壱
七月も終りを迎え、夏の本番となると、日は高くなり日中時間が長くなる。
とはいえ、晩の七時を過ぎたころには、外は黄昏時と化していく。
そんな中、小学三年生くらいの少女が、小さなバッグを手に持って、頼りない街灯が照らすだけの路地裏を歩いていた。
なぜこのような時間に少女が一人で歩いているのかというと、彼女は友達と遊び耽ってしまい、帰りが遅くなってしまっていたのだ。
「はぁ……、はぁ……」
普段歩き慣れている場所とはいえ、昼と晩では印象が違う。
ましてや、年端もいかない幼い彼女なれば、大人が感じる恐怖とは違う何かを、本能的に感じていた。
「――っ」
少女は、背後を一瞥する。
まるで飲み込まれたかのような、静寂と暗闇が、彼女の視線に映る。
まるで取り残されたかのような不安が、彼女の心臓を締め付ける。
少女は、早くここから立ち去ろうと、正面を向き直し、全速力で駆け出した。
「きゃっ!」
路地を抜けきった丁字路のところで、少女は大人の男性とぶつかり、尻もちをついた。
「大丈夫かい? お嬢ちゃん」
目の前に季節外れの赤いコートを着た男が立っており、少女に手を差し伸べる。
少女は男を不安な目で見上げたが、その手を握り、引っ張られるように立ち上がるや、おしりについた砂埃を払った。
「あ、ありがとうございます」
男の顔を見ようとしたが、赤色のストローハットを深々と被っており、襟を立てているため認識ができない。
「こんな時間まで、なにをしていたんだい?」
「友達と遊んでたら、遅くなっちゃって」
少女は、聞かれたことを素直に答える。
「そうか――、ここらへんは最近危ないからね、不審者には気をつけた方がいい」
男はそう言うと、その場を去っていった。
少女は男を目で追うと、気が付いたかのように、逆の方へと歩いて行った。
その時である。街灯の下に、命果てた蝉の亡骸が目に入った。
その死体に、蟻が群がっている。
死体を見るというのは、多かれ少なかれ、気分がいいものではない。
少女は目を伏せるように、それから視線を外す。
――そういえば、先生たちが学校で話してたな。最近ココらへんに恐いオトナの人が出るって……。たしか特徴は――。
ふとそれを思い出し、不審者の特徴を思い出していく。
『季節外れの赤いコートを着ている』
ハッとした少女はゆっくりと、男がいた方を見た。
そこには男の姿がなく、少女はホッと胸を撫で下ろす。
「早くお家に帰ろう」
少女は、早足でその場から去る。
「――あれ?」
少女は、ゆっくりと足を止めた。
視線の先に、見覚えのあるものが視えたからだ。
そこには、蝉の死体に群がる蟻の姿があった。
「え? なんで?」
少女は困惑する。
自分は、気付かない内に同じ所を歩いていたのだろうか。
そんなはずはない。
確かに、それを過ぎ去ったはずだ。
少女は、全速力で、その場を走り去る。
――嘘……、嘘だ……。
少女の不安は、いつしか恐怖へと変わった。
目の前で、先ほどと同様に、蝉の死体に群がった蟻の姿が目に映った。
「どうかしたのかい?」
うしろから声をかけられ、少女は引き攣った顔でそちらを振り向いた。
そこには、あの赤いコートの男が立っていたのだ。
「どうかしたのかい? そんな怖い顔をして」
「お、おじさん……助けて。お家に帰れないの」
少女は、男に助けを求めた。
「お家に帰れない? どうしてだい?」
「さっきから、同じ場所を――」
少女の腹部に、痛みが走った。
「お嬢ちゃん――、赤は好きかい? 青が好きかい? それとも……白が好きかい?」
と、地の底から聞こえてくるような不気味な声が、少女の耳を侵す。
「え? なにを言って?」
少女はゆっくりと意識を失っていく。
「こんな時間に子供が一人で歩いていてはいけないよ」
男は、手に持ったナイフを、少女の首に突き立てた。
「これで何件目だ?」
西戸崎は、一緒に現場に来ている岡崎にたずねた。
「たしか六件目ですね。しかし犯人はどうしてこんな幼い女の子ばかりを狙っているんでしょうか?」
「異常をきたしているとしか思えんな。他に気になる物はあるか?」
「いえ現場には被害者の身元を証明するものがひとつも、そもそも――」
岡崎は、横たわる少女の死体から目を離す。
「お前も刑事部の人間、強いては警察の人間なら、死体から目を逸らすな」
西戸崎にそう言われ、岡崎は再び少女の死体を見る。
「西戸崎先輩は平気なんですか?」
「平気なわけなかろうも? さっきから犯人に対する怒りしか起きんばってんねぇ」
震えた声色で、西戸崎は答えた。
少女の顔は、まるでえぐられたかのように真っ赤に染まっており、それを洗いながしても、ナイフで切り刻まれており、身元が分からなかった。
「しかし、今回もこんな時間やったな――」
西戸崎は自分の腕時計を見た。
時間は、午後十時を回っていた。
「うーむ」
福嗣町の南部にある小さなアパートの一室で、夜行は落ち着きのない様子で歩き回っていた。
「少しは落ち着いたらどうですか?」
夜行をあきれた表情で見ていた濡女子がそう言う。
「しかしだ。今回は大丈夫だとはしても、あいつの障害を考えると、普段と違う環境でパニックになって、皆に嫌われるんじゃないかと心配でな」
「あの子は私たちと違って人間です。知らないうちに大人になっていきます。だからこそ、いろんな人と接することだって必要なんですよ」
「それは……たしかにお前の言う通りなのだが」
「それに、今回のキャンプに行きたいと言ったのは響なのですから、あの子の主張を聞き入れようじゃないですか」
夜行とは打って変わって、落ち着いている濡女子に、夜行は焦った表情を見せる。
「大丈夫ですよ。それにあの子には守ってくれる、手を貸してくれる友達がいるじゃないですか……」
「そう……だな」
夜行は、無理矢理にでも、納得しようとした。
「それじゃぁ、班ごとに分かれて夕食の準備をしてください」
実行委員を任されている美耶がそう子どもたちに合図を送る。
四年生から六年生までの総勢四〇人の子どもたちが五人一組の八組に分かれて、各々の前にあるカレーの材料に目をやっている。
「カレーは中辛なんだね」
葉月はカレールーの箱を手に取り言った。
「仕方ないよ。辛いの苦手な人だっているし、葉月ちゃんは辛いの大丈夫なの?」
隣でピーラーを手に取って、じゃがいもの皮を向いている、五年生の涼宮六花という、ポニーテールの少女にそう聞かれ、葉月はちいさくうなずいた。
「大丈夫だけど……、あ、お米を洗う時は先に飯盒の中にお水を入れて、それにお米を一気に入れて。洗う時は最初は手早くサッと洗ったら水を捨てて、それを四回くらい繰り返して」
班長である葉月は、炊飯をしている五年生の阿部道照という男の子にそう指導する。
「はーい」
道照はそう返事をすると、云われた通りお米を研いでいく。
「研ぎ終えたら、指の第一関節くらいまで水を浸す」
「指の関節って、どっちから?」
「指先から数えて一つ目の線ね。水は優しく入れて」
そう教えてもらい、道照はペットボトルの中に入っているお水を、自分の指の第一関節まで、ゆっくりと飯盒の中に入れていった。
「それを三〇分くらい浸したら中ブタをしてから外ブタをして火にかける。もうひとつやらないといけないから大変だよ」
「葉月」
声をかけられ、葉月はそちらに振り返る。
「瑠璃さん来てたんだ」
「一応保護者として、拓蔵と一緒に来てるんですけどね」
カーディガンを肩にかけた瑠璃が、困った表情を見せる。
「どうかしたんですか? それに爺様は?」
「拓蔵なら、旧校舎があったグラウンドに行ってますよ」
それを聞くや、葉月は表情を曇らせた。
「でも、お米の炊き方をよく覚えてましたね。特に教えたわけじゃないんですけど」
「弥生お姉ちゃんのお手伝いしてたからかな?」
「まぁ、今回は各家庭からお米を一合ずつ持ってくるようにと言われていたので大丈夫でしたが、実は中ぶたは二合、外蓋は三合と、それぞれを擦り切りにするとそれくらいの量になるんですよ」
瑠璃にそう教えてもらった時だった。
「響、お前が持ってきたまな板便利だな」
野菜を切っていた響に、同級生の大山が覗き込むように、響の手元を見る。
響が持ってきたまな板は、軽く折り曲げることのできるプラスチック製のもので、一センチ感覚のメモリが入れられている。
「えっと、ニンジンを一センチ間隔に、賽の目に切る」
大山が前に置かれている絵カードを手に取って読み上げる。
響が持っている障害である自閉症の特徴の一つに、『ルールを忠実に守る』というのがあり、その名の通り、史実通りに行かないと気がすまないのであり、曖昧な表現などはかえってパニックを起こす危険性がある。
響は、その障害を知っている瑠璃や濡女子が作った絵カードに書かれている通りに、ニンジンを正確に、一センチ間隔の賽の目にして切っていく。
「ニンジンを切り終えたら、それをボールに移し入れ、ジャガイモを半分に切って、もう一回半分に切る。そしてそれを二センチ間隔に切る」
さきほどのニンジンと同じように、響はジャガイモを賽の目に切っていく。
「たまねぎは二センチ感覚で切る」
ほとんど絵カードに書かれた調理方法通りに、響は野菜を切っていった。
それを葉月と見ていた瑠璃は、ホッとした表情を浮かべる。
「よかった。響くん楽しそう」
「ほんと、夜行が心配していたことはまったく無意味でしたね」
「さてと、野菜とお肉を切ったら、それを熱したお鍋に油をひいて、たまねぎを炒める。きつね色になったら、ニンジン、ジャガイモと入れていって、お肉を入れる。肉が焼けてきたら水を入れて……。あ、阿部くん、焚き火に飯盒を掛けて……、先生ちょっと手伝って」
班長である葉月が、そう指導していく。
さすがに火の扱いは子どもたちだけでは危ないので、先生や保護者が一緒にやらなければいけないことになっている。
「はじめちょろちょろなかぱっぱあかごないてもふたとるな」
響は楽しそうに歌った。
――こっちは心配ないみたいですね。
瑠璃は、ゆっくりと葉月たちの班から離れ、拓蔵を探しに行った。
「――拓蔵?」
拓蔵を探す前にトイレを借りようと校舎に入ろうとした瑠璃は、旧校舎があった、今は第二グラウンドとなっている方角から拓蔵が戻ってきたのが目に入った。
「瑠璃さん、葉月や響はどうじゃった?」
「落ち着いてましたよ。葉月も班長としてみんなを指揮してます」
それを聞くと、拓蔵はちいさく笑った。
「もしかして不安でした?」
瑠璃はやんわりとした表情でたずねる。
「いや、皐月や弥生も同じくらいの時に任せられておったからな」
「それで、どうして旧校舎があった場所に?」
そう聞かれ、拓蔵はすこし険しい表情を見せた。
「以前、夜行が話していたことを思い出してな」
「たしかここ最近、福嗣小学校近辺の路地裏で児童が誘拐され、その日の晩に遺体となって発見されているという話でしたね」
「実はな、こっちに来る前、非番だった佐々木くんと一杯交わしたんじゃよ」
「――懸衣翁と?」
「その時にな、先日小学三年生くらいの女の子が何者かに殺されておったそうなんじゃよ。身元はまだ分かっておらんが、捜索届けが出されておるから、すぐに分かるじゃろうがな」
「ひどい話ですね」
瑠璃は、言葉を吐き捨てるように、強張った表情を向けた。
拓蔵はそんな瑠璃を見て、その時の遺体の状況を敢えて言わなかった。
いや、言えなかったといったほうが正しい。
瑠璃は元地蔵菩薩である。
地獄の王とも言われる閻魔王の正体が地蔵菩薩とも言われており、力の弱い衆生、こと子どもに対しては優しい神仏として知られている。
か弱い子供が襲い殺されたと聞いただけで、般若のような表情を浮かべる瑠璃に対して、拓蔵は佐々木から聞いた、発見された少女の惨い殺され方を話せなかった。




