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白刃ノ緋目譚 ~継火の縁~  作者: Nero
【第一部:焔は誰がために】
3/4

第一章 水場の邂逅:第二話

前話の挿絵チェックの間に作成してました 

春の陽光が、山間に響く滝の音と共に、若葉の萌える森に降り注いでいた。水しぶきが太陽の光を受けてきらめき、空気全体が清涼感に満ちている。小動物たちの鳴き声が遠くからかすかに聞こえ、つかの間の平穏を演出していた。そんな自然の調和の中で、異質な存在が荒い息を整えていた。

白銀の長髪を持つ女——白焔が、水場の岸辺で膝をつき、胸に手を当てている。肌からは水滴が次々と落ち、素肌が陽光を反射してまばゆい光を放っていた。肩で息をする様子からは、激しい感情の余韻が伺えた。

「……はぁ、はぁ……私は何をしている……」

彼女の口から洩れた言葉は、滝の轟音に飲み込まれるように小さく響いた。白焔は意識的に呼吸を深く、ゆっくりと整えようとした。すると、胸の奥で燃えていた怒りの炎が、じわじわと鎮まっていくのを感じる。自分を包んでいた熱が冷めていく度に、先ほどの自分の行動が、信じられないほど理性を欠いていたことに気づき始めた。

感情の波に溺れた自分。狼狽えて取り乱した自分。普段なら絶対に見せないような激情にかられた自分の姿が、脳裏に浮かんでは消えた。そのたびに、深い自己嫌悪が胸の奥底から湧き上がってくる。同時に、もう一つの感情が押し寄せてきた。

恥ずかしさ。

獲物を追い詰め、相手を畏怖の念で包み込むことには慣れている。だが、このむず痒いような、顔が火照るような感覚——恥ずかしさというものは、彼女の心には今まで芽生えたことがほとんどなかった。裸の姿をあの男に見られたという事実が、何度も何度も思い出される度に、顔が熱くなるのを抑えられない。

「何故、私が……」

疑問符を心の中で繰り返しながら、白焔は水面に目を落とした。透明な水が、周りの木々と共に彼女の姿を映し出している。その水面を見て、彼女は異変に気づいた。

浅瀬のあたりに、男の体が仰向けになって浮かんでいる。衣服が完全に水を吸い、体全体が水面に漂うようになっていた。男は微動だにせず、まるで魂が抜けたかのように動かない。その様子は、まさに水死体そのものだった。

「……まだ水の中に……」

つぶやいた瞬間、胸の奥にざらりとした感触が広がった。まるで細かい砂を飲み込んだような、不快な感覚。自分が怒りに任せて投げ込んだ時、どれほどの力を込めたのか。妖の血を引く自分の力を、一般的な人間が耐えられるはずがない。

水の流れは緩やかだったが、男は全く動こうとしない。普通なら、水中に投げ込まれれば必死で泳ぎ出すはずだ。だがその気配が全くない。

まさか、死んでしまったのか?

その可能性が、一瞬だけ白焔の心を凍り付かせた。

-----

白焔は、再び水面を凝視した。自分が怒りに任せて投げ込んだ男の命が、今まさに失われようとしている。その認識が頭をよぎった瞬間、彼女の体は意思に先んじて動き出していた。

ざばんっ!

堰を切ったような水しぶきが上がった。白焔は迷いなく水面に飛び込み、浅瀬に浮かぶ男の元へと一直線に泳いでいった。水中での動きは驚くほど素早く、まるで水そのものが彼女の体を誘導しているかのようだった。

男の体に手が届いた瞬間、白焔は違和感を覚えた。体が異様に重い。水を吸い込んでいるせいもあるが、何より力が完全に抜けきっている。まるで人形を扱っているような感覚だった。

腕を男の胸に回し、力強く引き寄せる。そのまま岸へと向かって泳ぎ始めた。白焔の動きは確かで力強かったが、男を引きずりながらの泳ぎは思ったよりも大変だった。

岸にたどり着くや否や、白焔は男を浅瀬から引きずり上げた。草の上に男を寝かせ、まずは顔を覗き込む。青白い顔色、閉じられたままの瞼、そして——

「呼吸は続いている……」

わずかだが、胸の上下が確認できた。だが、非常に弱々しく、このままでは危険だった。白焔は次の行動を決めあぐねた。水を吐き出させる必要がある。だが、どうすれば良いのか。

考えるよりも先に、本能が体を動かした。男の腹部に両手を重ね、思いきり押し込む。水を出すにはこうするしかないという、妖としての野生的な判断だった。

「げほっ!」

男の口から勢いよく水が吐き出された。白焔は手応えを感じ、今度はさらに強く押し込んだ。男の顔が苦痛に歪んだが、同時により多くの水が吐き出された。水と共に、男の口から息が戻ってきた。

白焔は無言で男の様子を見守った。こんな無礼な人間、見捨ててやればいい——そんな考えが頭をよぎる。だが、不思議なことに、彼女の体は勝手に動き続けていた。理性では「放っておけ」と告げているのに、手は男の体を押し、残った水を確実に吐き出させようとしている。

「本当なら見捨てるべきなのに……なぜ私は……」

困惑の言葉が口を突いて出た。なぜ自分は、この男を助けているのか。せっかく救った命を無駄にするのもばかばかしい、という理屈を自分に聞かせてみたが、それだけでは説明がつかない何かがあった。

男の呼吸が次第に規則的になってきた。胸の上下も、先ほどより力強くなっている。白焔は安堵するとともに、立ち上がった。濡れた肌からは水が滴り落ち、草の上に小さな水たまりを作っていった。

-----

髪から滴り落ちる水を、白焔は髪を絞ることで取り除き始めた。髪の毛は腰まである長さで、絞ると相当な量の水が草の上に落ちた。

「面倒なことになった……」

ぼそりと呟きながら、彼女は木陰に歩いて行った。そこには、彼女が沐浴前に丁寧に置いていた漆黒の戦装束が、手入れの行き届いた状態で畳まれていた。湿った肌に布が触れる感触は、ひんやりとして心地良かった。

着替えながら、白焔は考えを巡らせた。

「去るべきか……」

男を放置してこの場を離れる。それが最も賢明な選択だった。関わり合いになる必要はない。面倒事は避けるべきだ。

だが、足が動かない。

まるで見えない糸で縛られているかのように、その場から動けずにいた。この感覚は、彼女にとって未知のものだった。普段なら、面倒事からは迷わず離れる。それが生き残るための鉄則だった。だが今は違う。何かが、彼女の足を引き留めていた。

「人間など、すぐに忘れるだろう……なのに」

言葉を口にしながらも、白焔は男の元へと歩を進めていた。再び男の様子を確認する。水を吐き出した後、男は気を失ったまま横たわっていた。朝日を浴びた草の上で、衣装を濡らしたまま、静かに呼吸を続けている。

胸の上下を確認した白焔は、少し離れた場所に移動した。切り株のような岩に腰を下ろし、腕を組む。

理性では立ち去るべきだと理解している。だが体は、その場を離れることを拒否している。この矛盾に自分自身が混乱しながらも、白焔は男が目覚めるのを待つことにした。

-----

鳥のさえずりと滝の音だけが響く水場で、静寂が長く続いた。白焔は腕を組んだまま、じっと男の様子を見守っていた。陽光が次第に高くなり、朝露が草から蒸発していく。そんな穏やかな時間が流れた後——

「うっ……こほっ、こほっ……」

男の口から乾いた咳が響いた。まるで長い眠りから覚めたかのように、ゆっくりと目を開けた男は、周囲の状況を把握しようと視線をさまよわせた。水場の風景、草の上に横たわる自分、濡れた衣装——

そして、離れた場所に座る、白焔の姿。

男の瞳が、大きく見開かれた。驚きと戸惑いが入り混じった表情が、顔に浮かび上がる。記憶の断片が次々と蘇ってきたのだろう、男は白焔をじっと見つめ続けた。

白い髪、赤い瞳、そして——頭上に見える、人のものではない獣の耳。

現実とは思えない光景に、男は瞬きすら忘れたかのように、凝視したまま動かなかった。

一方の白焔は、男が自分に気づいたことを察し、わずかに身を硬くした。いつもなら、この瞬間から始まる。人間が見せる反応は、決まって同じだった。

まず驚き、次に恐怖、そして嫌悪。

白焔は、これから起こるであろう流れを予測し、心の中で小さく身構えた。また同じことの繰り返しになるのだろう、と。

-----

沈黙が流れる中、白焔は率直に尋ねた。

「動けるか?」

その問いかけは、素っ気ない口調でありながら、相手の状況を確認する意味を含んでいた。

「は、はい……」

男は咳き込みながら答えた。体を起こそうとするが、水を飲み込んだせいか、力が入らないようだった。それでも何とか座った姿勢になると、記憶の断片が次々と蘇ってきたのか、動揺を隠せない様子で白焔を見上げた。

数分間の沈黙の後、男が口を開いた。

「あの……先ほどのことですが」

「何だ」

白焔の眉間に、わずかな皺が寄った。警戒心が強まるのを感じた。予想した通り、彼女の姿について言及されるのだろう。人間は皆同じだった。まず異形への驚きを口にし、次に恐怖を示し、最後には嫌悪感を露わにする。

だが、男が次に口にした言葉は、予想とは全く異なるものだった。

男の顔が、みるみるうちに赤らんでいく。まるで火照ったかのように、耳まで赤くなっていく。口をもごもごと動かしながら、言葉を選ぶのに苦労している様子だった。

「あなたの……その……美しい……す……」

その瞬間、白焔の脳裏に、先ほどの出来事が鮮明に蘇った。熊を倒してすぐ、素肌を晒したまま立っていた時、この男に見とれられた瞬間。あの時の恥ずかしさが、再び頬を染め上げてくる。男の赤くなった顔と、言いかけた言葉の頭文字から、彼が何を言おうとしているのか察した。

「忘れろ」

激しい怒りと恥辱が入り混じった感情が爆発し、白焔は男の言葉を遮った。その声には、容赦のない冷たさが込められていた。

だが男は、怯むことなく、小さな声で言葉を続けた。

「……素肌」

二つの言葉が、空気中で不思議な形で重なった。白焔の「忘れろ」という命令と、男の「素肌」という言葉が、まるで交差するかのように響いた。

白焔は、怒りを必死で押し殺そうとした。だが内心では、激しく動揺していた。見られてはならないものを見られた恥じらいと、それを口にされた屈辱感が、胸の中で渦巻いていた。

「無理です」

男は、白焔の怒りにもかかわらず、頑なに首を振った。

「あれほどの美しさは…一度見たら忘れられません」

その言葉には、一片の偽りもないように感じられた。男の瞳は、真摯な輝きを放っていた。これまで白焔が見てきた、人間の恐怖に満ちた瞳とは全く異なっていた。

「忘れないというなら、物理的に忘れさせるぞ」

脅しの言葉を口にしたが、白焔自身、本気で実行するつもりはなかった。ただ、この男にどうやって忘れさせればいいのか、その方法が分からず、焦りを感じていた。

「それは困ります」

男は苦笑を浮かべながら答えた。その表情には、恍惚とした色すら混じっていた。

「たとえこの命が尽きようとも、あの姿は心に焼き付いています。神様の美しい素肌を拝見できたのですから…もう本望です」

白焔は言葉を失った。

これまで出会った人間は皆、彼女の正体を知るや、恐怖で震え上がったり、嫌悪感を露わにしたりした。だがこの男は、全く違った反応を示している。戸惑いと共に、自分でも理解できない感情が胸の奥底から湧き上がってくる。

この会話を早く終わらせたい、という逃避的な気持ちと、もっとこの男のことを知りたい、という好奇心が、彼女の心の中で激しく葛藤していた。

-----

気まずい空気が流れる中、男は深く息を吐いた。緊張した雰囲気を和らげようとするかのように、話題を変えた。

「そういえば、助けていただき、ありがとうございます」

そう言うと、男は丁寧に頭を下げた。その仕草は、心からの感謝を表しているように見えた。

白焔は、急にそっぽを向いた。

感謝されることに慣れていない彼女には、どう反応すべきか分からなかった。これまでの人生で、誰かに命を救われたことを感謝されたことなど、片手で数えるほどしかない。いつも与えるのは、恐怖と畏怖の念だけだった。

「別に……当然のことをしただけだ」

白焔は気まずそうに答えた。その声は、いつもの威圧的な口調とは異なり、どこか迷いを含んでいた。

「いいえ、あなたは命の恩人です。あの熊から救っていただいたのですから」

男は真剣な表情でそう言った。その目には、嘘偽りのない感謝の気持ちが表れていた。

白焔は何も答えず、ただ黙っていた。

男は、気まずい沈黙を埋めるように、自己紹介を始めた。

「私は神薙直哉(かんなぎ なおや)と申します」

そう名乗った後、自然な流れで白焔にも尋ねた。

「あなたのお名前は?」

白焔は、一瞬戸惑いの表情を見せた。

「さっき犬神と名乗っただろう」

突き放すような口調だったが、そこには言い訳めいた響きも含まれていた。本名を明かすことへの躊躇いが見て取れた。どうせ一時的な出会いに過ぎない。この男に、本当の名前を告げる意味があるのだろうか、と。

-----

直哉は、白焔の返答に満足せず、さらに尋ねた。

「そうではなく、神様の個人的なお名前をお教えいただけませんか?」

その問いかけは率直だったが、同時に敬意を払った口調だった。彼の瞳には、純粋な好奇心と興味の光が宿っていた。

白焔は、思わず返事に詰まった。そして、名前を教えない理由を探すように言った。

「お前のような人間には分からぬ字だろう」

複雑な字を使う自分の名前を理解できるはずがない、という理屈で、名前を明かすことを避けようとした。

だが直哉は、諦めなかった。

「それでも……知りたいのです」

その言葉は静かだったが、決意の固さが伝わってきた。直哉の誠実な眼差しに、白焔は思わず心を動かされた。

長い沈黙の後、白焔は観念したように口を開いた。

「……白焔だ」

ためらいながら名を明かした彼女に、直哉は興味深そうに顔を近づけた。

「白……焔? どういう字ですか?」

白焔は、地面に落ちていた木の枝を拾い上げた。そして、草の生えていない土の部分に、丁寧に「白焔」の二文字を書いた。

「ああ、こういう字なのですね」

直哉は、その文字を見て満面の笑みを浮かべた。まるで難解な謎が解けたかのような、喜びに満ちた表情だった。

-----

「読めるのか?」

白焔は驚きを隠せなかった。難しい漢字を読めるとは、この男は一体——

「ええ。近くの村で神主をしていますから」

直哉の説明に、白焔はさらに驚いた表情を見せた。

「神主?」

「神様に仕える者です。ですから、少しは字も読めますし、薬草の知識も持っています」

直哉がそう説明している時、彼の視線が白焔の腕に向けられた。

「あなたの腕……怪我をされていますね」

白焔の腕には、いくつかの擦り傷があった。恐らく、白焔と熊が水場まで転げ落ちる際に、木々や岩に体を打ちつけてできたものだろう。

「気にするな。唾をつければ治る」

白焔は素っ気なく答え、傷を隠すような仕草をした。他人から自分の体について心配されるという経験が、彼女には非常に珍しく、どう対応すべきか戸惑いを感じていた。

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「いえ、そういうわけには……助けてくださった恩人です。きちんと治療させてください」

直哉は、脇に置いていた小さな手籠を手に取った。編み目の細かな、山菜を採る時に使うような柳の籠だった。

「それは何だ?」

白焔が籠を見つめると、直哉は中から数種類の草を取り出しながら答えた。

「薬になる植物です。山で採取していたものです」

白焔は眉をひそめた。その表情には、明らかな非難の色が浮かんでいた。

「それを取りに来て熊に襲われたら忙しないぞ」

完全に呆れ果てたような口調で言い放った。

「確かに…少し不注意でした」

直哉は苦笑いを浮かべた。自分の行動の無謀さを、今になって理解したような表情だった。

「傷など気にするな。こんな傷、すぐに治る」

白焔は袖で腕を隠すような動きを見せたが、直哉は諦めなかった。

「神様の方でも、傷は傷です。治療させてください」

粘る直哉に、白焔は渋々答えた。

「……好きにしろ」

手を差し出しながらも、彼女の心の中には複雑な感情が渦巻いていた。人間に触れられること自体が久しぶりで、その感触が予想以上に優しく、丁寧だったことに戸惑いを覚えた。長い旅の中で、誰かに傷の手当てをしてもらった記憶など、ほとんど残っていなかった。

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直哉の手当ては、思いのほか素早く終わった。薬草を擦り潰し、傷口に塗る手際は、慣れたものだった。

「これは簡単な処置です。神社で本格的に治療させてください」

直哉はそう願い出た。

「そこまでは必要ない」

白焔は即座に断った。深く関わるつもりはなかった。

だが直哉は、一瞬だけ沈黙した後、別の提案を思いついたように口を開いた。

「……では、せめてお礼に。食事だけでもご一緒いただけませんか」

「食事?」

予想外の提案に、白焔は思わず聞き返した。

「はい。今日採れた山菜と川魚を使った料理です。神社はすぐ近くですから、時間もかかりません」

その時、白焔の腹から、控えめだが確かな音が鳴った。思わずごくりと喉を鳴らし、言葉にした途端、空腹に気づかされた。

「……少しだけなら」

渋々ながら同意した白焔を見て、直哉は明るい表情を見せた。

「ありがとうございます。では、参りましょう」

直哉が立ち上がり、白焔に手を差し伸べた。だが白焔は、その手を完全に無視し、スムーズに自分で立ち上がった。

「案内しろ」

命令口調だったが、その声には以前のような威圧感は薄れていた。

直哉は微笑みながら前に立ち、歩き始めた。

-----

山道は、思ったよりも歩きやすかった。踏み固められた小さな小径を、二人は並んで歩いた。

「このあたりの山々は薬草が豊富なんです」

直哉が会話を始めた。その口調は穏やかで、自然の豊かさを語る時の喜びが滲み出ていた。

「そうか……」

白焔は短く返事をした。

「私が神主を務める神薙神社は小さいですが、この地域では古くから犬神様をお祀りしています」

その言葉を聞いた瞬間、白焔の足が止まった。

「犬神……」

小さくつぶやいたその声には、動揺が混じっていた。

「はい。白い犬の姿をした神様です。昔、この村を災いから救ったと伝えられています」

直哉の説明を聞きながら、白焔は自分のことを指しているのではないかと気づき、内心で戸惑った。

「それは……本当の話なのか?」

「村の古老たちは、二十年ほど前に実際に白い犬神様が現れたと言います。私はまだ幼かったので、はっきりとは覚えていませんが……」

少し間を置いて、直哉は冗談めかした口調で尋ねた。

「もしかして、貴方様がその犬神様なのでは?」

白焔は、わずかに顔を背けた。

「……その頃は旅の途中だった」

嘘ではないが、真実でもない。曖昧な返事だった。

「そうですか……でも、不思議なご縁を感じます」

直哉はそれ以上追及せず、柔らかな笑みを浮かべて歩き続けた。

諦めずに笑顔で答える直哉の横顔を、白焔はじっと見つめた。人間と肩を並べて歩くという感覚が、不思議で仕方なかった。これまでの人間との関わりは、襲われるか恐れられるかのどちらかだった。

今感じているこの感覚は、間違いなく新鮮だった。戸惑いながらも、心の奥底で何かが変化し始めているのを感じた。嫌悪感が次第に薄れ、代わりに別の感情が芽生え始めているような気がした。

-----

山道を抜けると、視界が開けた。

挿絵(By みてみん)

「あそこに見えるのが神社です」

直哉が指さす方向に、小さいながらも趣のある神社が見えた。茅葺き屋根の社殿と、その隣に建つ住居。決して豪華ではないが、手入れが行き届いている様子がうかがえた。

神社の入り口に立った時、白焔は一瞬、躊躇した。人間の住居に足を踏み入れる——その行為自体が、彼女にとっては非常に特殊な経験だった。長い間、洞窟や森の奥深く、時には廃寺の片隅など、人里離れた場所で過ごしてきた。屋根のある家で過ごしたことは、記憶にある限り、ほんの数回しかない。

警戒心と好奇心が、彼女の心の中で激しく葛藤した。

「どうぞ、ここがわたしの家です」

直哉の言葉は優しく、その顔には歓迎の笑みが浮かんでいた。

白焔は一瞬の迷いを感じたが、やがて決心したように足を前に進めた。

鳥居をくぐった瞬間——

さあっと、どこからともなく風が吹き抜けた。

その風は決して冷たくはなく、むしろ温かみを帯びていた。白焔の長い白髪が風に舞い、まるで歓迎の舞を踊っているかのように揺れた。同時に、境内の木々もざわめき始めた。葉が擦れ合う音は、まるで訪れた者を迎え入れる拍手のように響いた。

(……歓迎、だとでもいうのか)

そんな考えが、ふと白焔の脳裏をよぎった。自分に対して、歓迎の意を示す存在など、今まで一度も経験したことがなかった。

思わず、小さく眉をひそめた。このような考えを抱く自分自身が、不思議でならなかった。

けれど、その風は本当に優しく、まるで長い旅路を歩いてきた疲れた旅人を労うかのような温かさを持っていた。

白焔は、これまで感じたことのない不思議な心地良さに包まれながら、神社の境内へと足を踏み入れていった。

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