肆・アシリキ
「先生はただいま会議に出ております」
簾舞の事務職員である女性が、訪ねにきた西戸崎と岡崎にそう言った。
胸に付けられているネームプレートには【紅兎】と書かれている。
「いつ頃終わりますかね?」
「夕方には終わりますでしょうが、こちらには戻られないかと」
「そうですか。ところで簾舞さんがキャバクラ通いをしていたという噂があるんですがね」
西戸崎がそう話を持ち上げると、「そんなことはありません。あの先生は愛妻家で、仕事が終わるとまっすぐに家に帰られる方ですよ」
と、驚いた表情で、紅兎は言う。
「まぁ、信じられないかもしれませんが、そういう噂があるのでね。それにこちらも噂が本当でない以上は調べませんよ」
西戸崎はそう言いながら、岡崎に視線を送る。
「そういえば、こちらは政治家の事務所だというのに、えらくこぢんまりとしていますな」
「ええ。政治家といえども、議員なだけですから。それに部屋が大きいと先生は落ち着かないようですし」
紅兎は西戸崎と岡崎の視線に逸らすような目で答えた。
「そういえば、五日くらい前のことなんですが、先生はやはり直で帰宅を?」
「いえ、その日はたしか今際という方にお会いしているはずです」
今際という名前に、西戸崎と岡崎は驚きを隠せないでいた。
そして、西戸崎が紅兎に詰め寄るように、「その話を詳しく。二人はどこで会っていたのかわかりませんか?」
と訊ねた。
「すみません。さすがにそこまでは……。こちらも仕事が終わればプライベートがありますし」
紅兎は謝るように頭を下げる。
その時、西戸崎の携帯がなり、携帯の液晶を見やると、顔を顰めた。
「そうですか。とにかく、なにかわかればご連絡を」
と言って、岡崎と一緒に、その場から去っていった。
西戸崎たちが去っていった後、紅兎はゆっくりと事務所のドアを閉める。
「先生……警察は帰られましたよ」
中央に置かれた大きな机の下に、紅兎は視線を落とす。
「っ! んぐぅっ! んんっ! んんぐぅっ!」
くぐもった声がそこから発せられている。
机の、ちょうど椅子が収められる場所に、両手両足をガムテーブで縛り上げられ、目隠しをされた白髪交じりの、初老の男が蹲っていた。
この男こそ、簾舞である。
「ダメですよ。見つからないようにしないと……。そうでなくても、先生は遊びが過ぎて、こちらの対処が危ういんですから」
紅兎は歪んだ笑みを浮かべる。
「今日は先生が会議に出ているということにしております。ですから夕方まで不在となっています」
「んっ! んぐぅっ!」
「言い訳はできませんよ。あの女になにを言われたのかは知りませんが……、殺すことまでしなくてもいいじゃないですか?」
その言葉に抗議をするかのように、簾舞は身体を起こそうとする。
「うるさいですね」
紅兎は注射器を取り出し、それを簾舞の腕に刺す。
「静かにしていてくださいね。今日は、先生はここにいないことになっているんですから」
注射器の中に入っている液体が、ゆっくりと簾舞の血液の中へと入っていく。
「んっ……、ぬぐぅっ!」
突然の睡魔に襲われた簾舞は、重いまぶたを閉じていき、その場に倒れた。
「さてと……、事務員がワタシだけでよかったわ」
紅兎はゆっくりと立ち上がり、ホコリまみれのスカートを、手で払う。
「そろそろ、あの娘を殺さないとね……。色々と面倒だし――」
「西戸崎先輩、どうかしたんですか?」
簾舞の事務所から少し離れた場所に停めていた、岡崎の車に乗り込もうとした時、岡崎はたずねた。
「さっき大宮から連絡があった。至急稲妻神社に来てほしいとのことだ」
「いったい何故?」
「おまえ、会議中の話を聞いてないのか? 遺体が発見された山小屋の所有者である今際の当時のアリバイは、湖西主任と稲妻神社の神主が一緒にいた事にあるとよね」
「ですが、夕方までで、その後のことはわからないと」
「湖西主任は何も言わんかったが、あの爺さんならなにか知っちょるやろう。そう思って、佐々木先輩は稲妻神社に行ったんと思うんよ」
岡崎は車を稲妻神社へと向かわせる。
三十分ほど掛けて、車は稲妻神社の駐車場へと入っていく。
「ふたりとも来たか」
先に来ていた佐々木が、西戸崎と岡崎に声をかける。
「佐々木先輩。神主は?」
「黒川先輩なら、母屋の方におるよ」
「大宮、皐月さんに会えなくて寂しいか?」
岡崎がからかうように、大宮に云うが、
「今は仕事中だ。それに、まだ彼女は学校だよ」
大宮があきれた表情で返す。
「ふたりとも、ふざけている場合じゃないぞ」
佐々木に一喝され、岡崎と大宮は頭を下げた。
母屋に入ると、瑠璃が応対にやってきた。
「西戸崎刑事と岡崎刑事ですか? ――あれ? 阿弥陀警部は」
「阿弥陀警部は少し別件がありましてね」
佐々木はそう言いながら、瑠璃に近付くと、
「大威徳明王さまから承った伝言です。難陀竜王は安徳天皇の子孫に自分の真言を伝えた。そしてその力を崇徳天皇が狙っていると」
それを聞いた瑠璃は、他の三人に気付かれないよう注意をはらいながら――。
「そうですか」
と言いながら、視線を居間の方へと向ける。
「どうかされたんですか?」
大宮が瑠璃に声をかける。「いえ、なんでもありません」
瑠璃は佐々木たちを居間へと案内した。
「西戸崎刑事と岡崎くんか。とりあえず好きなところに座りなさい」
テーブルの上座に座っていた拓蔵が、佐々木たちにそう促す。
言われた通り、佐々木たちは各々好きなところに座り、瑠璃は定位置でもある、拓蔵の横に座った。
「それで神主、今際についてお尋ねしたいのですが」
「萩元という女性が殺された日の、今際のアリバイじゃろ? 正直に言うとわしと湖西が見たのは夕方までじゃから、それ以降のことはわからん」
「実は、さきほどその萩元が働いているキャバクラに、頻繁に訪れていた簾舞の事務所に行ってきました。それで紅兎の方から聞いたのですが、その日簾舞は今際と会っていたそうなんです」
「それを証明することは」
「今のところは……、簾舞のアリバイもわかりませんしね」
「まぁ、知られたくもないんじゃないか? キャバクラ通いの時点でスキャンダルなわけだし、しかもその贔屓にしていたのが死体となって発見されている」
佐々木たちの話を聞きながら、拓蔵はゆっくりと茶を飲んでいた。
「先輩はどう思われます?」
「そうじゃな。西戸崎刑事、さきほど簾舞は今際と会っていたと言ったな」
そう訊ねられ、西戸崎はうなずく。
「キャバクラ通いよりもそちらのほうが重要じゃないか?」
「と、言いますと?」
西戸崎は首をかしげる。大宮と岡崎も同じ反応だった。
「――もう昔の話じゃがな、今際はヤクザの組員だったんじゃよ。しかも幹部にまで上り詰めた男だ。今でも昔いたその組では顔が効くし、影響力はあるでな」
「えっと? つまり簾舞にとってはキャバクラ通いよりも、その今際と密談していたことのほうが知られたくないことじゃないかということですか?」
大宮の言葉に、拓蔵はちいさくうなずく。
「まぁ今際が組から足を洗ったのは、もうかれこれ二十年くらい前の話じゃがな。それに奴は義理堅くてな、やつと知り合ったのは部下の不祥事を、わしが公安の時に調べていた時なんじゃよ」
「その証拠が発見され、その部下を逮捕しようと拓蔵が事務所に家宅捜索に訪れた時、今際は自分がやっていないのに部下をかばったんですよ。もちろん後で部下は自首したんですが、その部下は拘置所の中で自殺していて、本当のことはわからないままなんです」
「その部下の名は?」
「たしか、萩元雄一郎だったはずです」
瑠璃はそこまで言ってから、「たしか彼には、当時まだ幼かった子どもがいたはずです。もしかして……」
「殺された萩元優香は、その萩元雄一郎の子どもかもしれないということですか?」
「可能性としてはありえるかもしれんな。それに、今際が気になることを言っておったよ」
拓蔵がそう言うと、「気になることとは?」
と、岡崎がたずねる。
「――わしは、取返しのつかないことをしてしまった。あの子がわしを恨むのはしかたのないことだ……とな。あの時酒に酔っていたこともあるし、もしかしたら譫言かもしれんが」
「でもこれでつながりましたね。今際はかつて亡くしてしまった部下である萩元雄一郎の娘である萩元優香を気にかけていた。そして彼女を贔屓していた簾舞に近寄る」
「それがちょうど萩元優香が亡くなった日ということか。簾舞がその日にキャバクラに行ったというのは?」
「キャバクラからはたぶらかされてしまって、アフター以降のことは彼女と簾舞しかわからないということでしょうな」
「その時のことがわかればいいんですが、簾舞は云わないでしょうね。ただでさえこういう事件に関わりたくはないでしょうし、元とはいえヤクザと関係があるんですから」
大宮は瑠璃に視線を送る。
「どうかしたんですか? 忠治くん」
「いえ、元とはいえヤクザである今際ですから、死体の処理くらいはできたはずだろうなと」
「山小屋にただ遺体を放置していたというのは、いささか信じられませんな」
「もしかして、犯人は今際の山小屋に遺体を遺棄して、犯行を今際になすりつけようとした……。ということは犯人は簾舞ということでしょうか?」
「検死の結果、萩元が殺されたのは五日前の深夜ということなってます。ですがやはり気になるんですよね。あの妙に爛れた胸が」
「そのことは皐月から聞いてますし、写メールでしたっけ? それも見ていますが、おそらく凍傷による壊死だと思いますよ」
「――凍傷? でも今は七月で、凍傷というには。それに片方の胸だけが壊死するというのも」
「もしかしたらっちゃけど、この事件って」
西戸崎がそうたずねると、「妖怪の仕業でしょうね」
と瑠璃に言われ、西戸崎は頭を抱えた。
「西戸崎刑事、簾舞の事務所に本人はいたのかね?」
「いや、事務紅兎しかいませんでした。簾舞は会議に出ているとか。仕事が終わるだろう夕方あたりに、もう一度訪ねようかと思います」
「――詳しく調べたほうがいいよ。妙なこともあるでな」
拓蔵の言葉に、西戸崎はどういうことなのかとたずねようとしたが、
「今日はこれくらいにしてお暇します。ほら、三人とも戻るぞ」
佐々木にそう言われ、西戸崎たちはゆっくりとした足取りで、稲妻神社を後にした。
その日の夕方。西戸崎と岡崎は、もう一度簾舞の事務所へと訪れる。
「先生はもうお帰りになられました」
と、昼間訪れた時と同じ紅兎の女性にそう言われ、
「そうですか。それではまた明日」
と言って、西戸崎たちは事務所を後にする。
「簾舞の実家に行くぞ」
「了解しました」
岡崎は車を、簾舞の実家へと向かわせる。
事務所から簾舞の実家はさほど離れておらず、車で五分もかからない。
簾舞の実家に車を止め、家のチャイムを鳴らすと、簾舞の妻が応対に出た。
「すみません。簾舞さんのお宅でしょうか?」
「ええ、そうですが?」
妻は、戸惑った声で応対する。
「あの旦那さんはご帰宅でしょうか?」
「いえ、まだ帰ってきていませんが」
その言葉に、西戸崎は首をかしげる。「事務所にも寄ったんですが、簾舞さんはもうご帰宅になられていると」
「どこかに寄っているんじゃないでしょうか?」
「心あたりがある場所は?」
岡崎にそう訊かれ、妻は少しばかり考えたが、
「すみません。ですが夫がまっすぐ寄り道をしないで帰ってくるというのは本当です」
妻が訴えるように云う。
「それを証明するためにも……、あ、すみません」
と言って、岡崎は懐から携帯を取り出した。
「もしもし……。あっ! 吉塚さんですか」
「岡崎くん、西戸崎刑事とは一緒なのね?」
「ええ、そうですが」
「だったら、ふたりとも至急福嗣町の役場から一キロ離れた場所にある、今は使われていない廃工場に行って」
「なにか事件でもあったんですか?」
「そこに向かった湖西主任から連絡があってね。男性の遺体が発見されたの。おそらく簾舞じゃないかって」
それを聞くや、岡崎は西戸崎にそのことを伝えた。
「お、夫が?」
簾舞の妻が青褪めた表情を浮かべるや、その場に立ち眩む。
「奥さん? 岡崎、吉塚を呼んで彼女の看護を。オレたちは現場に行くぞ」
西戸崎に命じられ、岡崎は吉塚に連絡を入れた。
先に現場に来ていたのは阿弥陀だった。
「薬師如来……、これどう考えますかね?」
阿弥陀は視線を動かしながらたずねる。
「わしに聞くなや。まったく妖怪の仕業だとしても、これはちょっとやり過ぎじゃないか?」
湖西主任はそう言いながら、部下である管田と摺屋に遺体を調べさせていた。
「どうです? なにかわかりました?」
「恐らくですが、先に発見された萩元優香と同様、凍傷による壊死ですね」
管田はそう言いながら、ボロボロになった服を着た遺体から視線を逸らす。
遺体には、手足と頭がなかった。
その手足はまるで放り投げられたかのように、本体とは真逆に、十メートルほど離れた場所に、散らばるように放置されている。
そして頭は工場の窓の下にあった。
「でも、妙な遺体ですな。まるで汗をかいている」
阿弥陀はそう言いながら、遺体を見やる。
遺体は……、まるで発見される直前まで動いていたかのように、汗で濡れていた。
「月、ちょっとこっちに来てくれ」
摺屋にそう言われ、管田はそちらへと駆けていく。
「うーん、しかし夏だというのに、また凍傷ですか」
阿弥陀が遺体から視線を外した時だった。
ズズズ……という、なにかが引きずられるような音が聞こえ、阿弥陀は音がした方を見やった。
その視線の先には、五体を失った身体しかない。「――気のせいですかね?」
頭をかきながら、阿弥陀は窓の方を見やった。
「あれ? 晶くん。たしか頭って窓の下にありませんでした?」
阿弥陀は窓の方へと指をさす。そこにあるはずの頭が見当たらない。
「ええ、たしかそうだったはずですが……」
摺屋も首をかしげながらに言う。
二人が窓から視線をそらすと、ふたたび、ズズズという、なにかを引きずる音が聞こえた。
「月、右腕はどこに行ったっけかな?」
「たしかこちらの方に……、あれ? なんでここに右足が?」
といったように、散らばった手足が、最初調べた時とは違う配置となっていた。
うーん。と、警視庁刑事部鑑識課の一室で、パソコンとにらめっこをしながら、月は唸っていた。
決まりとして、身内に遺体確認をしてもらわなければいけないのだが、バラバラ死体だと気が進まない。
「はぁ……」
月は検死結果に目を通しながら、パソコン画面に映るシミュレーションと比較する。死因は凍傷によるものではなく窒息死であると判断されたのだ。
本来ならばわからないことなのだが、その検死を担当しているのが湖西主任。つまりは薬師如来なのだからスムーズにことを運ぶことができた。
――切り落とされた付け根には凍傷の痕があった。つまり凍傷による壊死が考えられるけど、普通は部位の先から凍傷が始まるはずだから、もしかしたら細いなにかで縛り付けていた?
バラバラになった部位を思い出す。本来なら血流が停まり、肌色は紫に変色する。それが見られなかったため、血が止まってからバラバラにされたのだと湖西主任たちは推測していた。
「あら……?」
遺体の手首や足首に視線を向けると、縛られた痕があり、そこだけ紫色に変色している。「どこかに監禁されてたのかしら?」
月の予想は当たっていた。
――でも、いったい何時から?
そう考えていると、摺屋が戻ってきた。
「ご苦労さま」
「月光、なにかわかったか?」
「そっちはどう? 凍傷以外になにかわかったことは?」
「手足のいたるところにぶつけたり、擦り剥いたような痕があった。おそらく争ったんだろうな」
摺屋は妙に納得の行かない表情を浮かべる。「どうかしたの?」
月は首をかしげた。
「いや、薬師如来さまだから死因がわかったんだけども、普通だったら凍傷による心拍停止だと思うわけじゃないか。それが見当たらなかった」
――死因は窒息による心拍停止。脳に酸素が行き渡らずに起こる症状だから、普通だったら顔や首辺りになにかしら痕があってもいいはず。
月は少しばかり考えて、
「もしかしたら……。日光、被害者の心の臓は調べたの?」
「いや、まだ調べてはいない。そこまで調べなくてもいいんじゃないか?」
「もしかすると犯人は、心の臓を凍らせたんじゃないかしら」
「考えとしてはいいかもしれんな。つまり相手は氷を操ることができる妖怪ということか」
摺屋はそこまで言ってから、「しかし、阿弥陀如来さまも一緒にいらっしゃったが、どうして誰も触っていないはずなのに場所が変わっていたのだろうな」
あの後、隈なく周りを調べたが、妖気もなにもなかった。
「もしかしたら、遺体自体が動いていたとか」
「そんなわけがないだろ? 手足のない妖怪はそれだけでも相当強い部類にはいる。ましてや我々神仏が気付かないとなると余程の強さだ」
摺屋の言う通りだが、月は妙な気がしてならなかった。
「それなら、どうして萩元優香の胸は片方だけが壊死していたんだろうか」




