を覚ましてから、輪廻はたびたび様子が変だった。
何かある、とネヲは悟る。
しかし、目の前の泣き出しそうな幼馴染を見て、問い詰めるような真似は、ネヲには出来なかった。
居室。
ベッドに寝そべり、再び指紋認証を試みる。
「……やっぱり開かねえなァ」
パスワード入力に切り替え、生まれ年を入力してみる。
2043。
スマホが震え、パスワードが違いますという一文。
ランダムに、身近な数字で試してみる。
「あ」
5回間違えて、1時間ロック解除が出来なくなった。
待ち受け画面の多摩川の写真を見つめる。
何故自分のスマホなのにこうもロックが開かないのか……軽く無力さを覚える。
「なーんか、おっかしいよなァ」
スマホの多摩川を見つめながら、ため息を吐く。
多摩川。
河川敷の光景。暗くなる視界、ふわっと体が投げ出される感覚。
どこまでも暗く、広大で、永い闇。
また、あの映像が脳内に流れる。
「……痛ッ……!」
ズキッ!ズキン、ズキン……。
激しい頭痛が襲う。
なんてことはない。リハビリがきつくて調子悪くなってるだけだ、とネヲは己に言い聞かせる。それが苦しい言い分だということも分かっていた。
「今日はもう寝るかァ……」
時刻は二十一時〇六分。この研究所は建物全体を通して二十二時消灯と決まっているため、ネヲの居室もあと一時間近くは明るいままだ。
それでもネヲは、布団を耳まで被って無理やり眠りについた。




