作家と小説のこと――ある狂人の独白
今までの章では、この文章を読んでいる貴方に読み進めてもらうため、意図的に「謎」を散りばめながら書いてきたつもりです。でも、この章は最後の章。だからもう、やめました。読みづらいかもしれません。読んでもらえないかもしれません。でも、できれば読んでほしい。どうか、どうかよろしくお願いいたします。
小説の面白さは、まるでパズルのように、「謎」という部品を組み合わせて造られている、ということをご理解いただけたでしょうか。タネさえわかってしまえば、「なんだ、そんなことだったのか」と言いたくなるような、単純なことの積み重ねです。しかし、そこには恐怖があります。小説の面白さが意図的に、狙って造りだせるものだとしたら、小説とは、薄っぺらい、ツクリモノの娯楽でしかない、ということになるのでしょうか。
いいえ、決してそうではありません。なぜなら「謎」によってもたらされる「面白さ」は、小説の原点ではあっても終着点ではないからです。小説の「面白さ」は、小説を、小説という形に結晶化させるための、ただの手法でしかありません。
誤解や批判を恐れず、あえて言わせていただきたい。
小説という名を冠する以上、読者を作品世界に惹きつけておくための「面白さ」は、生まれたときから備わっていて当然の、小説を小説として成り立たせるために最低限必要な、単なる前提条件である、と。そして、それを取り払った後に残るもの、その「面白さ」によって読者に無理矢理ページをめくらせてまで、作家が見せたかったものは何なのか、ということが、たったひとつだけ残された、小説の最後の「謎」なのです。
無味乾燥な文字の羅列からそれを見出す瞬間にこそ、読書の素晴らしさがあります。真に素晴らしい小説とは、単に「面白さ」を持っただけの小説のことではありません。読者に伝えたい「素晴らしい何か」を「面白さ」という砂糖細工で包み込んだもの、それこそが小説の完成形なのだと、私はそう信じています。
そのような素晴らしい小説に出会い、ワクワクしながらページをめくり、主人公と一緒に一喜一憂し、そして最後に、その小説に込められた「素晴らしい何か」に出会う。
それが、「読者」という名で呼ばれる私の、切なる願いでございます。
さて、この手紙もこれでおしまいです。これを読んでいる貴方の手によって、いつか生み出されるであろう作品と、素晴らしい形で出会う未来を夢見つつ、いまは筆を置きたいと存じます。
このような駄文をここまでお読みいただいた、あなた様のご多幸とご健勝を、こころよりお祈り申し上げます。
敬具