第一章「二年前」
丘の上から町を見下ろす。
東京都・多摩南部。
まるで丘に丘を重ねて作られた巨大な階段のような地形の大地に、寂れた木造住宅と、比較的新しいレンガ調の一軒家と、灰色の集合住宅が混在している。
住宅や商業施設よりも、それらを一緒くたに飲み込むような木々の群れが目立つ、静かな町。
遥か遠くで高層ビルが青く霞んでいる。
町から丘へ、花と緑の息吹を乗せた風が吹き抜ける。
丘の上で喜代永寧生は一人呟く。
「ピザ、食いてえなァ」
丘に生っていた野生のブルーベリーをかじりながら、寧生は多摩川方面へ歩きだす。
半開きの通学用バッグの隙間から、彼の教科書やノートが外を覗き込んでいた。
中学1年、科学の教科書。B組、喜代永寧生。
学校帰りに、同い年の幼馴染を職場まで迎えに行くのが彼の日課だった。
喜代永寧生には、規格外の幼馴染がいた。
特認成年者・萩ノ宵輪廻。
彼女は寧生と同い年でありながらすでに大学院を卒業しており、社会の第一線で働いている。
仕事終わりの彼女を迎えに行くため、寧生は歩みを進める。
多摩川沿いにそびえ立つ巨大な施設ーーアミダ・ラボと呼ばれる研究所で、幼馴染は今日も働いている。
蜘蛛の巣のようにひび割れたコンクリートを踏みしめて、多摩川の支流に沿って歩いていく。
交差点で長めの信号を2つ渡る。
市役所の横を通り過ぎる。
閑静な住宅街に入る。
寧生の通学路からラボまでの距離は3km弱。
輪廻はバスで通勤しているらしいが、中学生の寧生には毎日幼馴染を迎えに行くためにバスに乗るほどの小遣いはない。したがって、自らの足で行く。
中学1年生の足で軽い運動がてらに歩くにはやや長い道程だが、研究に没頭するあまり自らの体調をおろそかにする幼馴染が一人で帰ることに比べれば、自分の足が多少痛むことは寧生にとってさしたる問題ではなかった。
研究所に着く。巨大な図書館のような建築でありながら、工場のような趣も見せている。
当然、ただの中学生には入れないが、寧生はそれを問題にしなかった。
関係者らしき成人男性が寧生の横を通りがかる。男性が社員証をリーダーにかざすと、ゲートが開いた。そこへ向かって一直線に走り、男性の腕の下をくぐり、ネズミのごとく建物内に滑り込む。いつもの寧生の手口だった。
「と…止まれ!!なんだお前は!!」
男性が追いかけてくる。当然の結果である。
騒ぎを聞いた他の職員が駆けつけ、寧生を取り押さえる。
「いや離してくれよォ、輪廻を迎えに来たんだって」
のんきな声がラボに響く。
「無断でラボに侵入する者の言うことを誰が聞くか!」
先ほどの男性は鼻息を荒くしていた。
「あの、本当です」
前方から少女の声が聞こえる。
厚底ブーツにリボンやフリルなどの装飾の凝った少女趣味な服、その上に、大人用であろうややオーバーサイズの白衣。
大きな垂れ目に切りっぱなしのボブカット。
寧生の幼馴染・萩ノ宵輪廻である。
「寧生、また勝手に入ってきたの?」
「おー輪廻、おつかれー」
「萩ノ宵主幹、お疲れ様です」
男たちは寧生を解放し、輪廻へ仰々しくお辞儀をする。
「お疲れ様です。寧生がいつもすみません…」
「萩ノ宵主幹。分かっているでしょうが、我が国の未来は貴殿の手にかかっている。このような凡夫に拘っている暇などございませんよ」
男の一人が、言葉に圧を滲ませる。
寧生は極めて純真な瞳で彼を眼差し、口を開いた。
「おっさん、我が国の未来より自分の頭皮の心配した方がいいんじゃねえのか?」
輪廻が吹き出す。
「何を言うんだ君は……!!そもそも部外者でありながら何故いつもここにいるのだ!!」
「社会科見学で」
「嘘をつくな!!」
髪の薄い男は怒りと恥でみるみる顔を赤くする。
寧生がラボ内を見渡す。
学校の理科室では決して見かけない円柱型の大きな装置、複雑な形をしたガラスの容器、シャーレ、顕微鏡、培養器、何かの生き物のホルマリン漬け。
「今日もここは難しそうなことやってんなァ」
「ちょっと寧生…!」
輪廻が寧生の失言を諌めようとするが、ふいに手をとられる。
「輪廻も腹減ったよな。仕事終わったろ?うちでピザ食おうぜ」
寧生は答えを待たず走り出す。
ラボから出ると、輪廻は眩しさに目が眩んだ。
夕焼けだった。
「なんか久しぶりに、空見たかも…」
「寧生、またラボまで歩いてきたの?」
「バス代ねえからな」
「寧生の学校から3kmあるんだけど」
「お前を一人で帰らせるよりマシだろ。」
肩を並べてああだこうだと話しながら歩いていれば、3kmの距離は二人にとってあっという間だった。
寧生の住む家に着く。
緑に囲まれた都営住宅の階段を登り、2階の一室のドアを開けると、一人の成人女性が見えた。
「あ?お萩、どうした?」
妙なあだ名で輪廻を呼ぶのは、喜代永紅寧。寧生の母である。
ぼんやりとした寧生とは似ない、きりっと吊った目尻に長身でスレンダーな出で立ちが一見して近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「おー。今日うちでピザ食おうと思って」
寧生が間延びした声で答える。
「今日?急すぎんだろ!もう飯用意しちまったぞ」
「えー」
「ピザは今度にしろ」
「ちぇー。じゃあ輪廻、また今度なァ」
「うん。また今度」
帰ろうとする輪廻を紅寧が呼び止める。
「ちょい待てよお萩、腹減ってるだろ。ピザは無理だけど夕飯くらい食ってけよ。」
輪廻はお言葉に甘えることにした。
寧生の母はきつい口調に反して面倒見が良いことを、輪廻はよく知っていた。
母謹製のややしょっぱい生姜焼き、熱々の白米、豆腐とワカメの味噌汁、そして寧生が台所にあった食パンとケチャップとチーズで勝手に作ったピザトーストが食卓に並ぶ。
明らかに炭水化物が一品多い食卓を囲み、寧生と輪廻は穏やかな時間を楽しんでいた。
「寧生ってさ、どうしていつも迎えに来てくれるの?」
「研究ばっかりでロクに寝てねえ誰かさんが、そのうち道歩いててコロッと川に落っこちたりすんじゃねえかと思ってよ」
「何それ!私そんなドジじゃないし。」
「どうだか。最近ちゃんと寝てんのか?」
「ね…寝てるっ。寝てるよ?」
「嘘下手か」
「……一日3時間くらい」
「それ寝たって言わねえから!!……なんでそんなに頑張るの?」
「仕事で再生医療の研究と実験と会議して、空いた時間は別の研究してるんだ。それがすごい楽しくて、寝てる暇なんてないの」
研究の息抜きでまた別の研究を始める。萩ノ宵輪廻はそういう科学者だった。
「俺は暇じゃなくても寝てえけどなァ」
「私今ね、すごい装置作ってるの」
「へェ。どんな?」
輪廻がおもむろにカバンから無骨なチャコールグレーの機械を取り出す。
それは一見してヘッドフォンのような形をしていた。
「これなに?」
「記憶保存装置。頭に装着すると自分の記憶を保存できるの」
「……記憶?何のために?」
「私がおばあちゃんになったとき、寧生のこと忘れちゃうかもしれないでしょ」
「忘れねえだろ」
「分かんないじゃん。認知症になったら忘れるかもしれないじゃん」
「じゃあ忘れたら、そのときまた友達になればいいじゃん」
「……」
「何?」
「……寧生って、たまにずるいこと言うよね」
輪廻はお椀で表情を隠すようにして、味噌汁に口をつけながら顔を赤くしていた。たまに変なリアクションするなこいつ、と寧生は思う。
「……とにかく!記憶保存の技術が実用化されれば、私だけじゃない、たくさんの人が将来の自分のために思い出をとっておけるんだよ!いつか認知症やアルツハイマーになった時でも、大切な人との思い出をいつでも取り戻せる。それって素敵じゃない?」
「なるほどなァ」
寧生はぼんやりと虚空を眺めながら相槌を打つ。
将来。認知症。そんな未来の自分を思い描こうとしても、12歳の寧生にはまだピンとこなかった。
「俺も輪廻が大事にしてるもんは大事にしてえけどさァ」
寧生がゆるやかに投げた声が天井に響く。
「ちゃんと寝ねえと、俺の父ちゃんみたいに死んじまうぜ」
「……」
喜代永寧生の父は、すでに故人だった。
寧生が生まれる前に、過労で亡くなった。
「俺は父ちゃんに一度も会ったことないから、死んじまって寂しいとかはよく分かんねえけど、輪廻に同じようになってほしくはねえよ」
輪廻は何も言えず、食卓に沈黙が下りる。
テレビの中からアナウンサーが話す声が響く。
「続いて、深刻化する少子高齢化への対策についてです。
日本では近年、出生数の減少と高齢人口の増加に伴い、社会を支える労働力の不足が大きな問題となっています。
政府はこれまで、再生医療や老年医学など、健康寿命の延伸を目的とした研究に大規模な国家予算を投入してきました。
その結果、日本の生命科学技術は飛躍的な発展を遂げています。
現在では、従来であれば治療が困難だった疾患の治療や、後期高齢者の身体機能を長期間維持することも可能となり、平均健康寿命は過去最高を更新しています。
しかし――医療技術の進歩だけでは、労働人口の減少を補うことはできませんでした。」
高齢者の医療施設、再生医療研究施設、閑散とした学校が画面に映る。
「そこで政府が導入したのが、『特認成年者制度』です。」
「特認成年者制度とは、一定以上の知能・技能を有し、さらに心身の適性審査を通過した未成年者について、成人と同等の就労および社会活動を認める制度です。
これにより、特定の専門分野で高い能力を持つ子供たちは、成人年齢を待たずに企業や研究機関などで働くことが可能となりました。」
「制度の対象となるには、知能・技能に関する試験のほか、精神的成熟度、身体的適性、本人の就労意思など、複数の審査を通過する必要があります。
現在、全国でおよそ8540人が特認成年者として認定されています。」
「こん中に輪廻も入ってんだよな。なんか不思議な感じだなァ」
テレビに顔を向けたまま寧生が呟く。
「政府は、今後さらに制度の対象分野を拡大する方針です。
また、再生医療や健康寿命延伸技術の研究についても、引き続き国家予算を重点的に配分するとしています。」
「老いた才には、より長く。
若い才には、より早く。
限られた人口を最大限に活用することで、少子高齢化の時代を生き抜こうとする日本。その社会の在り方は、今、大きく変わろうとしています。」
「――以上、特認成年者制度についてお伝えしました。」
「ほら、寧生。食ったら皿片付けろ」
台所から紅寧の声が聞こえ、寧生が立ち上がる。
「へーい」
「お萩。また来いよ」
「はい。ごちそうさまでした。寧生のピザトーストもおいしかったよ」
「今度は本物のピザ食おうな!約束!」
「うん。一緒に食べようね。絶対だよ?」
「おー!また明日!」
笑顔で手を振る輪廻が閉まるドアによって見えなくなる。
にわかに静寂が訪れる。
ほんの少し逡巡して、寧生はドアを開け、輪廻を追いかける。
「輪廻!」
多摩の夜は早い。都心のようなネオンの輝きとは縁遠く、夜7時にはもう辺りは真っ暗だ。
街灯もまばらな暗がりの道に、小さな背中を見つける。
「どうしたの、寧生?」
「変な話なんだけどさ…」
「うん」
「さっき見せてくれた機械、少しの間貸してくんねえ?」
「記憶保存装置?」
「そう!」
輪廻は、ついに寧生が自分の研究に興味を持ってくれたと思い、嬉々として装置を寧生の手に握らせる。
「……別にいいけど、壊さないでねっ」
言葉に反して輪廻の声は爛々としていた。
翌る日。7月12日。
放課後、寧生はいつものように多摩川に向かっていた。通学用バッグから昨日借りた記憶保存装置を取り出す。
ヘッドフォン型の装置を頭に装着する。少しだけ高鳴る鼓動をよそに、「REC」と印字されたスイッチを押す。
そのままいつものように多摩川への道を歩いていく。
多摩川に着く。遠くには輪廻の職場が見える。
そこで気付く。
「…あれ?記憶を保存したはいいけど、これどうやって保存した記憶を再生するんだ?」
その装置はカメラではない。当然カメラのように録れたものを再生するモニターなどはない。
「あー……これ、ちゃんと録れてるかどうかは俺一人じゃ確かめらんねえやつかァ」
「ま、いいかァ。輪廻がなんか再生できる機械持ってるだろ。記憶再生装置、みたいな」
広大な河川敷に寝そべる。夏の空気の熱さに対して草は意外にも冷たく、少し驚く。
空が見える。よく晴れていて、どこまでも滞りなく青かった。
川の方を見やると、四羽の鴨が仲睦まじく泳いでいた。
ーーこれで、記憶が録れているんだろうか。
誰も扱ったことがない未知の装置。
録音機なら、ビデオカメラなら、録ってすぐに成果が分かる。しかしこれはそうではない。誰も知らない機械を扱っている高揚感と、成果物を確認出来ないもどかしさに寧生はただ焦がれていた。
そもそも、記憶とはなんだろう。
ただ音声を伴った映像、というには違うだろう。記憶には、感情や味覚なども伴う。
そういったものを「再生」した時、どんな体験が出来るのか。
寧生は、そういう未知の体験を輪廻にプレゼントしようと計画していた。
何より、寝る間を惜しんで研究している分野の実験データをプレゼントしてあげたら、きっと他のどんな贈り物よりも輪廻は喜ぶだろうと思った。だから昨夜、装置を借りた。
明日は輪廻の誕生日。
休めといっても聞かない輪廻に、せめて彼女が喜ぶものをプレゼントして、人類へ才能を与えるばかりでなく、誕生日くらいは人から何かをもらう側になって笑って欲しかった。
そういう一瞬を少しずつ積み重ねて生きていければ、二人はそれでよかった。
(ーーこんなこと考えてるのもこの装置には録れてんのかな。それはちょっと恥ずいな)
物思いはほどほどにして別の記憶を録ろうと、寧生は川辺を歩き出す。
夏の日差しできらきらと輝く清流。
川の真ん中にぽつんと浮かぶ離れ小島。
足元の砂利。
背後から大人の足音。
細く低いかすれ声。
「……お前のせいで、あいつは死んだ」
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
20代後半くらいのその男はひどく痩せており、黒づくめの服で異様に背が高いので圧迫感がある。
無造作に伸びた前髪の隙間で口が動くのが見えた。
「お前は何も知らずにのうのうと生きて……」
「何故あいつが死んだか、何も知らずに……」
男は呪詛のような呟きを繰り返す。その目はこちらを見ていない。独り言なのか、こちらに向けた言葉なのかすら曖昧だった。
「あいつって?……いや、というかアンタ誰だ?」
その言葉に、男は刺すような目で寧生を眼差した。
「恒真実。この名前が分かるな」
「俺の父ちゃんの……名前」
「真実は俺の兄だ」
言葉通りなら、この目の前の憔悴しきった長身の男は、寧生の叔父にあたる。
しかし寧生は訳が分からなかった。叔父がなぜ自分を恨んでいるのか、なぜこんなにも彼は窶れ切っているのか。
寧生は目の前の彼に、過労死したという父を重ねる。
「あんた、父ちゃんの兄弟だか知んねえけど、そんな目の下にクマ作って……ちゃんと寝ないと、父ちゃんみたいに死んじまうぞ」
「真実のことを知ったふうにほざくな!!」
男の怒号は殊更に高く響いた。
「俺の名は恒徹真。あの日から、真実の死についてずっと考えてきた」
「真実はお前が殺したんだ」
「何言ってるか分かんねえよ……」
さすがの寧生もたじろぐ。生まれてこの方人を殺したことなど一度もないし、まして父の真実は寧生が生まれる前に死んだのだ。寧生に父を殺せるはずもない。
「お前がいなければ!!真実は生きてた!!」
「落ち着けって!!」
必死の静止も虚しく、激しい衝撃が寧生を襲う。
大人の力で全力で殴られたと理解したのは、2秒ほど経ってからだった。頭の中で除夜の鐘のような低く重い音が鳴り響く。
呆気に取られていると、さらなる打撃が襲いかかってきた。
歯が抜ける。
抜けた歯が、カシィンと高い音を立てて河川敷に打ち付けられる音がした。
口の中に生き血の味が広がる。
やばい、と思う間もなく次の一撃を受ける。
視界が暗転し、それから自分が倒れる音がした。倒れたのだろう。
意識が放り出されていく。その一瞬はとても長く感じた。
「?…どこだ、ここ」
白い天井。ツンと鼻をつく薬品の匂い。心電図。閉めきられたカーテン。恐ろしいほど真っ白で、一人で眠るには奇妙に広い室内。
「旅行に来たって感じでもねえし……俺何してたっけ」
横に目をやると、見知らぬ空間を背に、よく知ってる幼馴染が顔を覗き込んでいた。
その顔は、最後に見た時より少し大人びていた。
「輪廻!これどういうことだ!?」
「輪廻…なんで泣いてんだ?」
「…おかえり」
「……寧生……!」
輪廻に抱きしめられる。
「うわっ!?」
寧生より低い、しかし確かな体温が服を通して伝わり、寧生は思わず身じろぎをする。
「いずきっ……!寧生……!」
その声は震えていた。
「ちょ、ちょっと待てって! 近い近い!」
「……ごめん」
「いや……別に嫌じゃねえけど……どうしたんだよ?」
「……寧生は、2年間も意識がなかったんだよ」
ズキッ。
妙な頭痛が寧生を襲う。
「下校中に何者かに襲われて、危ないところだったの。本来、人の救命は科学者たちじゃなく医療機関の領分だけど…ラボが公に明かしてない、まだ医療機関にも提供してない技術を使って、なんとか寧生の命を繋いだんだ」
「…で、今日目覚めたってわけかァ」
痛むこめかみを抑えながら、寧生は考える。
なんだか他人事みたいな話だ。
そう言われても、体のどこも痛まないし、傷跡なども見当たらない。何より普通の中学生の自分が何者かに襲われるなんてドラマじみた出来事が、寧生には信じがたかった。
「……しばらくリハビリも兼ねて、このラボで過ごしてもらうよ、いい?」
「ピザ食える?」
「所長に打診してくるよ。多分手配してくれると思う」
「じゃ。ちょっと待っててね、寧生」
ズキン。
頭痛がひときわ大きくなる。
「ぐぇ……」
「寧生!?大丈夫!!」
輪廻が駆け寄る。
「……」
「寧生!!」
「わり、なんか、さっきから名前呼ばれると頭痛くて……」
「!……そう……」
輪廻はひどく寂しそうに目頭を光らせる。
一瞬、泣いているようにも見えた。
「……分かった」
「?」
「……ネヲ」
「今日から君のこと、ネヲって呼ぶ。あだ名!」
「ねお……?」
「私、誰かにあだ名つけたの初めてかも。頭痛くなるのは困るけど、幼馴染なのに名前呼べないのって不便だから、今日から君はネヲね!」
「お、おう……?」
「んで、リハビリだっけ?っつってもなァ、俺もうどこも悪くねえし、痛くねえぞ?」
「じゃあ歩いてみて」
ベッドから起き上がる。
足の裏を白く冷たい床に付け、膝に力を込める。
足の裏を軸に、全体を起こし、立ち上がる。
右足を持ち上げる、
が、転ぶ。
「うわァ!」
「ほらね」
輪廻が肩で支える。
「2年間眠ってたってことは、2年間ネヲは歩いてないの。頭が覚えていても体が歩き方を忘れるし、当然、足の筋肉だって衰えるの。」
「そういうもんかァ……?でも、2年も寝てたなんて聞いたら、なおさら家とか学校の様子とか気になるよ」
「だからこそ、今は無理しないで元の生活が出来るようにここでリハビリして。この町、階段とか坂ばっかりでしょ?今の状態で外を歩くのは危なすぎるよ」
「でも……」
「お願い、もう心配させないで……っ」
目線を輪廻と合わせて、ネヲははっとする。輪廻は真剣だった。何より、その目は刺すように切実だった。
「わ、分かった。……まあ、このゴルフ場みてえなバカでかい研究所から出るのも面倒だし、3食ピザ食えるなら居ても良いぜ」
「3食は食べ過ぎ!ニキビだらけになるよ!?」
ネヲは笑う。
自分が襲われたと聞いた時は驚いたが、目の前にいるのはいつもの輪廻だ。
研究所のベッドという場所こそ奇妙だが、自分がふざけて、輪廻が怒る、いつもの日常が戻ってきた。




