第四章 最終話「回帰」
10月7日、午後13時。
日曜日のアミダ・ラボの事務室に電話の音が鳴り響く。
「はい。アミダ・ラボです」
事務部の職員が電話に出る。
『多摩南署の安堂です。現在、東多摩児童相談所でネヲ君を保護しているのですが、どうも気になる証言がありまして……つきましては、ネヲ君と行方不明の喜代永寧生が確かに別人であるという証拠をご提出いただきたい』
職員が再生医療部の主幹・萩ノ宵輪廻を呼び出し、電話を替わる。
「お電話替わりました、研究主幹の萩ノ宵です。ネヲの身元について、近日中に研究資料を用意します。少し時間をください」
ついにこの時が来たか。
輪廻が電話を切り、深いため息をつく。
ネヲの存在が国家機密とはいえど、おそらくアミダ・ラボは警察に喜代永寧生の誘拐など事件性を疑われている段階だ。そうなれば、研究資料を提出しないわけにはいかない。それに、いつまでもネヲを宙ぶらりんにしておくことはあまりにかわいそうだ。今だって、警察に連れて行かれたり児相に送られたり、ネヲの生活は騒動の爆心地にある。一刻も早く社会にネヲの身元を明らかにして、穏やかな生活をさせてあげなければいけない。
しかしーー
「ネヲが寧生の記憶を持っていると分かれば分かるほど、遺伝子などの肉体情報が判れば判るほど、社会から見た時にネヲイコール喜代永寧生という式が出来上がってしまいます。しかしネヲはそれを望んでいない……」
屋上で缶のカフェオレを見つめながら、輪廻は梁井に語る。
天を見上げる。鱗雲でびっしりと埋め尽くされた隙間から、青い空が見える。
缶コーヒーを飲みながら静かに話を聞いていた梁井が、輪廻の話し終わるのを待ってから口を開く。
「悩みは尽きませんね。こういう形で命をひとつ生み出したからには、我々はネヲ君のアイデンティティも含めて守りぬかなければ」
「そうですよね……」
「主幹、児相にいるネヲ君に一度会いに行ってはどうでしょう?」
輪廻は驚いて梁井の方を見る。
「な、なんでそうなるんですか?今、そんなことを言ってる場合では……」
「ネヲ君のことを思って動こうとしているなら、一度本人の顔を見に行けば、やるべきことが見えてくるかも知れませんよ」
「しかし、休日出勤している皆さんを差し置いて、私だけそんな気分転換みたいなことは……」
「でも会いたいのでしょう?」
図星を突く。
「……はい」
梁井には敵わない。輪廻は手に持っていた缶のカフェオレを飲み干し、白衣の襟を正した。
「船橋ってなんで児相来たの?」
東多摩児童相談所の遊戯室で、ネヲがあぐらをかきながら船橋に尋ねる。
「……親が警察にパクられて、俺一人になったから」
船橋が決まり悪そうに小声で答える。
「そっかァ」
「喜代永……じゃなかった、ネヲって呼べばいいんだっけ。……ネヲはなんで?」
「俺は、なんか苗字と年齢と親が分からないからここにいるらしい」
「なあ、それってどういう事なんだよ?お前は喜代永で、俺と同い年なら14歳のはずだろ」
「俺の頭には喜代永寧生の記憶がある……けど、俺じゃないんだよ」
「分かんねえなあ……」
船橋が少し遠くで遊んでいる小さな子供たちを見ながら、頭を掻く。
「まあいいや、きよ……ネヲもキューブやる?」
キューブ型のパズルをネヲに手渡す。
「げェ。俺こういう頭使うやつ苦手なんだよなァ」
「俺たち難しいことに巻き込まれてるけどさ、別の難しいことしてると気が紛れて楽しいぞ」
船橋なりのネヲへの励ましだろう。
キューブを当てずっぽうにいじくりながらネヲは尋ねる。
「なあ船橋。学校、楽しい?」
「うーん、普通かなあ。……いや。ここ来てから学校はしばらく行けなくなったんだけど、なんか落ち着かなくてさ、今になって分かった気がする……ああ俺、学校楽しかったんだなって」
「そっかァ」
「俺も、ここ出たら学校行けるかな」
ネヲが遠くを見ながら呟く。
「行けるだろ。だって喜代永が学校行ってた記憶はあんだろ?よく分かんねえけどさ。覚えてるなら、戻れるよ」
「……そっかァ」
覚えてるなら、戻れる。その何気なく素朴な言葉が妙にネヲの胸を明るく灯した。
「ネヲ」
「?」
船橋がネヲの肩を指で小突く。
「あっちに知らない女の子いんだけど、新入りかな」
船橋が窓の外を指す。
そこには、見慣れた白衣の少女が立っていた。
「輪廻!」
相談室の薄緑色のソファに腰掛け、机を挟んで輪廻と向き合う。
「ネヲ、おつかれさま。警察に児相に、立て続けに大変だったね」
「輪廻の顔見るの、なんか久々な気分だなァ。元気だった?」
「まあね。……」
「輪廻?」
「さっき、紅寧さんから連絡来た。『ネヲと会った』『全部聞いた』……って」
「うん。これだけは俺が言わなきゃと思って、母ちゃんに全部話した。寧生が死んだことも、俺がどうやって生まれたのかも」
「……私、ほんとはね、寧生のこともネヲのことも自分が紅寧さんに話さなきゃって思ってたんだ。ネヲに『一人で抱えるな』って言われたばっかりなのにね」
「警察に行っても、児童相談所に行っても、ネヲがどこにいてもネヲとして生きるために頑張ってるの、ちゃんと分かってるよ」
「だからね、私も一人で頑張るのをやめることを頑張ろうと思う。私達で……アミダ・ラボ全体で、これからネヲが帰りたいところに帰れるように支えるって決めた」
「それがアミダ・ラボでも、紅寧さんのところでも、ここでもいい。ネヲが帰りたいところだけが、ネヲの家だよ」
「輪廻……」
「ここには船橋がいるし、小幡ちゃんも優しい。警察に行けば、カツ丼が食える。母ちゃんのとこは……まだ『俺』が帰っていいのか分かんねえ。この数日、色んな人に会ったけど、みんな良いやつだった」
「でも俺、今輪廻に会えてすげえほっとしてる」
「な、何言ってんの……」
予想もしない真っ直ぐな言葉に、輪廻が目を逸らす。しかしネヲは続ける。
「輪廻がいるところに帰りたい。普通じゃないかも知れねえけど、俺にとっては、アミダ・ラボが家なんだと思う」
「ネヲ……」
「じゃあ、帰ろっか」
輪廻は眩しそうに笑う。
「ネヲの出生に関する研究記録を、この児相に提出することに決めたの。それも今は所長の許可待ちだからすぐには難しいけど、必ずネヲが帰ってこれるようにするから、待っててね」
「うん。待つ必要はないね」
低く柔らかい声が頭上で響く。
「え……!?」
輪廻が見上げると、大統領のような貫禄の白衣の男性が立っていた。
「誰?」
ネヲが訝しむ。
権藤瑞之。アミダ・ラボの所長である。
「所長!なぜここに……!?」
その手には、大量のファイルに収められた紙の束が抱えられていた。
「萩ノ宵君。ネヲ君の身元確定に必要な研究記録はこれで全部かな?」
権藤が研究記録のコピーを机にばさりと広げる。
それは、個体再構成計画ーーネヲが生まれるきっかけとなった実験計画の概要書、参考論文、寧生由来の細胞に着手した日からネヲが目覚める日までの11ヶ月間にわたる実験記録、目覚めたネヲがどのように暮らしていたかを仔細に記録した業務日誌などだった。
「培養器で育ったネヲの出生日は自然妊娠のようには定義できない……けど、2056年から2057年の間に生まれた存在だってことを証する資料が揃ってる……これならネヲイコール寧生ではないっていう身元の証明になる!」
輪廻が感嘆の声をあげる。
「俺の資料?いっぱいありすぎだろ」
書類上を埋め尽くす大量の細かい字に圧倒され、ネヲが顔をしかめる。
「これさえあれば俺はラボに帰れるのか?」
「君が望むならね」
権藤はにっこりと頷く。
「所長のおっさん、ありがとう」
「君が気にすることはない。我々としても喜代永寧生の誘拐を疑われており、研究所全体の危機だったところだ。我が国の再生医療を担うアミダ・ラボがあらぬ容疑で業務停止処分を喰らうくらいなら、たとえ国家機密だって差し出す。僕はただの自己保身が好きなおじさんだよ」
「しかし……10月4日のネヲ君の脱走事案が、ここまで各機関に影響を及ぼすのは、さすがの僕も予想外だったね」
「す、すみません……私の監督不行届です」
輪廻が下を向いて謝罪する。
「またそれかい、萩ノ宵君。梁井君が心配していたよ。『主幹は一人で抱えすぎだ』とね」
「そこまで聞いてらっしゃるんですね……」
「君は非常に優秀な研究主幹だ。今更子供扱いするつもりはない。ただ、これだけは覚えておくといい」
「何でしょう?」
「どうしたらいいか分からなくなったら、いや、分からなくなる前に、いつでも大人を頼りなさい」
輪廻がはっとして権藤を見上げる。
「……はい、努力します」
「腹減ったなァ。輪廻、ここ出たらピザ食いに行こうぜ」
ネヲが空腹を訴え、場の空気が一気に緩む。
「ネヲ。気持ちはわかるけど、今日すぐに出られるわけじゃないからね?」
「そっかァ」
窓の外で、澄み渡った秋の空に夕陽が暮れなずんでいた。
数日後。
東多摩児童相談所にて『ネヲ』の出生に係る資料の確認作業が進み、『ネヲ』の身元引受人はアミダ・ラボ所長の権藤瑞之と正式に決定した。
さらに数日かけて児相と権藤はいくつかの書類を交わし、ネヲはアミダ・ラボへ戻ることになる。
10月17日。
迎えが来たネヲは権藤の車に乗せられ、多摩川方面へ向かう。
見慣れた、巨大な図書館のような工場のような建物。久しぶりのアミダ・ラボだ。
入り口付近には、白衣の少女が待っていた。
少女は静かに笑う。
「おかえり」
ネヲはゆるく手を振る。
「ただいま」
その顔は、とても穏やかだった。




