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白刃ノ緋目譚 ~継火の縁~  作者: Nero
【第一部:焔は誰がために】
2/4

第一章 水場の邂逅:第一話

※挿絵は、なろう様に合わせるように代替え表示しております


オリジナルは以下となります

pixiv

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24716183

春の陽光が山肌に柔らかな光を落とす中、一人の旅人が山道を進んでいた。

白銀の長い髪を風に揺らし、漆黒の衣をまとった女。春の日差しを浴びて、髪は時折まばゆい光を放ち、獣を思わせる優美な動きで地を這うように動いていく。その頭上には、人のものではない獣の耳が微かに揺れている。風の音、木々のざわめき、小鳥のさえずり、小動物の足音—すべての音を逃さぬよう、常に警戒している。名を白焔という。

足音は殆ど立てず、地面に重みをかけることもない。落ち葉を踏んでも音はせず、湿った土にも足跡は残らない。まるで幽霊のように山の中を進む彼女の顔には、表情らしい表情がなかった。赤い瞳は前方を見据えるだけで、何かを探すでもなく、何かを追うでもなく、ただ静かに進んでいく。

木々の間から視界が開けた先に、小さな村が見えた。段々畑が続く山の斜面から覗く茅葺き屋根の家々が、のどかな農村の風景を作り出していた。白焔の足が止まる。

「この地に訪れるのも二十年ぶりか」

風に消える呟きは、どこか感慨深い響きを持っていた。感情を殺したはずの声にも、わずかに郷愁が混じっている。二十年前、この地を訪れたことがある。彼女にとって、二十年の月日は長くはなかった。だが、人間にとっては一世代が過ぎるほどの時間だ。

白焔は立ち止まり、村を見下ろす。両足を少し開き、胸を張り、凛とした姿勢で。まるで領地を見下ろす君主のように、あるいは戦場を見渡す将軍のように。

山の斜面から見下ろす村の光景は、記憶の中のものと少し違っていた。今は色とりどりの作物が育つ田畑が、かつては黒く焼け焦げた荒地だった。今は子供たちが遊ぶ広場が、かつては戦いの跡地だった。

家々は建て直され、かつての焼け跡は形を変えて、新たな生活の場となっている。青々とした木々が街道沿いに植えられ、村の周りには新しい柵が巡らされていた。時の流れが全てを変えていた。

ゆっくりと記憶が呼び覚まされていく。

雪の降る夜。炎に包まれた家々。そして次々と斬り伏せた妖の姿。血しぶきと断末魔の叫びが混じり合い、夜の闇を染め上げていた。刀を振るう腕の感覚、妖気を感じる肌の感覚、それらが今、かすかによみがえってくる。

白焔は無言で村を観察した。

荷物を運ぶ村人。汗にまみれた顔で笑い合う男たち。井戸で水を汲む女たち。互いの噂話に花を咲かせている。走り回る子供たち。無邪気な笑い声が山の斜面にまで届いてくる。畑を耕す老人。鍬を使う手つきは熟練の技を示していた。

当たり前の日常が、この村には戻っていた。死と恐怖の記憶は、もう薄れてしまったのだろうか。あるいは、語り継がれて形を変えたのかもしれない。

一瞬だけ、その光景に羨ましさを覚える。

寄り添い、支え合い、共に生きる日常。笑い声の絶えない、温かな生活。

だが、彼女にはそれが許されないことを知っている。人間の中に紛れることはできない。妖の群れにも入れない。二つの世界の境界線上に立つ存在。どちらにも属さず、どちらからも拒まれる半端者。

赤い瞳を閉じ、感情を押し殺す。表情が曇ったのは一瞬だけで、すぐに無表情の仮面が戻ってきた。

村の中心を避け、人目につかない山道を辿り始めた。白い髪が風に揺れ、漆黒の衣が木々の間に消えていく。

山を見上げれば、どこかに湧き水の流れがあるはずだった。旅の埃を洗い、疲れた体を休める場所。

そこなら、誰にも邪魔されず休むことができる。人間にも妖にも見られることなく、ただ自分だけの時間を持てる場所。

-----

挿絵(By みてみん)

山の中腹に抜けると、そこには滝の落ちる小さな水場があった。高さ三尋ほどの岩壁から清らかな水が流れ落ち、岩に囲まれた天然の湯のような場所で、澄んだ水が溜まって小さな池をなしていた。水は透き通り、底の小石までくっきりと見えている。

白焔は周囲を警戒するように見回し、人の気配がないことを確かめた。鋭い犬耳を四方に向け、森のささやきに紛れた異物の気配を探るが、ここ最近、人が訪れた形跡はなかった。

木陰に腰の刀と衣服を丁寧に置き、全身を水に沈める。長旅の埃が、水の中へと溶けていく。透明な水がわずかに濁っていくのが見える。

冷たい水が肌に触れ、白焔はわずかに目を閉じた。唇がかすかに開き、小さな溜息がもれる。それは、彼女にとって数少ない安らぎの一時だった。

水面に映る自分の姿を見下ろす。

特に目立つ獣の耳が水面に揺れて映っている。先が尖り、常に周囲の音を捉えようと動く犬の耳。人間の耳ではなく、かといって純粋な妖の耳でもない。

白焔は無表情でそれを見つめていた。曇りのない水面は鏡のように彼女の姿を映し出す。

「獣の耳と紅の瞳…人にも妖にも属さぬ半端な身」

そう静かに呟く声には、諦めと受容が混じっていた。長い年月をかけて受け入れてきた自分の宿命。それでも時折、心の奥底で疼く痛みがある。

「私に、この耳がなければ、皆と同じように…」

物憂げに続く言葉は、滝の音に消されてしまう。言い切ることのできない願い。叶わぬ夢。彼女の心の奥底にある、決して口にしない弱さ。それらが一瞬だけ、水面に映る自分の姿を見て湧き上がってきたのだ。

水の音と共に、過去の記憶が断片的に浮かんでくる。

幼い頃、犬妖の師に剣を教わった日々があった。

「弱きは死ぬ。強きは生きる。それだけだ」

迷いも情もなく告げられるその言葉に、白焔はただ従うしかなかった。

指がかじかんでも休むことは許されなかった。

斬り結び、倒れれば「立て」とだけ言われた。

薬の煎じ方も、祝詞の節も、覚えるまで何度でも叩き込まれた。

……優しさなど、一度もなかった。

けれど、なぜか思い出すのは、夜、火を囲んで並んで座った時間だった。

焚き火の音。黙ってくべられる薪。黙って出された湯の入った椀。

その時間には、何も言葉がなかったはずなのに、妙にぬくもりがあった気がする。

それでも白焔は、あの人のことを「優しい」と思ったことは一度もない。

――あくまで、そう記憶している。

祝詞の口伝や薬草の見分け方も、間違えば手が飛んできた。

「妖の力を持つ者は、その力に相応の責任を負う」

「妖が人を襲うのを見過ごすな。それが、お前の道だ」

今となっては、それが“教え”だったのか、“命令”だったのかも曖昧だ。

あの人の本心など、聞いたこともなかった。

師は今も深山に隠れている。

年老いても剣を手放すことはなかったが、もう戦うことはないのだろう。

時折、鷹が手紙を運んでくる。

麓の村を超えて飛んでくるその鳥は、いつも白焔の居場所を正確に見つけ出した。

手紙には、ただ一言。

「生きているか」

几帳面な文字が、墨で記されているだけだった。

白焔はその手紙を焚き火にくべるのが習慣だった。

返事をしたことも、声に出して読んだこともない。

けれど、次の鷹が来るまでは、どこか落ち着かない自分がいたことは……否定できなかった。

だが、どこかに誰かがいたからといって、自分の居場所があったわけではない。

生まれつき、踏み込めない領域があった。

それは、技でも努力でも埋められない“血の境界”。

妖怪の世界で「半端者」と呼ばれた日々が蘇る。

「人間の血が混じれば、純潔など望めぬ」

そう言って忌避された記憶。血統を重んじる妖の世界では、混血は許されなかった。どれほど強くなっても、血の事実は変えられない。

妖たちは白焔を仲間とはせず、常に境界の外に置いた。

かといって、人間の村での日々は更に苦しかった。異形の者を恐れる人間たちの目。恐怖と嫌悪が混じった視線。

「化け物め!」

「神か妖か知らぬが、我らの村から出て行け!」

投げられる石と罵声。忌避の視線。かつて身を寄せた村での記憶が、鮮明によみがえる。

だがそれでも、白焔は妖から人を守った。どれほど人間に憎まれようとも、彼女はその責務を果たし続けた。

それは彼女の決意であり、師から受け継いだ責務だった。自分のような存在だからこそ、できることがある。その信念が、彼女を支えてきた。

災害や戦、獣の襲撃には手を出さない。それは自然の摂理であり、世界の理だった。山の斜面が崩れ、村が埋もれるのを見ても、手を出さない。戦に破れ、村が焼かれるのを見ても、手を出さない。

人の世の営みにまで踏み込むことはしなかった。自然の一部である獣の行動や、人間同士の争いには干渉しないと決めていた。

だが妖が人を襲うのだけは、決して見過ごさなかった。それだけは、彼女の使命だった。妖の血を引く者としての責任であり、師から受け継いだ誓いだった。

「どちらにも属さぬお前だからこそ、できることがある」

旅立ちの日、師が告げた言葉。門出に贈られた、最後の教え。その時は単なる言葉でしかなかったが、旅を続けるうちに、その意味を理解するようになってきた。

両方の世界の外に立つからこそ、見える景色がある。どちらの側にも与せず、公平な目で物事を見ることができる。両方の世界を知る者だからこそ、両方の世界を守ることができる。それが彼女に与えられた役割なのだろう。

そして幾年もの放浪の旅。山を越え、川を渡り、森を抜け、村から村へと移動する日々。どこにも定住せず、常に移動し続ける生活。

どこにも属さず、ただ戦い、生き延び、また旅立つ。それが彼女の生き様だった。孤独で厳しい道だが、それ以外の生き方は知らなかった。

水と共に記憶が流れ、疲れも洗い流されていくのを感じる。冷たい水が肌を包み込み、心の傷も少しずつ癒していくようだった。

この瞬間だけは、過去も未来も考えず、ただ今を感じていられた。水の感触、滝の音、木漏れ日の温かさ。それだけに集中することで、心が少しずつ穏やかになっていく。

-----

水が白焔の体を優しく包み込む。肌の疲れを癒し、長旅の緊張をほぐしていく。

滝の音が耳に心地よく響き、一時の平穏を与えてくれていた。水滴が岩に当たる音、小さな波が水面に広がる音、遠くで鳴く鳥の声。すべてが調和して、白焔を包みこむ。

ふと、その耳が反応した。鋭く尖った獣の耳が、わずかに方向を変える。

遠くから聞こえてきた、人の悲鳴。恐怖に満ちた、切迫した声。

白焔は瞬時に体を起こし、耳を立てる。全身がその音を捉えようとするように緊張する。水滴が肌から零れ落ち、小さな水溜りを作る。

耳を澄ませば、人間の声とともに、もう一つの気配が感じられた。

――獣の匂い。濃厚な獣臭と、獲物を前にした興奮の匂い。

人間には聞こえないような距離からでも、白焔には明確に伝わってくる。鋭敏な妖の感覚が、風に乗って運ばれる情報を読み取っていく。

低い唸り声と、地面を踏みしめる重い足音。恐怖で打ち震える人間の心臓の鼓動までもが、彼女の耳には届いていた。

白焔は短く目を閉じ、匂いを識別する。空気中に漂う情報を読み取っていく。

純粋な獣の臭い。熊だろうか、太い毛に覆われた体、鋭い爪、強靭な顎。妖の気配は混じっていない。ただの獣だ。

人間を襲う単なる野生の獣か。

「人の世の出来事か」

水面に小さな波紋を立てながら、白焔はつぶやいた。その声は滝の音に溶け込み、消えていった。

本来、彼女が介入すべき事ではない。師から受け継いだ教えでは、妖が人を襲う場合にのみ介入するのが彼女の役目だった。

ただの獣に襲われた人間――それはこの世界で日常的に起こることだった。飢えた獣が餌を探し、弱い者が犠牲となる。それが世界の理。弱きは死に、強きは生きる。

白焔は迷いを見せる。眉間にわずかな皺が寄る。

妖は自然の一部ではない。妖界と人界の境を侵す者。だが獣の襲撃は、自然の理。人の世の出来事。

「なぜ助けねばならない」

自問が頭をよぎる。獣に襲われた人間を助ける義理はない。そもそも人間は彼女を忌み嫌う。助けたところで、感謝されるどころか恐れられるだけだろう。

それを振り払うように、白焔は再び耳を立てる。全身の筋肉が緊張し、獣耳が音源の方向を鋭く捉える。

男の悲鳴が再び届く。今度はより切迫した、死の恐怖が滲む声だった。打ち震える。苦しそうな呼吸。助けを求める声。

このままでは男は死ぬ。そう悟った瞬間、白焔の体の中で何かが動いた。

もはや思考の余地はなかった。白焔の体が直感的に動き出す。水面から体を引き上げ、水滴を振り払いながら白焔は獣のいる方へ急いで駆け出した。

白焔の目は、すでに男の姿を捉えていた。木々の間を素早く駆け抜けていく。滴る水が、その跡に小さな水溜りを残していく。

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水場のすぐ近くの木立の間で事態は起きていた。湿った土の匂い。木漏れ日が作る影。風に揺れる葉の音。そして、恐怖で固まった男と、それを追い詰める大きな熊。

大きな熊が男を追い詰めていた。黒い毛並みの中に、何度かの戦いの痕が見える。この辺りの山を縄張りにしている古参の熊だろう。体長は七尺を超える大きな熊。鋭い牙と爪は、一撃で人間の命を奪うのに十分な武器だった。

男はすでに木に背を押し当て、これ以上後退する場所もない。服には汗が滲み、顔には恐怖の色が広がっている。血の気が引いた顔で、震える唇。もはや声も出せないほどに怯えていた。

熊は前脚を上げ、鋭い爪を見せつけるように唸っている。その爪は、木の幹をも引き裂くほどの鋭さだった。

強靭な腕が男に向かって振り下ろされる寸前――風のような速さで、一つの影が割り込んだ。

木々の間から白い影が躍り出る。白焔は男と熊の間に立ちはだかり、両手を大きく広げていた。

男は自分の前に突然現れた女の姿に息を呑む。

熊も一瞬、動きを止めた。見たこともない生き物の出現に、本能的な警戒を示す。野生の勘が、目の前の存在が自分よりも危険だと察知したかのように。しかしすぐに、その怒りの対象は白焔へと移る。縄張りに侵入した新たな敵として認識したのだ。

熊は再び唸り声を上げ、今度は白焔に向かって腕を振り上げた。重みのある動きで、大きな腕が空気を切る音が響く。

素早く避けるかと思われた白焔だったが、彼女は一歩も動かなかった。まるで地面に根を下ろしたかのように、その場に立ち続ける。

代わりに、白焔は熊と正面から対峙し、両手で熊の腕を押さえ込む形になった。小柄な体で、巨大な熊の腕を受け止めるという無謀な行為。

「……っ」

熊の力が白焔に伝わる。人間ならば一撃で砕かれる腕を、白焔は力で押し返していた。しなやかな腕に筋肉が浮き上がり、耳が後ろに倒れる。全身に力が入り、踏ん張る足が地面を深く刻む。

熊との力比べに、全身の力を込める。互いに力を押し付け合う中、均衡が崩れる。

足元の斜面の砂利が崩れ、バランスを失った白焔と熊は揉み合ったまま転がり始めた。緊張状態から一転、二つの影が斜面を転がり落ちる。

「あっ……」

男が小さく声を上げる。彼がその光景を見つめる中、白焔と獣は絡み合ったまま斜面を落下していく。

回転しながら転がる二つの影。木々に衝突し、岩に体を打ちつける音。白焔の肌に擦り傷ができる中、彼女と獣は沐浴していた水場へと落ちた。

大きな水しぶきが上がり、水面が大きく波打つ。一瞬、辺りが静寂に包まれる。

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水場に落ちた衝撃で、一瞬の静寂が訪れた。水しぶきが高く上がり、波紋が水面全体に広がる。落ちた場所から泡が立ち上り、やがて消えていく。

だがすぐに、水面が激しく揺れ始める。水中から姿を現した白焔と熊の激しい格闘が再開したのだ。

獣の怒りの唸り声と、水を切る音が響く。水面が激しく波打ち、岸辺に水があふれ出す。

白焔の白銀の髪が水に濡れ、一瞬一瞬の動きに合わせて波打つ。血に飢えた赤い瞳が、獲物を捕らえるように熊の動きを捉えている。その表情には、いつもの無感情さはなく、戦いの昂ぶりが宿っていた。

白焔は冷静さを失わず、水中での動きに慣れている様子だった。まるで水中で生まれたかのように、その動きはしなやかで、ときに水の抵抗を利用していた。

一方の熊は水の抵抗に動きが鈍っている。陸上では強力な武器である体重が、水中では不利に働く。重い筋肉を持ち上げようとして、力を消耗しているのが見て取れた。

熊は前脚で白焔を捕らえようと、大きく水を掻いた。水しぶきが上がり、太陽の光を受けて一瞬虹色に輝く。

男は物音に気づき、水場に向かって駆けてきた。先ほどまで恐怖で凍りついていた足に力が戻り、熊から離れるようにして水場の縁までやってきた。

岸辺から二つの影の争いを見つめる。畏怖の眼差しで、人間離れした戦いを見守った。

白焔は熊の動きを冷静に見極め、熊が再び振り上げた前脚を巧みに避けると、素早く間合いを詰めていく。両の足に力を込めて水中から跳ね上がり、熊の顔面に迫る。瞬時に、彼女の鋭い爪が熊の片方の目をえぐっていた。

鋭い爪が獣の目に突き刺さる生々しい音。熊の痛みの咆哮が辺りに響き渡る。山々にこだまし、鳥たちが木々から慌てて飛び立つ。

熊が痛みに咆哮を上げる中、彼女は一瞬の隙を突いた。何の躊躇いもなく、次の行動に移る。熊の動きが鈍るのを見計らい、背後から飛びかかり首元に腕を回す。

その動きは優美でありながら、獲物を狙う狩人のように冷酷だった。ちょうど狩りの獲物に飛びかかる狼のような、無駄のない動き。

水中で熊の動きが弱まったその瞬間、白焔は全身の力を一点に集中させた。筋肉が浮き上がり、腕に力が走る。まるで岩を砕く槌のような力が、熊の首に向けられる。

鋭い音が水場に響き、熊の首が折れた。重厚な音とともに、熊の体から力が抜けていく。水面に赤い血が少しずつ広がり、透明だった水を徐々に染めていく。

「獣風情が...」

白い息が静かに漏れる。声には感情がなく、それでいて冷徹な意志が感じられた。妥協のない強さ、それが彼女の生き方だった。

動かなくなった獣を、白焔は水から引きずり出した。水の抵抗と重い熊の体に対して、彼女の力はあまりにも大きかった。腕の筋肉が盛り上がり、歯を食いしばって力を込める。全身から滴る水。擦り傷から流れる血。それでも彼女の姿は、神々しさを失わなかった。

-----

熊を水辺に引きずり上げた白焔は、ようやく周りを見渡した。先ほどまで戦いに集中しすぎて、周囲の状況に気が回らなかった。今、彼女の意識は完全に戻っていた。

男は岸の上に立ち、まだ目を見開いたままこちらを見ていた。その顔には恐怖や驚きだけでなく、何か別の感情も混じっている。複雑な表情で、動くこともできずに立ち尽くしていた。

白焔は水から上がり、男に向き直る。長い白い髪から水が滴り、足元に小さな水溜りができる。傷ついた肌からは、わずかに血が滲んでいた。

「大丈夫か」

声をかけたが、男は沈黙したまま、動かない。まるで石像のように硬直している。その視線は白焔に固定されたままだった。瞳には言いようのない感情が浮かんでいる。

白焔は自分の姿、特に犬耳と赤い瞳が、相手に恐怖を与えていると思い込んだ。耳が小さく震え、わずかに顔をそむける。人間から見れば、自分はただの異形の者。

恐れられるのは仕方のないことだと、彼女は諦めていた。今まで何度も経験してきたことだった。人間との交流は、いつもこうして終わる。

この土地に伝わる伝承を思い出す。かつてこの地を救ったという「白い神」、「犬神」の話。二十年前、白焔自身が作り出した伝説。人間を黙らせるには、畏怖の念を利用するのが一番だった。

白焔は表情を引き締め、凛とした姿勢を取る。肩を広げ、背筋を伸ばし、神々しさを演出する。

「恐れることはない。私は犬神だ」

白焔は冷静に告げた。その言葉には皮肉さが混じっていた。人間が勝手に作り上げた「神」の存在を、利用しているという意識。今この瞬間も、自分を神と名乗ることに対する嘲りが胸の内には渦巻いていた。偽りの神という仮面をかぶり、人間と関わるしかない現実。

「秘密は守れ。誰にも言うな」

赤い目が男を睨みつける。一瞬だけ「人間」という言葉に嫌悪感が混じる。人間に対する複雑な感情が、その言葉に込められていた。

男は慌てて首を振った。熊から救われた安堵と、目の前の存在への畏怖が入り混じった表情で。頬は紅く染まり、視線は定まらない。

「い、今見たことは誰にも言いません、墓場まで持っていきます」言いながら、男の目は彼女の体を上から下まで舐めるように見ていく。「あ、あの...本当に美しい...神様ですね...」彼の声は震え、喉が乾いているようだった。「こんな姿を拝見できるなんて、ありがとう...」

その言葉に違和感を覚えた白焔は、相手の視線の先を辿った。男の目は彼女の顔ではなく、身体に向けられている。視線が彼女の体を這うように上下していく。

そして、自分が今、全く何も身につけていないことに気づいた。水浴びをしていた時の姿のままだったのだ。熊に襲われている男性を助けるため、衣服をつける時間さえなかった。

「…っ!」

白焔の顔が、生まれて初めて赤く染まった。両手で体を覆うように胸の前で腕を組む。誰にも裸を見せたことがない少女らしい恥じらいが、彼女の心を満たす。これまで経験したことのない、新しい感情が湧き上がってきた。

「おい……お前……他に、何か言うことはないのか?」

白焔の声には怒りが滲んでいた。堪え切れない怒りの波が、全身に広がっていく。自分が助けた男の視線が、こうした形で向けられることへの怒り。自分の不注意への怒り。

その声に、水面が一瞬だけ凍りつくような気配が走る。滝の水でさえ、一瞬流れが止まったかのように見えた。空気が重くなり、森の音が途絶える。

男は、思わず口走った。恐怖と興奮が混じる中、理性を失い、最悪の言葉を選んでしまう。

「あの、その...ご、ごちそうさまでした」

その言葉が空気を凍らせた。一瞬の静寂の後、怒りが爆発した。

白焔は男の襟をつかみ、「死ねえぇぇぇぇっ!!」と叫びながら水場に投げ込んだ。男の体が宙を舞い、大きな水しぶきを上げて水場に落ちる。

水しぶきが高く上がり、男の姿が水中に消えた。水面には大きな波紋だけが残され、やがてそれも静かに収まっていく。

しばらくの間、水場には沈黙だけが満ちていた。

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