Heaven in This Hell
医療保険を使うことになるなんて考えてもいなかった。本当なら、手厚い保障を受けられるはずだったが、ちょうどクビになったばかりのわたしには、無情にも保険の打ち切りが紙切れ一枚で通告された。満足のいく蓄えなんかあるはずもなく、わたしは最低限の治療だけ施され、一週間もせずに病院のベッドから追い出された。
ふざけるな。
医者にそう言おうとしたわたしの声が、まるでつっかえたように──蓋でもしたかのように、何も出なかった。
「声帯は粘膜の他に、筋肉や靭帯でできています、オリアンティさん」
医師は淡々とそう告げた。
「喉を怪我された際、あなたの声帯を構成するそうした器官が大きく傷ついています。幸い、血管の方は問題ありませんが、問題は靭帯ですね。こちらが断裂してしまっています。……平たく言えば、喋れないかもしれない、ということです。カウンセラーやリハビリについては、資料をお渡ししますので、落ち着いたら読んでみてください」
落ち着いたら? いつ落ち着くと言うのだろう。彼女は病院を出て、ただ途方にくれながら考えた。金は無い。蓄えも。家賃も払えない。いずれ追い出される。あるのは、空のギターケースだけ。
ふざけるな。
だれに中指を立てていいのかも分からない。イーストサイドにあるアパートメントにどうやって帰ればいいのかも。なにせ地下鉄に乗る金も無いのだ。
十字路には悪魔が潜むという。古い映画でそんなものがあった。魂を売れば願いを叶える悪魔。そんな悪魔に売る魂だって無い。
タクシーやバス、自動車──排気ガスに人がただ行き交うこの街に、悪魔がいるとすれば、わたしは多分食い物にされたのだろう。
あの日のような夕闇の中、わたしは疲れてしまって路地のそばに座り込んだ。一歩裏へ入れば、きらびやかなこの街の北地区でさえも、星の無い闇の世界だ。そこに蠢く者たちに何をされたとしても、文句など言えるはずもない。
いっそのこと、殺してほしい。
ゴミ箱のそばに身を横たえながら、わたしは二度と出ない声が、わたしの夢の終わりを告げたように感じていた。
シンガー・ソングライターなど、なれるわけがない。ギターもない。何もかも失って、わたしの中身と同じ空虚なギターケースだけが残っている。
路地裏は同じように空虚を抱えた者たちの巣窟だ。どこから来て、どこへ行くのか分からないホームレス達も、ここノースロードの影に隠れるように、ポツポツと存在する。
少し離れた柱の影に、緑色の布で身を抱えているホームレスが一人いた。こちらを見もしない。それでいい。どうせ、相手が金持ちだろうとホームレスだろうと、わたしに手を差し伸べてはくれないから。
霧に混じって雨が降る。
雨音に混じって出ない嗚咽が漏れる。
その時だった。
まるで馬の嘶きのような、歪んだサウンド。エフェクターでディストーションさせたギターの音だ、と気づくまでにそう時間はかからなかった。
ボックスタイプのゴミ箱の向こう側に、それはあった。
ゴミ箱の近くにあるということは当然ゴミだろう。しかし、それにしては美しいギターだった。白く塗装されたそれは、今まで使ったことのあるアコースティックギターではなく、エレキギターではあったが──雨に濡れ、光っているように見えるそれの存在感は、どこか神々しささえ感じさせた。
アイバニーズ。シグネチャーモデルのようにカスタマイズされていて、手入れもよく行き届いている。どうしてこんなところに?
触れたところ、なにかに弾かれたように指先に痛みを感じた。電気のような、一瞬のものだったが、異常はその直後起こった。
『やあ、レディ。こんなところで雨に打たれてどうしたんだい?』
銀色。ゴミ箱の上で、長い足を組んでこちらを見下ろしていたのは、まさしくそれだった。
銀色の肌の男。長い銀色のロング・ヘア。目元は漆黒のサングラスで覆われていて、ライダースジャケットを羽織っている。
『僕はそのギターの持ち主さ。いいギターだろ? 美しいギターさ。イノセントな輝きが、僕に素晴らしいインスピレーションを与えてくれる』
誰? わたしが考えたのはまずそれだった。銀色の肌の男。普通の人間であるはずもない。このオールドハイトならば、特に。
『待ってくれ、レディ。怪しい──当然怪しいだろうな。この世界に銀色の肌をしているのはロボットだけだろうとも。しかし僕はロボットじゃない。人間でもない。ギターに宿っている、といえば察しがつくかな?』
男は地面に降り立つと、ギターをひっつかんで構え、そのまま弦を弾いた。空気がサウンドで震える。
地面が電流で泡立ち、男がエフェクターを踏むように足元を蹴ると、ディストーションのかかった重厚なメタル・ミュージックが、どこからともなく現れたアンプから発せられた。
痺れてしまっている。
わたしはそう感じた。男のテンションが一気に上がり、華麗なステップを踏みながらギタープレイは続く。
突如、男がギター・プレイをやめた。弦を指で止めてしまったのだ。これからがいいところだったのに。
『死んでしまいたいと思っていた。違うかい? だがこうも思っている。なんて素晴らしいギターだ。こんな風に弾くことができたなら……』
そんなことはない、とわたしは首を振った。わたしの中に残っていた何かがそうさせた。多分、わたしはもう夢を見ることも許されないのだから。
『そんなことはない。どんなプレイヤーだろうと、ギターを握った者は99.9%こう考える──いつか光り輝くステージで、満点の星空よりなお眩しいスポット・ライトの中で、ギターを思いっきり弾きたい。……言い換えればそれは、みな、そうした夢を見ていいことの現れでもある。だが君は、もっとそれより素晴らしいものを得る機会を今掴んでいるんだよ』
男は穏やかに言った。
クロスロードの悪魔は路地裏にも現れるのだろうか?
『ギターは口ほどにものを言う。無限の可能性を秘めているのさ。君が僕のことを悪魔と言うのなら、そうかもしれないな。いずれにせよ、溢れる光を手にしたいのなら──このギターを手に取るといい』
わたしは男の言うとおり、ギターのネックを掴もうとした──その時であった!
「おい、見ろよ! マジでアイバニーズだぜ! 新品だ!」
「ホントだったのかよ、おい」
「ルイス、お前もたまにはホントの事言うんだな」
大声でそういうものだから、ギターを掴みそこねてしまった。四人の若い男達が、わたしの周りからギターを値踏みしに現れたのだ。じっくりみたかったのか、わたしの体を突き飛ばす始末だ。
「……どけよ! なんだァ、ホームレスか?」
「よく見ろよ、女だぜ」
「姉ちゃん、どっから来たんだ?」
「……ツラは悪かねェ。おい、ルイス。お前めちゃくちゃ冴えてるぜ。ギターに女! 後は酒を買ったら完璧! 連れて帰ろう。な、いいよな、姉ちゃん」
当然わたしは喋れない。手首を掴まれても首を振って抵抗するのが精一杯だ。ギターが、夢が、未来が、薄笑みの銀色の男が遠のいていく。
ああ、こんなところでもやっぱりわたしはツイてない。今月は何をしてもダメなのか。これからも、ずっとダメなのか。口で何も言えず、抵抗も満足に出来ず、乱雑に扱われて、またこのゴミために捨てられるのだ。
僅かに見えた希望も奪われて、わたしは死んでいく運命なのだろう。ギターへ伸ばした手を下ろしかけた、そのとき。
「いい加減にしろ。……寒いのを我慢してなんとか寝ようって時に、ギターだの女だの。ライブハウスに行け。うっとおしいぞ、雑魚共」
緑色の布がゴソゴソと動いた。不機嫌な顔になったのは、わたしを取り巻いていた男たちだ。ギターより前に、緑色の布を巻いた人物へ詰め寄る。
「ゴミがなんか言ってんよ」
「ルイス、コイツボコるか」
仲間内のヒスパニック系の男が言った。
「ギターより俺はこっちのが好みだ。いい声で鳴くぜ。あんま持たねェけどな……」
鉄パイプに腐りかけの角材で簡易的に武装した連中は、何がおかしいのか嗜虐的な笑みを見せる。
「なんか、言ったか?」
「……耳が悪かったのなら、謝るよ」
緑色の布はケープだった。肩までかかる白髪。顔の右側は確かに女。ケープの下からコンバットブーツが覗く。
しかし、直後車のヘッド・ライトが僅かに路地裏を照らし、その人物の異様さを浮き立たせた。
継ぎ痕の残る白い肌。左側は継ぎすら追いつかず、焼け爛れた肌を黒い布で眼帯のように覆っている。
まともな人物なはずがない。普通ならばそう思っただろう。男たちは数に物を言わせ、それを異常と思わなかった。
ルイスと呼ばれた男がケープを掴み上げようとした。なにしろ、頭一つ分は背が低い女だ。なんとかできるだろう、とでもおもったのだろう。
「ハロウィンのつもりか? その顔は。え? ちっせえお嬢ちゃんよう」
「悪いがそのつもりは無いな」
プツプツ、とケープのボタンが取れる。モスグリーンの作業着に、袈裟がけにベルトがかかっているのに、男は気づかなかった。
「なら死んでろやぁ! 名無しのゴミがァ!」
鉄パイプが容赦なく振り下ろされた! 思わずわたしは目をつぶっていた。血が流れるのは、オールドハイトの常だ。そう伝え聞いていたが、ここまで近くで行われるとは考えていなかった。
金属音が高く鳴った。
高音? 人を殴ったことは無いが、こんな音が鳴るものだろうか。
恐る恐る目を開けると、なんと逆に男が打ちのめされて昏倒しているではないか。
女はケープの中で左腕を持ち上げ、強く振った。その腕はまさしく鋼。鈍色に光るその腕から、ジャキ、と機械音。ケープを翻すとそこにあったのは──長く伸びるライフルの銃口!
天に掲げて、雷鳴の如く発砲! マズルフラッシュが轟き、銃声が響き渡る!
「名無しねぇ……確かにそうさ。なにせ記憶喪失、本当に『名無し』だからな、私は──」
散り散りになって逃げ出す中で、男の一人が留まり──わたしの首に腕を回して凄んだ!
「この女、殺すぞ!」
苦しい。強張った男の腕が、自然とわたしの首を圧迫する。わたしは手を伸ばす。未来に、可能性に──ギターに。
その直後、しとしとと振り続けていた雨が突如として勢いを増し──轟雷となって辺りに落ちた。
『これで君はこのギターのプレーヤーだ。僕はいつだって君を見守っている。あらゆる人間の魂は、君の虜となる。そうしなくちゃならない──』
男の頭に拳が叩き込まれたのは、それとほぼ同時の出来事だった。女の左手が文字通り伸びて、正確に顔を撃ち抜いたのだ。
昏倒していく男の姿。女は面白くもなさそうな態度だ。
「フン。これがオールドハイトか。嫌な街だ」
ケープの女は有線式の腕をモーターで回収しながら、呟いた。
「……悪いが、助けたんだ。助けてもらえないか。なんでこんなことになってるのか、自分でもわからないんだ」




